第3話 浪速建設
ビルは立派だった。
中央区。十二階建て。ガラス張りのエントランス。受付に女性が二人いた。角田が名刺を出した。
「三時にお約束しています。角田行政書士事務所の角田です」
「お待ちしておりました。四階の応接室にご案内します」
エレベーターで四階に上がった。廊下が広い。床がピカピカしている。東成区のビルとは違う。角田は廊下の幅を見た。すれ違いに余裕がある。壁にはゴルフコンペの写真が並んでいた。岸本と書かれた名札をつけた男が、トロフィーを持って笑っていた。
応接室。革張りのソファ。テーブルの上に花が活けてある。窓から大阪の街が見える。角田は窓を見なかった。ソファに座った。黒田が隣に座った。
受付の女性がお茶を持ってきた。角田は「ありがとうございます」と言った。黒田は何も言わなかった。
三分待った。
ドアが開いた。
*
「いやぁ、お待たせしました!」
声が先に来た。体が後から来た。
岸本。五十代半ば。中肉中背。日焼けしている。ゴルフか現場か、あるいは両方。髪を後ろに撫でつけている。スーツの上にジャンパーを羽織っている。現場から戻ってきたのかもしれない。
岸本が角田の前に座った。座り方が近い。テーブルを挟んでいるのに、身を乗り出してくる。
「角田先生。東京からわざわざ来てくれはったんですか。ほんまにまじめやなぁ」
「営業所の事前調査です」
「堅いなぁ。まぁまぁ、楽にしてください」
岸本がポケットから缶コーヒーを二本出した。微糖。角田の前に一本置いた。
「すんません、うちのお茶より缶コーヒーの方がうまいんですわ」
黒田が自分の缶コーヒーを見た。同じ銘柄だった。黒田はすでに飲んでいた。ビルの前で買った缶コーヒーの空き缶は捨てたはずだが、岸本が同じものを出した。
角田はお茶を飲んだ。缶コーヒーには手をつけなかった。
「黒田さんは? 先生のお仲間で?」
「同行の黒田です」
「黒田さん。どうも、岸本です」
黒田が「どうも」と言った。名刺は出さなかった。岸本が一瞬、黒田を見た。黒田は缶コーヒーを飲んでいた。岸本はすぐに角田に向き直った。
*
「それで先生、丸山さんの営業所の件ですけどね」
岸本が喋り始めた。速い。よく喋る。声が大きい。笑顔。身振り手振り。角田の方に身を乗り出す。テーブルの上の花が揺れた。
「うちは今、温泉開発の案件を持ってましてね。関西の山の方に温泉が出る土地がありまして。ええ土地なんですわ。リゾート開発。インバウンドも見込める。もう話がだいぶ進んでましてね」
角田は聞いていた。手帳は出さなかった。赤ペンも出さなかった。応接室では出さない。
「ただね、さく井がいるんですわ。温泉を掘らなあかん。うちはさく井の技術者がおらんのです。大阪にもさく井の業者はおりますけど、腕がなぁ。丸山さんの評判は前から聞いてましてね。東京のさく井屋で、腕がええって。丸山さんにこっちに来てもらえたら、うちが面倒見ますから」
「面倒を見る、というのは」
「仕事を回す。うちの下請けとして。営業所の段取りもうちでやりますし。もう物件も見つけてありますやろ」
「東成区の物件は確認しました」
「どうでした? ええ物件やったでしょう」
「いくつか確認事項があります。後日、報告書にまとめます」
岸本が笑った。
「先生、堅いなぁ。まぁ、大丈夫ですわ。あの物件はうちが見つけたんです。ちゃんとした物件ですよ」
角田は答えなかった。お茶を一口飲んだ。
*
「岸本さん」
「はい」
「温泉開発の計画書はありますか」
岸本が一瞬止まった。一瞬だった。すぐに動いた。
「計画書ね。それはこれからですわ。まず業者を押さえんと。いい業者は取り合いですからね」
「温泉法に基づく掘削許可の申請はされていますか」
「掘削許可。それもこれからで。まず土地の調査が——」
「掘削許可は都道府県知事への申請です。大阪府の場合は環境農林水産部が窓口になります。許可が下りるまでに半年以上かかることもあります」
角田は事実を言った。声のトーンは変わらなかった。
「業者を先に押さえても、許可が下りなければ掘れません」
岸本が角田を見た。笑顔のまま見ていた。
「先生、詳しいですなぁ。温泉のこと、やったことあるんですか」
「以前、温泉利用許可の承継を扱ったことがあります」
伊豆。横山家の温泉。管理者不在の源泉。排水処理の問題。温泉がどれだけ面倒か、角田は知っていた。源泉を掘るのは穴を掘ることではない。許可を取り、管理者を置き、排水を処理し、保健所の検査を通す。穴を掘った後の方が長い。
角田はそれを言わなかった。言う必要がなかった。事実だけ言えばいい。
「計画書がない状態で業者を呼ぶのは、順序が逆です」
岸本の顔が動いた。笑顔が消えた。一秒。すぐに戻った。
「まぁまぁ、先生。うちもプロですから。順番はちゃんとやりますわ。まず丸山さんに来てもらって、それから計画書を作って、許可申請して。ちゃんとやります」
角田は何も言わなかった。
*
「もう一つ確認させてください」
「何でしょう」
「浪速建設さんの経営事項審査の結果を確認したいのですが」
岸本の笑顔が消えた。今度は長かった。二秒。三秒。戻った。
「経審ですか。先生、そんなん調べるんですか」
「はい。依頼人の取引先を確認するのは基本です」
「うちは大臣許可ですよ。特定建設業の。ちゃんとした会社ですわ」
「大臣許可であることは存じています。許可業種の内訳を確認したいだけです」
岸本が角田を見た。角田は岸本を見ていた。
目が笑っていない。
口は笑っている。声も笑っている。だが目が笑っていない。角田の前に座っている男の目が、別のことを考えている目だった。
角田は気づいていた。岸本がお茶を出す前から気づいていた。廊下のゴルフコンペの写真。トロフィーを持って笑っている岸本。あの写真の目と、今の目が違う。写真の方が自然だった。
「先生」
「はい」
「経審は公開情報ですやろ。勝手に見てもらったらええですわ。わざわざうちに聞くことないです」
「おっしゃる通りです。公開情報を確認させていただきます」
岸本が笑った。今度は声だけ笑った。
「先生は堅いなぁ。丸山さんが信頼しとるのも分かりますわ。堅い人がおらんと、商売は回りませんからね」
角田はお茶を飲んだ。最後の一口だった。缶コーヒーには最後まで手をつけなかった。
*
黒田はこの間ずっと黙っていた。
缶コーヒーを飲んでいた。岸本の話を聞いていた。角田の質問を聞いていた。岸本の顔を見ていた。一度も口を挟まなかった。
岸本が黒田を気にしていた。何度か黒田を見た。黒田は目を合わせなかった。缶コーヒーを飲んでいた。
面談は四十分で終わった。
名刺交換をした。岸本が角田の名刺を見た。
「角田行政書士事務所。東京都墨田区。遠いところからほんまにすんません」
「仕事です」
「先生、大阪は初めてですか」
「はい」
「ほな、うまいもん食べていってくださいよ。串カツ、食べました?」
「まだです」
「新世界行ったらなあきまへんで。串カツは新世界ですわ」
岸本が笑った。目も笑っていた。串カツの話をする時だけ、目が笑っていた。
角田は「ありがとうございます」と言った。黒田は何も言わなかった。
*
ビルを出た。大阪の夕方。三月。日が傾いている。
角田はコートのポケットから手帳を出した。赤ペンの蓋を開けた。
応接室では出さなかった手帳。外に出た瞬間に出した。
書いた。
「温泉開発——計画書なし。掘削許可未申請。順序が逆」。
「経審——公開情報で確認。許可業種の内訳。技術者数」。
「岸本——目」。
三行書いて、蓋を閉めた。
黒田が横に立っていた。缶コーヒーの空き缶をゴミ箱に入れた。
「飯にするか」
「はい」
「串カツ、食うか」
角田は黒田を見た。黒田は笑っていなかった。岸本が勧めた串カツ。
「新世界、知ってるんですか」
「前に来たことがある」
「大阪に」
「昔の話だ」
黒田が歩き出した。角田がついていった。手帳をポケットにしまった。赤ペンの蓋を確認した。閉まっていた。
大阪の夕方。ビルの影が長い。黒田の背中を角田が追う。黒田は地図を見なかった。道を知っていた。




