第3話 高校生のアバンチュール
5月10日木曜日、午前7時45分。僕は菩薩のような顔をして、駅から学校への通学路を闊歩していた。昨晩の疲労を完全に取りきれなかったのだ。
いつも少し早めに学校へ向かっているので学生の人通りは少なく、平凡な一日の幕開けと言った雰囲気だった。
『今日こそ何もなさそうな一日だな。よし、そうであってくれ』
すると、誰かが背後から少し大きめな足音を立てて俊に近づいてくる。
「よっ! おはよう、俊」
『なんか来たな』
陽人は昨日とは打って変わって気さくな笑顔をして、僕に挨拶してきた。
「おう、おはよう妻帯者。今日はわりと早いんだな」
「……そろそろその呼び方は止めてくれ。生徒会で色々な」
僕ら二人は歩幅を合わせて歩みだす。
「それで、お前は今日も相変わらず菩薩みたいな顔してんな」
「これにはきっと阿修羅さんも怒りが鎮まるだろうな」
「……俊、お前はもっとシャキッとしろよ」
陽人はおちょくる意図で少し笑顔する。
「誰のせいでこんな重要文化財になっていると思っているんだ?」
「あ、あぁ……いつも悪いな。今回も無事にどうにかなったから」
陽人は作り笑いでその場をやり過ごす。
「じゃないと困る。お前の気が暗いと、こっちまでやられる」
僕らの間に沈黙のときが流れる。
「……それでなんだけどさ」
「なんだ?」
陽人は急に口元を小刻みに震わせるようになって、最後にはこう呟いた。
「……そろそろ潮時なんじゃないかなって思っているんだ」
「主語がない、主語が」
「……今日、香織と別れようと思っている」
辺りを車の通る摩擦音だけが包み込む。そして十数秒間、沈黙のときが訪れる。
「つまり、僕の今までの涙ぐましい努力は全部水の泡か」
「本当にごめん……。だ、だけど、これ以上俊にも迷惑かけられないし……」
陽人は顔を引きつらせる。そんな彼に、僕はくどくない位の笑顔を見せつける。
「ぱるは偉いな」
「え……?」
「香織さんはプライドが高い。誰がどう見てもそうだ」
「あぁ……そうだな」
「だけど、香織さんは案外自分でもそれを分かっている。ぱるに理想以上を求めてしまうプライドをな」
陽人は少し目を見開く。
「お、お前……まさか本人に聞いたのか?」
「そうだ。というか、香織さん本人から吐露してきたよ」
陽人は上唇と下唇を押し合って、感情を堪えようとする。
「なんか……お前と付き合った方が香織も幸せだと思う」
「それはない」
『……ちょっと嫉妬させたかな。そんなつもりはないんだけど』
「それは絶対にない……絶対にないけど、香織さんの存在は、お前にとって確実に負担になる」
「それは……!」
「ある。でも、それは二人だけのせいじゃない。仕方のないことなんだ」
陽人は僕の方に目線を向けつつ、瞳を潤ませる。
「無理をしないで別れたほうが、お互いにとっていいことなんだよ。そこに行き着いたお前は、真の人格者だな」
陽人はほんの少しだけ口元を曲げて、笑顔を垣間見せる。
「……流石は恋愛博士なだけあるな」
「たかが一回の交際経験でそう言われてもなぁ……」
「お前になら香織を託せるかもな」
「寝言は寝て言うもんだ」
午前8時35分、教室に着いて椅子に座ると、僕は香織とのトーク履歴を見返す。
「私っていつも彼氏に恵まれないのよね」
「恵まれないってなんだ?」 「浮気でもされたのか?」
「それはない」 「でも、カラオケで襲われそうになったことはある」
僕は身体中に鳥肌が立つ感覚を覚える。この文面には、なんどもおどろおどろしい感情を覚えさせられた。
『本当、なんでこんなにサラッと言えるんだよ……』
「そうか」 「辛い過去があったんだな」
「どうしても相手を外したくないっていうプライドがあるの」
「だから陽人の威勢が心配なのか」
「そうよ……」
僕は心の中で静かに頷く。
「気にすることはないな」 「ぱるは香織さん以外の女性に興味がない」 「僕にそう断言したことがあるから」
「……でも、今の私の気持ちはちょっと違うのよ」
「え?」
「私のプライドが陽人を押し潰しちゃうのが怖いのよ」
『……なるほどな』
「香織さんは優しいんだな」
「……私とぱる、別れたほうがいいのかな」
「それは自分で考えないと」 「僕の言葉だけに頼られても困る」
「分かった」
僕はリュックから水筒を取り出して、一口それを含む。地肌を見ると、鳥肌はもう解消されていた。
午後12時35分、昼休みになって、僕は友人の文明と二人で昼食を貪っていた。
『陽人、途中で萎縮して中途半端に別れ話を進めたりしないかなぁ……』
文明はボーッと僕の顔を見つめる。
「どうしたの、俊……。苦虫を噛み潰したような顔しちゃってさ」
「そ、そんな顔しているように見えるか?」
「うん。“ありあり”とそう見える」
僕は文明の顔を見つめ、数秒間黙って考えごとをする。
「そんな“まじまじ”と見つめないでよ……」
「なぁ、文明」
「どうしたの?」
「たとえ話として聞いてほしいんだけどさ」
「う、うん」
「急に一年半付き合っている彼氏に別れを告げられたらどうする?」
「か、彼女側の立場に立つってこと……?」
「つまりはそういうことだな」
「そうだね……」
文明は腕を組んで目を瞑り首を傾げた。
「多分、“ぼちぼち”死ぬと思うよ」
「……さっきから反復する表現ばっかりだな」
「あはは……最近のマイブームなもんで」
文明は頭に手を携えて小刻みに揺れながら笑う。
「でも、どうせ文明のことだから、多分死ぬって言うんだろうとは思っていた」
「……それならなんでそう言わせるような質問をしたのさ」
「極浅い意味はないよ」
「超深い意味があるんだね……」
「マリアナ海溝もビックリするぐらいのな。まぁ、次期に分かると思うよ」
「なるほど……?」
『重大な局面で人の意思って、そう簡単には変わらないもんだよな』
僕は一種の確信を持ってわずかに頷き、次の言葉のために、顔を無表情にする。
「で、いつもそうだけどさ、そう易々と死ぬなんて言うなよ」
「と、唐突だね」
「いや、いつも言っているだろ……自己肯定しないとって」
「人格否定なら得意だけど……」
文明は少し眉をしかめながら、無理矢理に笑みを浮かべる。
「そうは言ってもお前、実家の和菓子屋、継ぐんだろ?」
「……うん、それはそうだけど」
「和菓子屋に信用って付きものじゃないのか?」
「大事……だね。自分のためにも、地域のためにも」
『誰かさんが別れたら、それなりに時間もできるだろう』
僕は深呼吸をしたのち、それなりの笑顔を示す。
「分かった。僕が変えられるだけ変えてみせるよ。お前の卑下に満ちた根性をな」
「それはありがたいけど……変われるもんなのかな」
文明はさっきよりも眉をしかめ、真顔との間くらいの笑顔をする。
「そこはなんとかなるのが《《運命》》ってもんだ」
「《《運命》》かぁ」
文明は運命という言葉にしんみりした様子で、澱みのない笑顔に変わる。
「やっぱりいいね。俊の発想って」
「国民がみんなこの発想でいてくれたらいいんだけどなぁ」
「それはそれでこの国が崩壊すると思うけど……」




