第2話 バターの手
花森が先に来ていた。
午後一時の十分前。角田が長谷川から戻ると、花森がいつもの椅子に座っていた。カフェラテのストローを咥えたまま、スマートフォンを見ていた。椅子を並べ替えていた。二脚を机の前に。花森は横の椅子にいた。
「早いですね」
「だって初めて一緒にお仕事するんですよ。ちゃんとしないと」
花森がストローを離した。カフェラテを机の角に置いた。スマートフォンをバッグにしまった。出した。またしまった。
角田は手帳を開いた。先日メモした項目を確認した。「飲食店営業許可。菓子製造及び販売。店舗所在地。面積。内装工事完了予定:三月頭」。赤ペンの蓋を開けた。
ドアが開いた。
女性が入ってきた。三十代前半。黒いダウンコート。髪をひとつに束ねている。目が丸い。小柄だった。
「すみません、花森先生にご紹介いただいて」
花森が立ち上がった。「美咲さん! こっちです!」。高橋美咲。配偶者ビザの元依頼人。花森が通したビザ。
男が後から入ってきた。
痩せていた。背が高かった。角田より十センチは高い。髪は茶色で短く刈っている。顎が細い。目が青かった。ダウンジャケット。ジーンズ。スニーカー。片手にビニール袋を持っていた。
「リュカです」
日本語だった。短かった。美咲が隣で微笑んでいた。
「行政書士の角田です。よろしくお願いします」
角田が名刺を渡した。リュカが受け取った。名刺を見た。漢字を読もうとしていた。読めなかった。美咲が「す・み・た、って読むんです」と言った。
「スミタ」
リュカが言った。角田は頷いた。
リュカが右手を出した。握手。角田がその手を握った。
大きかった。指が長かった。爪が短く切ってある。爪の間に白い粉が残っていた。小麦粉かバターか。手のひらが厚かった。朝、仕込みをしてから来たのだろう。バターの匂いがした。
丸山社長の手を思い出した。丸山社長の手は地面を掘る手だった。リュカの手は生地をこねる手だった。どちらも厚かった。厚さの種類が違った。
四人が座った。角田が向かいに。リュカと美咲が机の前の二脚に。花森が横に。
*
角田が聞いた。美咲が通訳した。リュカが答えた。美咲が訳した。角田が書いた。
「店舗の営業形態を教えてください」
菓子の製造及び販売。テイクアウト専門。イートインなし。
「製造する品目は」
リュカがフランス語で答えた。美咲が訳した。アントルメ。タルト。ムース。パート・ド・フリュイ。角田はカタカナで書いた。一つずつ。
「製造と販売の時間帯は」
朝七時から仕込み。十一時開店。十九時閉店。
「従業員は」
リュカと美咲の二名。アルバイトは当面雇わない。
「食品衛生責任者の資格はお持ちですか」
美咲がリュカに訳した。リュカが首をかしげた。美咲が角田を見た。
「持ってないです。リュカはフランスの製菓学校を出てるんですけど、日本の資格は取ってなくて」
「講習を受けてもらう必要があります。一日の講習で取得できます」
「日本語の講習ですよね。主人は日本語が……」
「外国語対応の講習があるか確認します。なければ美咲さんが同伴で受講する形になります」
角田は手帳に書いた。「食品衛生責任者講習。外国語対応要確認。妻同伴の可能性」。
「図面は届いていますか」
花森がクリアファイルからA3のコピーを出した。角田が受け取った。広げた。
厨房の配置。シンク。作業台。オーブン。冷蔵庫。冷凍庫。手洗い。排水溝。角田は赤ペンを持ったまま図面の上をなぞった。書き込みはしなかった。手帳にメモを取った。「シンク二槽。手洗い——位置要確認。排水溝——グレーチング記載なし」。
花森が角田の手帳を覗き込んだ。依頼人が来ている時の花森は覗き込む。角田が何を気にしているか知りたい顔をしていた。角田は何も言わなかった。
「もう一つ。開業届の屋号を決めてください。届出に必要です」
美咲が訳した。リュカが即答した。
「Atelier Luca」
角田が手帳を開いた。赤ペンの蓋を開けた。「Atelier Luca」と書いた。蓋を閉めた。
花森が「素敵な名前ですね」と言った。角田は何も言わなかった。
*
角田の質問が終わった。赤ペンの蓋を閉めた。
花森が前に出た。
「リュカさん、一つ聞いていいですか」
美咲が訳した。リュカが花森を見た。
「何が一番得意ですか」
行政書士の質問ではなかった。角田は手帳を閉じようとした。閉じなかった。
リュカが答えた。フランス語。長かった。手が動いた。空中で何かの形を作った。丸い形。平たい形。層になっている形。リュカの目が変わった。さっきまでのカタコトの緊張が消えた。目が光っていた。職人の目だった。角田が書類を見る時の目と同じ種類の目だった。
美咲が訳した。
「タルト・タタンが一番好きだって。逆さまに焼くタルト。りんごをキャラメリゼして、生地を上から被せて焼いて、ひっくり返す。失敗したら全部崩れる。一回で決めないといけない。それが好きだって」
一回で決める。角田はその言葉を聞いた。手帳には書かなかった。
花森がもう一つ聞いた。
「日本のお菓子で好きなものは」
リュカが少し考えた。
「ドラヤキ」
美咲が笑った。花森も笑った。角田は笑わなかった。
*
四人で事務所を出た。
花森が「お昼行きましょう」と言った。角田は長谷川に行くつもりだった。だが四人だった。長谷川のカウンターに四人は入らない。
花森が歩き出した。「いいお店知ってるんです」。角田がついていった。リュカと美咲もついていった。花森が先頭。角田が最後尾。
花森が選んだ店は洋食屋だった。テーブル席がある。四人で座れた。
メニューが来た。花森がハンバーグを頼んだ。美咲がオムライスを頼んだ。リュカがメニューを見ていた。写真を指さした。ナポリタン。
角田はメニューを見た。ハンバーグ。オムライス。ナポリタン。エビフライ。生姜焼き定食。
角田は生姜焼き定食を頼んだ。七百五十円。
「角田先生、洋食屋で生姜焼き定食なんですね」
「定食がありましたので」
飯が来た。リュカが割り箸を手に取った。割った。箸を持った。ぎこちなかった。美咲が「フォークもらおうか」と言った。リュカが首を振った。箸でナポリタンを掴もうとした。滑った。もう一度掴んだ。持ち上げた。口に運んだ。ぎこちなかったが食べた。
角田はリュカの手を見ていた。パティシエの手が箸と格闘していた。フォークなら正確に動く手が、箸では不器用だった。道具が変わると手が変わる。
角田は生姜焼きを食べた。甘かった。味噌汁を飲んだ。全部飲んだ。漬物を食べた。定食の全部を食べた。
花森がリュカの妻と話していた。フランスの話。出会いの話。角田は聞いていた。メモはしなかった。飯の場では赤ペンを出さない。
食後。リュカがビニール袋を持ち上げた。中から白い箱を出した。テーブルの上に置いた。
「コレ。ツクリマシタ」
美咲が訳した。「試作品を持ってきたんです。食べてもらいたいって」
箱を開けた。中にタルトが一つ入っていた。小さいタルト。手のひらに載る大きさ。表面にりんごが並んでいた。キャラメル色。照りがあった。バターと砂糖が焦げた匂いがした。
「タルト・タタン」
リュカが言った。さっき一番好きだと言った菓子。リュカがビニール袋からナイフと紙皿を出した。四人分。用意してきていた。
リュカがタルトを切った。四等分。正確だった。同じ大きさ。パティシエの手。箸は不器用だったが、ナイフは迷わなかった。
角田がフォークで一切れ取った。口に入れた。
甘かった。りんごの酸味とキャラメルの苦味が混ざっていた。生地がさくさくしていた。バターが溶けた。生姜焼き定食の後にフランス菓子を食べている。角田の人生で初めてのことだった。
二口目。三口目。全部食べた。
「おいしいです」
リュカが笑った。初めて笑った。目が笑っていた。目だけではなかった。全部笑っていた。全部が本物だった。
花森が食べていた。目を閉じていた。「おいしい」と三回言った。美咲が「よかったね」とリュカに言った。リュカが美咲に何かフランス語で言った。美咲が少し赤くなった。花森が「何て言ったんですか」と聞いた。美咲が「内緒です」と言った。
角田は紙皿を重ねた。
*
事務所に戻った。一人だった。
手帳を開いた。今日のメモを読み返した。赤い字が並んでいた。営業形態。品目。従業員数。食品衛生責任者。図面の確認事項。屋号。仕事に必要な事実が並んでいた。
花森が聞いたこと。タルト・タタン。ドラヤキ。一回で決めないといけない。手帳には書いていなかった。仕事のメモではなかったから。
角田は図面をもう一度広げた。赤ペンの蓋を開けた。今度は書き込んだ。シンクの横に「二槽✓」。手洗いの位置に「要確認」。排水溝に「グレーチング記載なし→業者に確認」。
リュカの手を思い出した。バターの匂い。あの手がタルトを焼く。箸はぎこちなかったが、ナイフは正確だった。角田の手は赤ペンを持つ。違う手だった。だが爪が短いのは同じだった。
赤ペンの蓋を閉めた。




