第1話 のぞみ
三月。東京駅。午前七時十分。
駅弁屋祭は朝から混んでいた。黒田が棚の前で迷っていた。革ジャンの上にコートを羽織って、弁当を一つ取り、戻し、別のを取り、また戻した。
角田は棚を見なかった。鞄の中には既に弁当が入っていた。出張先の駅弁を事前に調べるのは、角田の数少ない習慣のひとつだった。
「角田、お前何にする」
「持ってきています」
「……持ってきてる?」
「はい」
黒田が角田の鞄を見た。角田は何も言わなかった。黒田は棚から弁当を一つ取って、レジに向かった。
*
のぞみ。窓側に角田。通路側に黒田。黒田が缶ビールを開けた。朝の七時四十分。
「新幹線は非日常だからな」
角田は答えなかった。膝の上にクリアファイルを広げていた。
丸山建設。建設業許可番号。般—第〇〇〇〇号。許可業種、さく井工事業。許可の有効期間は先月更新した。角田が手続きをした案件。
さく井。井戸掘り。温泉掘削。全国で約二千二百六十一社しかない。角田が更新手続きをした時に調べた数字だった。東京にも数えるほどしかいない。丸山建設はその一つ。
更新が終わった翌週に、丸山社長から電話があった。
「先生、相談があるんですが」
丸山社長は声が大きい。受話器の向こうで機械の音がしていた。丸山社長は社長だが現場にも出る。六十二歳。背が低い。がっしりしている。手が大きい。角田の手の倍はある。さく井技能士。国家資格。丸山社長の手は、何十年も地面に穴を掘ってきた手だった。
「大阪に営業所を出そうと思いまして」
角田が赤ペンの蓋を開けた。手帳に書いた。「営業所新設。大阪」。
聞いた。大阪の元請会社から声がかかっている。浪速建設。社長は岸本という人物。温泉開発の案件があり、さく井の腕がある業者を探している。大阪にはさく井の業者がいない、と岸本は言った。こっちに拠点を作ってくれたら仕事を回す。丸山社長はその話に乗り気だった。
「岸本さんがいい人でしてね。面倒見てくれるって」
角田は手帳に書いた。「浪速建設。岸本。温泉開発。口約束」。
「営業所の候補物件はありますか」
「あります。岸本さんが見つけてくれて。東成区のビルの一室で——」
「賃貸借契約書のコピーを送ってください」
丸山社長が「はい」と言った。翌日、レターパックで届いた。角田が中身を確認した。賃貸借契約書。物件の図面。浪速建設の会社案内。丸山社長の手書きのメモ。メモには「岸本さんは信頼できる人です」と書いてあった。
丸山社長の字は大きかった。太いボールペンで書いてある。丸山社長の手は大きい。字も大きい。
クリアファイルに全部入れた。赤ペンの蓋を閉めた。
それが二週間前。
*
新幹線が品川を過ぎた。
角田はクリアファイルから賃貸借契約書のコピーを出した。赤ペンの蓋を開けた。
物件。東成区。ビルの三階。二十五平米。月額賃料八万円。共益費一万円。契約期間二年。用途欄に「事務所使用可」。
角田は赤ペンで「事務所使用可」に丸をつけた。余白に「営業所≠事務所。建設業法上の要件確認」と書いた。
次。浪速建設の会社案内。カラー印刷。立派な冊子。施工実績の写真が並んでいる。マンション。商業ビル。公共工事。大きい。
角田は会社案内の裏表紙を見た。本社所在地。大阪市中央区。許可番号。特定建設業。国土交通大臣許可。大きい会社だった。少なくとも書面上は。
角田は赤ペンで許可番号に下線を引いた。余白に「経審確認。業種内訳」と書いた。浪速建設の許可業種にさく井工事業が含まれているかどうか。含まれていなければ、温泉開発の元請をやるのに自社ではさく井ができない。丸山建設を呼ぶ理由はそこにある。だが、大阪にもさく井の業者はいるはずだった。なぜ東京なのか。
「何読んでる」
黒田が缶ビールを飲みながら言った。
「さく井工事業の営業所新設です」
「さくい?」
「井戸を掘る仕事です。温泉の掘削も」
「温泉か。いいな」
「仕事です」
「飯にしよう」
黒田がビニール袋から紙箱を取り出した。蛸壺を模した陶器の容器。ひっぱりだこ飯。淡路屋。
角田が黒田の手元を見た。
角田が鞄を開けた。同じ紙箱を取り出した。蛸壺を模した陶器の容器。ひっぱりだこ飯。淡路屋。
黒田が角田の弁当を見た。角田が黒田の弁当を見た。
「……被ったな」
「はい」
「お前、何で蛸壺なんだよ」
「大阪の駅弁を調べました。東京駅の祭で買える関西の弁当は限られています。ひっぱりだこ飯は神戸ですが、関西圏です」
「俺は蛸壺の形が面白かっただけだ」
黒田が蓋を取った。角田も蓋を取った。真だこのうま煮。穴子のしぐれ煮。筍の土佐煮。炊き込みご飯。同じ中身が二つ並んだ。
黒田が箸をつけた。角田も箸をつけた。
たこが柔らかかった。醤油味の飯に出汁が染みていた。穴子が甘かった。角田は蛸壺の底まで箸を入れた。蛸天の練り物が出てきた。角田は蛸天を食べた。
「どうだ」
「おいしいです」
黒田が蛸壺を持ち上げた。陶器。ずしりと重い。
「いい壺だな。何かに使えるだろ」
黒田は自分の蛸壺をビニール袋に突っ込んだ。角田は空になった蛸壺を見ていた。口が広い。底が深い。赤ペンが一本、ちょうど入る太さだった。
角田は蛸壺を鞄に入れた。
*
新横浜を過ぎた。
「黒田さん」
「おう」
「大阪に何の用ですか」
「知り合いに会う」
「知り合い」
「昔の知り合いだ」
黒田はそれ以上言わなかった。缶ビールの二本目を開けた。角田も聞かなかった。
静岡に入った。角田は書類を見ていた。
黒田が窓の外を見た。
「富士山だぞ」
角田が顔を上げた。窓の外を見た。富士山が見えた。雪が積もっていた。三月の富士山。白かった。
角田は一秒見て、書類に戻った。
「一秒かよ」
「見ました」
「見たな。確かに見た」
黒田が笑った。缶ビールを飲んだ。
名古屋を過ぎた。角田は書類を読み終えていた。赤ペンの蓋を閉めた。手帳を開いた。今日の予定を確認した。
午後一時。営業所候補の物件確認。東成区。鍵は不動産会社が開けてくれる。
午後三時。浪速建設。岸本社長と面談。中央区の本社。
角田は手帳を閉じた。
京都を過ぎた。新大阪が近い。
「黒田さん」
「おう」
「新大阪で降ります」
「知ってる。大阪だからな」
「浪速建設には何時に来られますか」
黒田が角田を見た。
「三時でいいのか」
「三時です」
「分かった。三時に行く」
「午前中は」
「用がある」
角田は「はい」と言った。
新大阪に着いた。三月の大阪。東京より暖かかった。コートが少し暑い。角田はコートを脱がなかった。
改札を出た。黒田が右に行く。角田が左に行く。
「三時に」
「おう」
黒田の革ジャンの背中が人混みに消えた。角田は地下鉄の案内表示を探した。御堂筋線。中央線。乗り換え。東成区へ。
角田はホームに立った。電車を待った。鞄の中で蛸壺が重かった。赤ペンの蓋を確認した。閉まっていた。




