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エチカ 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
第四章 平成六年
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美紅

平成六年 琵琶湖大渇水


 玖一は、命名予定の名前を書いてくれた紙を、燐子に手渡してくれた。


()()

 え、可愛い、と燐子は言った。

「二人目が、もし女の子だったら、どうかな、と思って。紅子の『紅』、(こう)()の『紅』」

「美しい(べに)?えー、可愛い」


 想像力掻き立てられちゃう、と燐子は言った。


「色の名前って、素敵」

「そう?良かった」


 玖一は、にっこり笑って、言った。

「俺の祖父さん、(こう)()さんって『論語』から名前を取ったらしくて」

「論語」


 不味い、と燐子は思った。


 燐子は突然、此の話、玖一に説明スイッチが入ったら、終わるまでに燐子の集中力が持つか分からない、という危惧を抱いた。


 玖一は案の定続けた。


「『論語』に、『(くん)()(かん)(すう)(もっ)(かざ)りとせず、(こう)()(もっ)(つね)(ふく)()さず』っていうのが有るけど、其処から取った名前らしい。立派な人は服装にも気を遣う、くらいの意味。君子(くんし)っていうのが孔子の事」


「孔子」


―何か偉い人居たよね、そういう。


 ギリギリ分かるかも、と思いながら、燐子は、聞く気を無くすのを頑張って堪えた。


「其れで、『論語』の、其の一文から取って、名前が紅紫さん。昔は、紅色と紫は、高貴で貴重な色だったから」

「高貴な色」


 あ、いける、此処までは何とか分かる、と思いながら、燐子は堪えた。


 玖一は続ける。

「で、御祖父さんから取ったから、俺の母親が、紅子。娘は、美しい紅色、で、美紅」


 如何(どう)かな、と言う玖一に、燐子は、最高、と言った。

 ギリギリ、説明を全部、聞く気を無くさずに聞けた。

 もう既に半分以上内容は忘れたが。


「美しい紅色、凄く良い。紅子から取るって、なお良い」

 燐子が、凄く気に入った、と正直に言うと、玖一は微笑んでくれた。


 実際は、生まれた子供には、中学校一年生の時、学校の印刷物で『吉野(よしの)未来(みく)』と誤植され、心無い男子から『フューチャー吉野』というリングネームの様な渾名を付けられかけるという危機が訪れる。

 美紅は泣いて嫌がり、定着を恐れて、あわや登校拒否になりかけた。

 ところが、偶然にも美紅の同級生になっていたリョーコの娘の有紗(ありさ)が、当時出てきたての曲から取ったのだという、燐子には、よく分からない『みっくみく』という、本名より長い渾名で美紅を呼び、其のインパクトの強さから、其方(そちら)の渾名が、有紗と美紅の友情と共に定着してしまう。

 

 そんな事は、今は誰も知らない。




 十一月十日に生まれた二人目の娘は、飛鳥より大きく生まれた。


 三千五百グラム以上あった。

 飛鳥の時よりプリっとして、ガッシリした子だ、と燐子は思った。


 飛鳥の三歳の七五三が十一月十五日の予定だったが、燐子は、臨月で、晴れ着を飛鳥着せようにも、きちんとした服を自分が着ようにも、如何(どう)にもなりそうになかったので、飛鳥の七五三を一ヶ月ずらし、十二月に、生まれた子の御宮参りと合わせてしまおう、という事になった。そう決めてから一ヶ月後、予定日より五日遅く、陣痛が来たのだった。


 大変な事は大変だったが、二人目の御産は、一人目とは別物だった。

 飛鳥の時は、陣痛が始まってから破水まで、十五時間くらい掛ったので、病院に着いてからも十二時間くらい破水しなかったのだが、二人目は、陣痛が十分間隔になったので、慌てて病院に行ったら、着くなり破水して、()ぐ分娩台に直行だった。


 二人目も、痛いには痛かったが、飛鳥の時に比べると、気付いたら生まれていた、という感じで、初産の苦労は何だったやら、と燐子は思った。


 飛鳥の時より、御乳が良く出て、授乳も、(ほとん)ど苦労しなかった。

 此れが二人目か、と燐子は思った。 

 燐子が、赤ん坊という存在に慣れていた。

 今回は、新米ではないのだ。


「まぁ」

 病室で、生まれた女の子の名前を聞くや、預けていた飛鳥を抱いた(まま)の紅子が、喜びで泣いた。


「玖一に子供が、しかも二人も、って思うだけでも、()だ信じられないのに。あんな可愛い女の子の名前に、自分の字が入っているなんて。こんな嬉しい事、有るのねぇ」


 玖一は、微笑みながら、母さん、と言って、照れて赤くなった。

 綜一は、ニヤッと笑って、センス有るね、と言った。


「女の子二人共美人さんだし。こりゃまたモテモテになるね、玖一」


 良かったじゃない、と言って微笑む綜一に、玖一は、はい、と言って微笑み返した。


「親に喜んでもらえたり、褒めてもらえたりするっていうのは、何歳になっても嬉しいものですね」

「そっか、本当に、御前、俺から生まれたと思えないくらい、親思いの良い子だね」


 綜一は、そう言って、誇らしそうに笑った。

 燐子は、幸福な気持ちで、ベッドに横たわりながら、親子間の遣り取りを見ていた。


「本当に、二人も、よく、頑張って産んでくれて」


 両親が病室に到着するまで号泣していた玖一が、再び泣き始めた。

 紅子も、本当に、と言って泣いた。


 嬉し泣きする大人二人を見ながら、飛鳥は、赤ちゃん?と言った。


 綜一が、紅子の手から、飛鳥を抱き取って、言った。

「そうだよ。美紅ちゃんっていうの。あぁちゃんの妹だよ」

「あぁちゃん、あかちゃんみにいく」

「はいはい、一緒に行こうかね」


 飛鳥は、にっこり笑って、いってきまぁす、と言って、綜一に抱かれた(まま)、燐子に手を振った。

 燐子も、手を振り返した。

 紅子も玖一も、泣きながら笑って、飛鳥に手を振り返す。


 燐子は幸福だった。

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