第2話 営業所
御堂筋線の車内は東京と違った。
何が違うかと言われると答えられない。電車は電車だった。ドアが開いて、人が乗って、ドアが閉まる。同じだった。だが何かが違う。角田は吊り革を持って考えた。
声が大きい。
それだった。乗客の声が東京より大きかった。二人組の女性が笑っている。スーツの男が電話をしている。東京の地下鉄では電話をする人は少ない。大阪では普通のことらしかった。
本町で中央線に乗り換えた。深江橋で降りた。地上に出た。
三月の大阪。東京より二度ほど暖かい。コートがまだ暑い。角田はコートを着たまま歩いた。
東成区。住宅街とビルが混在している。看板が多い。文字が大きい。色が派手。角田は看板を読まなかった。スマホの地図を見ていた。目的地まであと三百メートル。
不動産会社の担当者が物件の前で待っていた。四十代の男性。名刺を出した。角田も名刺を出した。
「行政書士の角田です。丸山建設さんの代理で、物件の確認に来ました」
「聞いてます。岸本さんから。ここ、ええ物件ですよ」
角田は答えなかった。ビルの外観を見た。五階建て。築三十年ほど。外壁のタイルが一部剥がれている。エントランスにポストが並んでいる。一階はクリーニング店。二階は空き。三階が今回の物件。
階段を上がった。エレベーターはない。角田は階段の幅を見た。狭い。すれ違うのが難しい。赤ペンの蓋を開けた。手帳に「EV無し。階段幅×」と書いた。
三階。ドアの前。担当者が鍵を開けた。
「どうぞ」
角田が入った。
*
二十五平米。
角田は部屋の中央に立った。窓が一つ。南向き。日は入る。壁紙は白。床はクッションフロア。前のテナントが退去した後、そのままになっている。
角田は鞄からメジャーを出した。部屋の縦を測った。横を測った。手帳に書いた。
次。電話回線。壁を見た。モジュラージャックがない。角田は担当者に聞いた。
「固定電話の回線はありますか」
「えーと、前のテナントはスマホだけで——」
「建設業の営業所には固定電話が必要です。回線の引き込みは可能ですか」
「たぶん大丈夫やと思いますけど」
「たぶんではなく、確認してください」
担当者が黙った。角田は壁を見ていた。赤ペンで「固定電話回線なし。要確認」と書いた。
次。看板。角田は窓から外を見た。ビルの外壁を見た。玄関を見た。
「ビルの外壁、もしくはエントランスに看板を出すスペースはありますか」
「看板……ですか。オーナーに聞かないと」
「建設業の営業所は、商号を表示する看板の設置が必要です」
角田は手帳に「看板スペースなし。要オーナー確認」と書いた。
次。独立性。角田は隣の部屋との壁を見た。薄い。声が聞こえる。隣は何のテナントか聞いた。
「隣は空きです。前はネイルサロンやったかな」
角田は手帳に「隣室空き。壁薄い。独立性△」と書いた。
部屋を出た。玄関のドアを確認した。郵便受けがない。表札を掲げるスペースもない。角田はスマホで写真を撮った。ドア。外壁。階段。エントランス。ポスト。全部で十二枚。
「あの、どうですか」
担当者が聞いた。角田は手帳を閉じた。
「営業所の実態要件を満たさない可能性があります」
「え? 岸本さんは大丈夫やって——」
「不動産会社さんの判断で大丈夫ということと、建設業法上の要件を満たすかどうかは別の問題です」
担当者が口を開けた。角田は名刺を渡した。
「固定電話の回線と看板の設置について、オーナーさんに確認を取っていただけますか。結果を連絡してください」
「は、はい」
角田は階段を降りた。ビルの前で立ち止まった。もう一度外壁を見た。写真を一枚追加した。赤ペンの蓋を閉めた。
*
歩きながら丸山社長に電話した。
「先生、どうでした?」
「営業所の実態要件を満たさない可能性があります」
「えっ、不動産屋さんが大丈夫って言ってたんですけど……」
「不動産屋さんは建設業法を知りません」
丸山社長が黙った。角田は歩きながら続けた。
「固定電話の回線がありません。看板の設置スペースも未確認です。エレベーターもない。営業所としての独立性にも疑義があります」
「……全部ダメですか」
「全部ではありません。改善できる項目もあります。ただ、この物件をそのまま営業所として申請するのは難しいです」
丸山社長が声を落とした。
「岸本さんが見つけてくれた物件なんですけどね……」
角田は答えなかった。少し歩いてから言った。
「報告書にまとめます。今日はまだ浪速建設さんとの面談がありますので、詳しくは後日お伝えします」
「先生、よろしくお願いします。……先生が見に行ってくれてよかったです」
電話を切った。角田はスマホをポケットに入れた。
東成区の商店街を歩いた。昼時だった。定食屋。ラーメン屋。カレー。うどん。角田は定食屋の前で止まった。店先に手書きのメニューが貼ってある。日替わり定食七百五十円。豚の生姜焼き。
入った。
*
カウンター七席。テーブル二つ。作業着の男が二人。スーツの女性が一人。角田はカウンターの端に座った。
「日替わりで」
「はい。日替わりね」
おばちゃんが返事をした。声が大きかった。
角田は手帳を開いた。さっきの物件のメモを整理した。問題点を番号で振った。
一、固定電話回線なし。
二、看板スペース未確認。
三、エレベーターなし(重要資材の搬入に支障)。
四、隣室との独立性に疑義。
五、郵便受け・表札スペースなし。
五つ。五つ全部が致命的ではない。だが五つ重なると、行政庁の審査で引っかかる可能性が高い。角田は赤ペンで五番目の横に「△」と書いた。郵便受けは後付けできる。表札も付けられる。だが問題の本質はそこではない。
岸本がこの物件を見つけた。岸本が丸山社長に紹介した。不動産会社の担当者も岸本経由。全部、岸本が段取りしている。
段取りがいい人間には二種類いる。親切な人間と、何か理由がある人間。
定食が来た。
豚の生姜焼き。千切りキャベツ。ポテトサラダ。味噌汁。ご飯。漬物。
角田は箸を取った。生姜焼きを一切れ食べた。
甘い。
東京の生姜焼きとは違う。醤油が違うのか、味醂が多いのか。角田にはちょっと甘い。だがまずくない。肉は柔らかい。キャベツはシャキシャキしている。味噌汁は白味噌だった。大阪の味だった。
角田は黙って食べた。全部食べた。ご飯も残さなかった。
おばちゃんが皿を下げた。
「お兄ちゃん、東京の人?」
「はい」
「やっぱり。箸の持ち方がきれいやもん」
角田は何と答えていいか分からなかった。「ごちそうさまでした」と言って立ち上がった。七百五十円を払った。
店を出た。三月の大阪。午後の日差し。コートが暑い。角田はコートを脱がなかった。
浪速建設との面談は三時。あと二時間ある。角田は近くのカフェに入った。アイスコーヒーを頼んだ。手帳を開いた。浪速建設の会社案内をもう一度読んだ。赤ペンの蓋を開けた。
許可番号。業種。角田は赤ペンで業種の欄に下線を引いた。さく井工事業は入っていない。
余白に書いた。「浪速建設、さく井の許可なし。要確認」。
角田はアイスコーヒーを飲んだ。氷が溶けて薄くなっていた。赤ペンの蓋を閉めた。
二時四十分。角田は立ち上がった。会計を済ませた。カフェを出た。地下鉄で中央区に向かった。
浪速建設。本社。
黒田がビルの前に立っていた。缶コーヒー微糖を飲んでいた。
「遅いな」
「五分前です」
「俺は三十分前に着いた」
「何をしていたんですか」
黒田が缶コーヒーを飲み干した。潰して、ゴミ箱に入れた。
「散歩」
角田は黒田の顔を見た。黒田はいつもの顔だった。何も読めなかった。
「行きましょう」
「おう」
二人でビルに入った。




