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書類は嘘をつかない  作者: 青柳 玲夜(れーやん)
串カツの法則

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第8話 懐柔

 夕方。角田のスマートフォンが鳴った。知らない番号。大阪の市外局番。


 出た。


「先生! 岸本です。浪速建設の」


 声が大きかった。明るかった。初日の応接室と同じ声だった。


「まだ大阪におりますか」


「はい。明日帰ります」


「ちょっとお話ししたいことがありまして。今晩、お時間もらえませんか。ご飯でも」


 角田は黒田を見た。黒田はベッドで競馬新聞を読んでいた。黒田が角田を見た。角田は受話器を少し離して「岸本さんから食事の誘いです」と言った。


 黒田が首を振った。小さく。角田にだけ分かる動き。


「何時ですか」


「七時。場所はこっちで用意しますわ」


「分かりました。伺います」


 電話を切った。黒田がベッドの上で競馬新聞を閉じた。


「お前一人で行け。俺が行くと岸本が喋らない」


「はい」


「気をつけろ」


「何にですか」


「飯に」


 黒田は競馬新聞を開き直した。角田はコートを着た。



        *



 中央区。岸本が指定した店。路地を入ったところにある。看板が小さい。引き戸。中に入ると靴を脱ぐ。座敷。個室。二人分の席が用意されていた。


 岸本が既に座っていた。スーツ。ジャンパーは着ていなかった。応接室の時より身なりが整っていた。


「先生、来てくれはりましたか。忙しいのにすんません」


「いえ」


 角田は座った。座布団が厚かった。テーブルの上に突き出しが並んでいた。小鉢が三つ。ビールが来た。岸本がグラスに注いだ。角田の前にも置いた。


「ウーロン茶をお願いします」


「先生、一杯くらいええやないですか」


「仕事の後なので」


「堅いなぁ」


 四度目の「堅い」だった。応接室で三回。居酒屋で一回。岸本の「堅い」は数が増えるほど力が入っている。角田はウーロン茶を待った。


 岸本が注文した。刺身の盛り合わせ。天ぷら。焼き魚。角田には聞かなかった。全部岸本が決めた。


 最初は雑談だった。大阪の天気。建設業界の話。最近の物価。岸本はよく喋った。声が大きかった。だが応接室の時より柔らかかった。個室。二人きり。岸本の声が壁に反射していた。


 刺身が来た。角田は箸をつけた。鯛。ハマチ。甘えび。角田は食べた。出されたものは食べる。


 岸本が本題に入った。


「先生、丸山さんの営業所の件、どうですか。ちょっと厳しいですか」


「報告書にまとめています」


「まぁまぁ、報告書は報告書として。先生に相談したいことがあるんですわ」


 岸本が身を乗り出した。テーブルの小鉢が揺れた。応接室と同じ距離。


「温泉開発の件ね、ちゃんと進めようと思ってます。掘削許可も出します。計画書も作ります。先生に言われた通り、順番にやります」


「そうですか」


「ただね、許可申請には行政書士の先生が要るんですわ。大阪にも行政書士はおりますけど、温泉のこと分かってる先生はなかなかおらん。先生は温泉の経験があるって言うてましたやろ。先生に頼めませんか」


 角田はウーロン茶を一口飲んだ。


「報酬はちゃんと出しますよ。交通費も全部うちで持ちます。営業所の件とは別で。先生個人にお願いしたい」


「丸山建設の件とは別ということですか」


「そうです。先生と直接。丸山さんの話とは関係なく」


 角田は岸本を見た。岸本の目。口は笑っている。目も笑っている。串カツの時の目に似ていた。だが違った。串カツの時は力が抜けていた。今は力が入っている。笑顔を作る力。


「温泉法の掘削許可申請は、計画書と環境調査が先です。計画書が存在しない段階で申請代行をお受けすることはできません」


 角田は天ぷらを一つ食べた。海老。衣が薄い。うまい店だった。


 岸本の顔が一瞬動いた。すぐ戻った。笑顔。


「なるほどなぁ。先生は筋を通す人やなぁ。ほな、もう一つだけ。ちょっとお願いしたいことがあるんですけど」


「何ですか」


「うちの事業計画にね、先生の名前を入れさせてもらえませんか。監修って形で。先生が実際に何かする必要はないんです。名前だけで——」


「お断りします」


 間がなかった。岸本の文が終わる前に角田の答えが出た。


「先生」


「行政書士の名前を実態のない事業に貸すことはできません」


 角田の声は変わらなかった。応接室で「順序が逆です」と言った時と同じトーンだった。事実を言っているだけだった。だが岸本に対する答えとしては、扉を閉める音がした。


 岸本の目が変わった。応接室で二回変わった。居酒屋で三回目。今度は長かった。笑顔が消えて、戻るまでに五秒かかった。応接室では三秒だった。


「先生は堅いなぁ。ほんまに堅い」


 五度目。岸本の声が低くなっていた。「堅い」の音が変わっていた。最初の「堅いなぁ」と同じ言葉だった。だが同じではなかった。


「……まぁ、ええですわ。今日は飯食いましょう。仕事の話はここまでにしましょう」


 岸本が笑った。目が笑っていなかった。応接室の時と同じ目だった。


 角田は焼き魚を食べた。西京焼きだった。甘かった。


 飯が終わった。岸本が全部払った。角田が出そうとした。


「ここは僕が」


「先生、水くさいこと言わんでください。こっちが誘ったんやから」


 角田はそれ以上言わなかった。岸本が払った。角田は金額を聞かなかった。


 店を出た。路地。大阪の夜。四日目。


「先生、また大阪来てくださいよ。仕事抜きで。串カツでも食べましょう」


 岸本が笑った。串カツの話をする時だけ、目が笑った。応接室の時と同じだった。串カツの時だけ岸本は素になる。


「ありがとうございます」


 角田は頭を下げた。岸本がタクシーに乗った。角田は歩いた。ホテルまで歩けた。


 大阪の夜。人が多い。騒がしい。角田はコートのポケットに手を入れた。手帳があった。赤ペンがあった。出さなかった。


 書くことがなかった。


 岸本が言ったことは全部分かっていた。仕事を餌にすること。名義貸しを求めること。断ったら距離を変えること。角田の赤ペンは新しい事実にしか動かない。今日は新しい事実がなかった。


 ホテルに着いた。エレベーター。手帳を出さなかった。


 部屋に戻った。黒田がベッドで缶コーヒーを飲んでいた。微糖。テレビがついていた。音が小さかった。


「どうだった」


「名義貸しを提案されました」


「断ったか」


「はい」


「飯は」


「刺身と天ぷらと焼き魚でした。西京焼きが甘かったです」


「うまかったか」


 角田はコートを脱いだ。ハンガーにかけた。


「……出されたものは全部食べました」


 うまかったかどうかは答えなかった。黒田はそれ以上聞かなかった。テレビのチャンネルを変えた。


 角田がパソコンを開いた。報告書の結論欄。まだ空白。明日、東京に帰る。結論は事務所で書く。


 手帳を開いた。赤ペンのメモを読み返した。初日から今日まで。居酒屋のメモはなかった。四日間の赤い文字の列が途切れていた。最後のメモは今朝の「浪速建設——丸投げの構造」だった。


 角田は手帳を閉じた。蓋を確認した。閉まっていた。

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