第10話 帰還
六日目。朝。新大阪駅。
角田と黒田はコンコースを歩いていた。新幹線の改札に向かっていた。人が多かった。スーツケースを引いている人。紙袋を持っている人。大阪を出る人間の群れ。
黒田が立ち止まった。
「ちょっと待て」
行列があった。551蓬莱。赤い看板。豚まんの匂いがしていた。蒸気が出ていた。行列は二十人ほどだった。
黒田が並んだ。角田は並ばなかった。行列の横に立った。鞄を足元に置いた。
隣にもう一つ行列があった。りくろーおじさんの店。チーズケーキ。焼きたてが棚に並んでいた。丸い。黄色い。揺れていた。
角田は揺れているチーズケーキを見ていた。
「黒田さん」
「おう」
「隣のチーズケーキが揺れています」
「りくろーだ。買うか」
「いいえ」
「じゃあ見てろ」
角田は見ていた。チーズケーキが揺れていた。焼きたてだから揺れる。冷めたら止まる。角田はそれを確認するように見ていた。三個目が棚に並んだ。まだ揺れていた。店員がチーズケーキの上面に焼印を押した。りくろーおじさんの顔。帽子をかぶったおじさんの顔が、揺れるチーズケーキの上で歪んだ。冷めたら真っ直ぐになるのだろう。角田はそこまで確認したかったが、黒田の順番が来た。
黒田が豚まんを買った。紙袋。温かかった。
「行くか」
「はい」
*
十時ののぞみ。東京行き。窓側が角田。通路側が黒田。行きと同じ配置。
黒田が紙袋を開けた。551の豚まん。匂いが広がった。肉と玉ねぎと皮の匂い。車両の中に匂いが混ざった。前の席の人が一瞬振り返った。
「食うか」
「弁当を買ってあります」
角田が鞄から弁当を出した。幕の内弁当。六百六十円。黒田は豚まんを食べながら鯖寿司も出した。
被らなかった。
黒田が豚まんを一つ角田に渡した。角田は受け取った。温かかった。噛んだ。皮が厚い。肉が詰まっている。甘い。大阪の味だった。角田は豚まんを全部食べた。幕の内弁当も全部食べた。
窓の外。住宅地が続いていた。大阪の街が薄くなっていった。
手帳を出した。赤ペンの蓋を開けた。蓋を閉めた。書くことがなかった。赤ペンの蓋がいつもより軽かった。インクが減っている。大阪で書きすぎた。
眠ったのかもしれない。気がつくと窓の外が変わっていた。
富士山が見えた。行きと同じ富士山。反対から見ている。
角田は見た。三秒。行きは一秒だった。通天閣と同じ長さ。
黒田が窓の外を見ていた。缶コーヒー微糖を飲んでいた。
「また来ることになるかもな」
角田は黒田を見た。黒田は窓の外を見たままだった。
「大阪にですか」
「ああ」
それだけだった。角田は聞かなかった。黒田は言わなかった。富士山が過ぎた。
*
東京駅。ホームに降りた。
「お疲れ」
「お疲れさまでした」
「報告書、ちゃんと出せよ」
「もう送りました」
「……そうか。大阪で書いたのか」
「はい」
黒田が角田を見た。角田は前を向いていた。
「お前、変わったな」
「何がですか」
「いや。なんでもない」
黒田が手を上げた。角田は頭を下げた。黒田は八重洲口の方に歩いていった。角田は総武線の地下ホームに降りた。錦糸町。北口を出て歩いた。
大阪では同じ部屋にいた。東京では別々だった。
*
事務所。鍵を開けた。六日ぶりだった。空気が冷たかった。窓を閉め切っていた。角田は窓を開けた。三月の風が入った。大阪より冷たかった。
郵便物が溜まっていた。封筒が五通。角田は机の上に並べた。
一通ずつ開けた。依頼人からの書類返送。請求書。DM。
行政書士会からの封書。研修案内。案内の中にチラシが一枚挟まっていた。「行政書士で成功する! 独立開業セミナー」。派手な色。顔写真入り。角田はチラシをゴミ箱に入れた。
五通目。手書きの封筒。「角田先生」。差出人は佐伯。古い案件のファイルのコピーが三枚。付箋に「確認してほしい」。佐伯の字がいつもより小さかった。角田はコピーを机の上に置いた。明日読む。
鞄を開けた。蛸壺を出した。机の上に置いた。口が広い。底が深い。六日間、鞄の底にあった。
赤ペンを手に取った。蛸壺に入れてみた。立った。まっすぐ立った。ちょうどいい太さだった。
角田はしばらく見ていた。赤ペンを取り出した。手帳のクリップに戻した。蛸壺は机の端に置いた。空のまま。佐伯のコピーの隣。場所は決まった。中身はまだ決まっていない。
*
長谷川。
暖簾をくぐった。カウンター。いつもの席が空いていた。座った。
「かけで」
かけが来た。丼。湯気。鰹出汁の匂いが立った。
大阪で六日間、角田は色々な匂いを嗅いだ。551の豚まん。串カツのソース。お好み焼きのソース。たこ焼きのソース。きつねうどんの昆布出汁。岸本と行った店の刺身と西京焼き。全部大阪の匂いだった。
長谷川の匂いはそのどれとも違った。鰹と醤油。それだけだった。それだけでよかった。
一口食べた。長谷川の蕎麦だった。三百八十円。いつもの量。いつもの温度。いつもの角田の場所だった。
汁を飲んだ。
全部飲んだ。
丼の底が見えた。六日間離れていた底だった。大阪の出汁とは違う底だった。角田はこの底を知っていた。大阪では半分。長谷川で全部。
丼を置いた。三百八十円を出した。
「ごちそうさまでした」
店を出た。本所の夜。三月の風が冷たかった。大阪は少し暖かかった。街灯の下を歩いた。いつもの道だった。六日ぶりのいつもの道。何も変わっていなかった。角田の靴音だけが鳴っていた。東京に戻った。
事務所に戻った。蛸壺が机の端にあった。空のまま。赤ペンは手帳のクリップに挟まっていた。
角田は手帳を開いた。大阪の二ページ半を見た。赤い字が並んでいた。四日目の夜だけ空白だった。手帳を閉じた。赤ペンの蓋を確認した。閉まっていた。
次の仕事があった。
*
串カツの法則。
二度漬け禁止。一度で決める。
角田はそれを知った。




