第9話 蕎麦
五日目。
角田はホテルの部屋でパソコンを開いた。報告書。結論の欄が空白だった。東京で書くと決めていた。距離を置いてから書く。大阪にいる間は事実を集める。結論は冷静になってから。
そう決めていた。
角田は結論を書き始めた。大阪で。
昨夜、岸本が名義貸しを提案した。角田は断った。断った瞬間に、角田の中で何かが閉じた。岸本への判断が確定した。もう東京まで待つ必要がなかった。事実は揃っている。冷静かどうかは関係ない。事実が揃えば結論は出る。
手帳を開いた。赤ペンのメモを順番に読んだ。初日から昨日まで。赤い文字がびっしり並んでいた。昨夜のメモだけがなかった。
結論を打った。
「以上の調査結果を踏まえ、現時点での営業所新設および浪速建設株式会社との取引開始は推奨しない。」
一文。角田の報告書の結論はいつも短い。事実の列挙が長く、結論が短い。書類は事実を語る。結論は事実が決める。角田が決めるのではない。
報告書を読み返した。手帳を横に置いて、赤ペンで手帳に「✓」を入れていった。報告書に書いた事実と、手帳のメモを照合した。報告書に含まれていない事実がないか。
名義貸しの件。報告書に入れるか。
入れなかった。名義貸しの提案は角田個人に対するもの。丸山建設への報告書に書く内容ではない。角田は自分のことと依頼人のことを分ける。
報告書をPDFに変換した。メールの画面を開いた。丸山社長のアドレス。件名を打った。「調査報告書の送付」。本文は短かった。
「丸山建設株式会社 丸山社長 平素よりお世話になっております。大阪営業所新設に関する調査報告書を添付いたします。ご確認のほどよろしくお願いいたします。ご不明な点がございましたらご連絡ください。角田行政書士事務所 角田」
送信ボタンを押した。パソコンを閉じた。赤ペンの蓋を確認した。閉まっていた。
角田の大阪の仕事が終わった。
*
黒田がベッドに座っていた。テレビは消えていた。角田がパソコンを閉じるのを見ていた。
「送ったか」
「送りました」
「終わりか」
「はい」
黒田が缶コーヒー微糖を飲んだ。全部飲んだ。空き缶をゴミ箱に入れた。
「五日か」
「はい」
「長かったな」
「五日です」
「……もっと長く感じた」
黒田は窓の外を見ていた。大阪の空。曇っていた。角田は黒田を見なかった。手帳を閉じていた。
*
午後。丸山社長から電話が来た。
「先生。報告書、読みました」
丸山社長の声が小さかった。いつもの丸山社長の声ではなかった。
「はい」
「全部分かりました。岸本さんとの話は、やめます」
角田は黙った。二秒。
「分かりました」
「先生に見てもらわなかったら、そのまま行ってました。営業所も出して、浪速建設の下に入って。……先生の報告書読んで、目が覚めました」
「報告書を読んでいただけたなら、それで十分です」
「先生。大阪までありがとうございました。本当に」
「仕事です」
電話を切った。角田はスマートフォンをベッドの上に置いた。
黒田がソファに座っていた。
「止まったか」
「止まりました」
「よかったな」
「はい」
角田の「はい」がいつもと同じだった。特別な「はい」ではなかった。仕事が一つ終わった時の「はい」。角田にとって、それだけだった。
*
夕方。大阪最後の夜。
「何が食いたい」
「蕎麦を食べたいです」
黒田が角田を見た。
「大阪で蕎麦か」
「はい」
「お前、大阪に蕎麦食いに来たのかよ」
「いいえ。仕事に来ました」
角田がスマートフォンで店を探した。大阪で角田が店を選ぶのは初めてだった。串カツも、うどんも、お好み焼きも、たこ焼きも、全部黒田が選んだ。角田が初めて選ぶ。蕎麦を選んだ。
店に入った。カウンター。十二席。角田がもりそばを頼んだ。黒田がざるそばを頼んだ。
被らなかった。
ひっぱりだこ飯は被った。きつねうどんも被った。最後の夜は被らなかった。もりそばとざるそば。似ているが違う。海苔があるかないか。角田は海苔がない方を選んだ。最小構成。
蕎麦が来た。
角田は蕎麦を箸で持ち上げた。汁に少しだけ浸けた。食べた。
蕎麦だった。蕎麦は蕎麦だった。だが長谷川の蕎麦ではなかった。麺が違う。汁が違う。蕎麦の香りが違う。同じ蕎麦なのに同じではなかった。角田は二口目を食べた。三口目。四口目。蕎麦を全部食べた。
汁を飲んだ。
半分。
残りは残した。
「どうだ」
「蕎麦は蕎麦です」
「長谷川と比べてんだろ」
角田は答えなかった。蕎麦湯を頼んだ。蕎麦湯が来た。汁に足した。薄くなった汁を飲んだ。これも半分残した。
黒田はざるそばを全部食べて、汁も全部飲んだ。
「お前、大阪の飯は全部食べるのに、汁だけ残すんだな」
角田は箸を置いた。
「……汁は、比べてしまいます」
黒田が角田を見た。角田は空になったざるを見ていた。
*
店を出た。大阪の夜。五日目。最後の夜。
ホテルに戻った。荷物をまとめた。角田の鞄。クリアファイル。手帳。赤ペン。パソコン。蛸壺。たこ焼きのパックは昼に捨てた。ホテルのゴミ箱に。適切なゴミ箱が見つかったから。
角田が手帳を開いた。大阪のメモ。初日から五日目まで。赤い字が二ページ半に並んでいた。四日目の夜だけ空白だった。
手帳を閉じた。赤ペンの蓋を確認した。閉まっていた。
明日、帰る。
黒田がベッドに横になっていた。テレビをつけていた。大阪のニュース。角田はベッドに座って、鞄の中を確認した。蛸壺を手に取った。軽かった。空の蛸壺。中に何も入っていなかった。
「黒田さん」
「おう」
「明日の新幹線、何時にしますか」
「十時ので。昼前に東京着く」
「はい」
角田は蛸壺を鞄に戻した。明日、東京に持って帰る。長谷川のかけを食べに行く。汁を全部飲む。
そう思った。手帳には書かなかった。




