求婚の真実
産後一ヶ月してから、床上げも済んで、燐子が、紅子と一緒に飛鳥の七五三と美紅の御宮参りの準備をしていると、綜一が、飛鳥と美紅を連れてやって来た。
紅子が、着物の用意をする作業中なので、孫娘二人を今部屋に入れないでほしい、と言うと、綜一に手を引かれた飛鳥が、おやつ、と言った。
飛鳥に甘い紅子は、全く困った様子も無く、仕方が無いわねぇ、と言って、作業を中断して、綜一達と一緒に台所の方に向かった。
綜一に大人しく抱かれた美紅が、薄目を空けた表情で、ジッと飛鳥の動きを目で追っている。
入れ替わりで、玖一が、やって来た。
玖一は、どれどれ、と言って、娘たちの晴れ着を確認した。
「うん、古いけど、良い晴れ着だな。思い出すなぁ」
「え?」
「覚えているかな?プロポーズの一日前。此処で君が振袖を着ていて」
「…うん」
燐子は、頬を染めた。
玖一も、少し赤くなった。
「懐かしいな。あの頃、俺、君を諦めないと、って、頑張っていた頃で」
「え?」
「生徒と何か有っちゃいけない、って思うのに、同居が始まったら、アッサリ、君の事好きになっちゃってさ。いや、女っ気の全くないところに、十八歳の女の子と、行き成り同居する事になったからね。今思うと、意識しない方が無理だったけど」
知らなかった、と燐子は、真っ赤になりながら言った。
そりゃね、と言って、玖一は笑った。
「生徒に手を出しちゃいけないのは勿論だけど、三十六歳の男から十八歳の女の子に言い寄って、気持ち悪いとか思われたら嫌だったから。絶対気付かれないようにしようって思って。でも、諦めきれなくて、距離を取らないと、って思って」
「え?」
「二年間離れていたら君の事諦められるかもって。二十歳になればさ、君だって、結婚したい相手ぐらい出来ているかもしれないし、って。きっと君は、充実した二年間を専門学校で過ごして、色んな事を学んで、世界が広がって、選択肢を増やすから。俺の知らない所で恋人とか出来ているかもしれないし、其れまで距離を置けば諦められるかも、って」
でも、と言って、玖一は赤くなった。
「二年経っても、君の事、諦められなかったら、其の時は駄目元でプロポーズしてみようって。…やっぱり、プロポーズするなら、定職に長く就いてたかったし。あの頃って本当、次の職場も決定じゃなかったから。二年くらい離れて、君が成人するまで千葉で頑張ってみようかな、短期間の契約じゃなくて正式採用されたら、今よりプロポーズし易くなるかもって」
「知らなかった…」
「そしたら、ビックリしたよね。急に君が、専門学校行かないって言い出して」
玖一は、赤い顔の儘、笑った。
「青天霹靂だよ。如何して、って思ったよね。あの…君って、偉いですね、とか、よく褒めてくれたからさ。本当に、其の、大人が、きちんと仕事していたら、何時もみたいに、偉いですねって言われるかと思っていたわけ。だから、次の仕事が、ちゃんと決まりそうだよって、早く君に言いたくて。で、言ったらさ。見た事無いくらい傷付いた顔されて。如何しちゃったのって、本当に思って」
燐子は、当時の気持ちを思い出した。
そうだった。
自分の事を見捨てたくなるくらい傷付いたのだ。
玖一は続ける。
「新しい学校に入ってさ、新しい世界を見てほしかったけど、でも、結局、こうなっちゃったなぁ。娘が二人だって。七五三と御宮参りだって。俺、未だ吃驚し通し。君に会ってから、ずっと」
「ずっと?」
「そうだよ。産休の先生の代わりに担任になってみたらさ、見た事無いぐらい長い髪の、でも、綺麗な子がいてさ。凄く浮世離れして見えた。吃驚した。なのにさ、其の子は、無遅刻無欠席、掃除時間の態度も真面目で、友達も沢山居てさ。ただ、聞けば聞く程、ハードな人生を送っていて。考え方も、今まで会った、どの生徒とも違っていて。兎に角存在が異質だった。で、目が離せない様な。不思議な高校生だったな。一番 吃驚したのは、やっぱりバイク事故だったけど」
「…ごめんなさい、あの時は、本当に」
玖一に叱られた、ほぼ唯一の事柄だった。
燐子は、未だに申し訳なく思っていた。
「あんなに心配させて、誕生日を病院で過ごさせて、あたし、本当に…」
「いや、後からさ、あの日、誕生日に、御嫁さんを貰ったのかも、って、思って」
「え?誕生日に?」
「うん。あの事故でさ、あの日に彼氏と別れたでしょ?結局」
「…まぁ、そうね」
結局、バイト先までケンがやって来た話は、玖一にはしなかったし、寄りは戻さなかったから、そういう事にはなるのだろう。
玖一は続けた。
「後になってからだけど、ああ、俺の誕生日に、未来の御嫁さんがフリーになったのか、って思って。流石に、彼氏が居た儘じゃ、俺と結婚しないから。で、ああ、あれは誕生日だったな、こんな事もあるのか、って、新鮮に吃驚したよね。そういや、同居の開始も、バレンタインデーだったっけ」
「…玖一さん」
「いやー、本当、吃驚しっ放し。三十六年、飲酒喫煙可の修道士みたいな生活だったのに、急にワンピース着た十八歳の女の子が、絵のモデルだ、とか言って、俺の生活圏をウロウロし始めたわけ。毎日どれだけドキドキしたか。言ったら気持ち悪がられるかも、と思って言わなかったけど。多分、あの時期、此れまでの人生で一番ドキドキしていたなぁ。そしたら母さんが、振袖が如何とか言い出すし、あの時は、あわやプロポーズしかけたね」
「え?」
「何だか、よく分かんないけど、あれは、俺としては、凄い非日常の体験でさ。生徒っていう、絶対好きになっちゃいけない女の人が、和服に囲まれて、振袖着て。其れで、何か、凄く寂しそうにしていて。もうね、ドキドキし過ぎて頭の中が忙しくなっちゃった。何を言ったら喜んでくれるかなって、頑張ったけど、全然上手い事言えないし。いやー、女の人を褒める才能、皆無だな、って思った」
玖一は、微笑みながら、覚えている?と言った。
「自分の御祖父さんにしてもらったみたいに、自分の子供を可愛がって。自分の子供に七五三とか、してあげて、晴れ着着せてあげて、子供に服、作ってあげて。気が向いたら、うちの両親にも会わせてやってよ、何て話、したよね。喜ぶよ、って」
「うん…」
「あの時俺が言った事、全部本当になったよ。何だって、言ってみると、何か変わるのかもね」
言うだけならタダだから、と燐子が微笑みながら言うと、玖一も笑い返してくれた。
「くまちゃんのホットケーキよー、おかぁさぁん」
突然、飛鳥が、燐子と玖一のいる和室に駆け込んできた。
最近飛鳥は、紅子が大小の形に焼いて、其れに綜一が、箸で穴を開けて顔を描く等して工夫したホットケーキが大好きなのだ。
今日も紅子に焼かせたらしい。
つくづく贅沢で、甘やかされた子供だ、と思うと、燐子は微笑ましくなる。
イタリアのティラミスだの、フィリピンのナタデココだのといった海外のデザートが日本に入って来て起きた流行は、此の東京郊外にも影響してきてはいたが、子供の愛する物は昔と変わらぬ素朴なおやつである。
そして其れは、祖父母の愛情が加えられて子供に供され、燐子の中でも、如何に自分の娘が可愛がられているかという事を知る材料の一つとなっていた。
燐子は幸福だった。
「ハチミチとねー、ヨーグルトとねー、ジャムとねー。かけるの」
飛鳥は未だ、蜂蜜と言えないので、ハチミチと言う。
綜一が勝手に工夫する味付けは、なかなかセンスが有る、と燐子は思っている。
いっしょにたべよ、と言って、飛鳥は、燐子の腕を引っ張って笑う。
「分かった、一緒に食べようか。お父さんの分は?」
燐子が、飛鳥を抱き上げながら、そう言うと、飛鳥は、そうねぇ、と言った。
「ちょっとちゃいろのやつあげる。あぁちゃん、こげてないのがいいから」
「焦げたの?珍しい」
燐子が、そう言うと、飛鳥が、あのねぇ、と言った。
「じぃじが、とちゅうからかってにハチミチ入れたからちゃいろくなりやすくなったって、ばぁばが。おとーさんは、つぶあん、すきだから、いっしょにだしてあげるね」
「其れは…良く言えば、分解された銅鑼焼き?」
玖一も、複雑そうな顔をして、そう言いながら立ち上がった。
粒餡まだ有った?と燐子が言うと、飛鳥は、ぜんざいののこりです、と、愛らしい声で答えた。
三人で廊下に出ると、確かに、何やら、ホットケーキと思しき甘い香りがしてきた。
燐子は幸福だった。




