第10話 大丈夫ですよ
月曜日。
午前十時。インターホンが鳴った。
角田がドアを開けた。花森とミンが立っていた。
ミンはスーツを着ていた。紺色。ネクタイが真っ直ぐだった。前に来た時は曲がっていた。革靴が新しかった。磨いてあった。
「スミタ先生。ありがとうございました」
ミンがお辞儀をした。深かった。腰から折れた。前に来た時と同じ深さだった。だが前は緊張のお辞儀だった。今日は違った。
「おめでとうございます」
「今日から会社に行きます」
「はい」
ミンが紙袋を出した。菓子折り。
「母に送ってもらいました。ベトナムのお菓子です。日本では買えないので」
角田が受け取った。紙袋は軽かった。だが中身が詰まっていた。
「ありがとうございます」
「スミタ先生」
「はい」
「書類、読みました。申請理由書。コピーを花森先生にもらいました」
角田が花森を見た。花森が少し首を縮めた。
「日本語が難しくて全部は分かりませんでした。でも、私のことが書いてありました。ハノイ工科大学のことも、Javaのことも、田中部長のことも」
「花森先生から聞き取った内容です」
「でも、私のことをこんなにちゃんと書いてくれた人は初めてです」
角田は何も言わなかった。
ミンの目が赤くなった。泣くのを堪えていた。花森が隣で目を拭いた。花森の方が先に泣いていた。
「田中部長が——」
ミンが言葉を探した。
「田中部長が、おかえり、って言ってくれました。電話で」
「そうですか」
「おかえりって、日本語で、家に帰った時に言う言葉ですよね」
「はい」
「会社が、家だって言ってくれたんだと思いました」
角田は何も言わなかった。赤ペンの蓋を触っていた。机の上の赤ペン。いつもの場所。
ミンが花森を見た。花森が笑っていた。目が濡れていた。
「行ってきます」
花森が言った。「行ってらっしゃい」。
角田はドアを開けた。ミンが階段を下りた。革靴の音がした。新しい靴の硬い音だった。一段ずつ丁寧に踏んでいた。
音が聞こえなくなった。角田がドアを閉めた。
*
花森が残った。カフェラテが二つ。いつもの。
「ミンくん、ネクタイ真っ直ぐでしたね」
「はい」
「前は曲がってました」
「覚えていますか」
「覚えてます。角田先生も覚えてるんですね」
角田は答えなかった。ミンのファイルを棚から出した。花森のクリアファイル。赤ペンの書き込みだらけのクリアファイル。最初の申請理由書。赤が全ページを覆っていた。その隣に角田が書き直した申請理由書の控え。課税証明書のコピー。在留カードのコピー。入管の受領印が押された申請書の控え。許可通知のコピー。全部一つにまとめた。ファイルの背表紙に黒のボールペンで書いた。
グエン・ヴァン・ミン 在留資格変更許可申請 一月
棚に入れた。棚が軋んだ。いつもの音。スチール棚が新しいファイルの重さを受け止める音。
花森がその音を聞いていた。
「終わったんですね」
「はい」
花森がカフェラテを飲んだ。ストローを咥えたまま棚を見ていた。ミンのファイルが入った場所を見ていた。赤だらけのクリアファイルがスチール棚の奥に消えた場所。
「角田先生」
「はい」
「私、もっと勉強します。次の案件は、もうちょっとましな書類書きます。赤が三箇所じゃなくて、一箇所にします。いつかゼロにします」
「ゼロは難しいです。私の書類にも赤は入ります」
「え、角田先生でも」
「誰でもです。書いた直後の文章は信用できません」
花森が笑った。角田が前にも言った言葉だと気づいた顔だった。
「じゃあゼロじゃなくていいです。でも、ちゃんとした書類書けるようになります」
「はい」
「それで——またミンくんみたいな人が来た時に、今度は自分で書けるようになります。自分の書類で窓口に出して、自分の書類で許可を取ります」
花森がカフェラテのストローから口を離した。角田を見た。
「それで、依頼人に『大丈夫ですよ』って言えるようになります。根拠のある『大丈夫』を」
角田は花森を見た。花森が真っ直ぐ前を見ていた。カフェラテを持っていた。ストローを咥えていなかった。持っているだけだった。
「花森先生」
「はい」
「次の書類を持ってきてください。見ます」
花森が笑った。大きく。目が潤んだ。泣かなかった。笑った。
「はい」
*
「角田先生、お昼——」
「長谷川に行きます」
「私も行っていいですか」
角田は花森を見た。
花森が笑っていた。いつもの笑顔。カフェラテを両手で持っていた。マフラーの端がコートから出ていた。
「……どうぞ」
花森が嬉しそうに立ち上がった。コートを着た。マフラーを巻き直した。
「やった」
小さい声だった。角田には聞こえていた。
長谷川。二人。カウンター。花森が隣に座った。
「かけで」
「私も——かけで」
角田が花森を見た。前に来た時は「天ぷらつけていいですか」と言った。今日はかけだけだった。
「今日はかけにします。角田先生と同じ」
蕎麦が来た。二つ。かけ。三百八十円が二つ。
角田が箸を割った。食べた。いつもの速度。花森が箸を割った。食べた。花森は蕎麦のすすり方が下手だった。音が出なかった。口でちゅるちゅると吸い込んでいた。角田のようにずるずるとは吸えなかった。
「おいしい」
花森が目を閉じて言った。
角田が汁を飲んだ。全部。丼の底が見えた。いつもの味だった。出汁の味。
花森が汁を飲んだ。半分で止まった。量が多かった。花森には多かった。
花森が蕎麦湯を頼んだ。両手で湯呑みを包んだ。
「温かい」
角田が三百八十円を置いた。
「あ、今日は私が——」
角田はもう立っていた。暖簾をくぐった。花森が慌てて立った。財布を出した。自分の分の三百八十円を置いた。暖簾をくぐった。
外。二月の風。冷たかった。
花森が角田の隣に立った。マフラーに顔を埋めていた。
「角田先生」
「はい」
「また来ていいですか」
「書類の相談なら」
「相談じゃなくても?」
「……構いません」
「やった」
花森が手を振った。小さい手。両国の方に歩いて行った。ダウンコートの裾が揺れていた。マフラーの端がひらひらしていた。花森が振り返った。もう一度手を振った。角田は見ていた。
花森が角を曲がって見えなくなった。
角田は事務所に戻った。
机の上にカフェラテの空き容器が二つ。ベトナムの菓子折り。金曜日のチョコレートの紙袋。産業廃棄物のファイル。
角田は椅子に座った。棚を見た。ミンのファイルが入っている場所。棚が軋んだ場所。その隣には建設業許可のファイルがあった。その隣には産業廃棄物のファイルがあった。棚は書類で埋まっていた。いつもの棚。いつもの事務所。
赤ペンの蓋を確認した。閉まっていた。
蓋を開けた。産業廃棄物のファイルを開いた。
午後の仕事。
日が傾いた。窓から差す光が机の端を照らしていた。チョコレートの紙袋とベトナムの菓子折りが並んでいた。産業廃棄物のファイルが三分の二まで終わった。赤ペンの蓋を閉めた。
事務所の電気を消した。
コートを着た。鍵をかけた。階段を下りた。
外は暗かった。二月の夜。風が冷たかった。スカイツリーの灯りが遠くに見えていた。
角田は歩いた。いつもの道。いつもの帰り道。




