第9話 電話
金曜日。申請から二週間。
角田は建設業許可の更新書類を仕上げていた。最終確認。赤ペンが動いていた。専任技術者の変更届。資格証のコピーに赤で確認の印を入れた。経営業務管理責任者の略歴書。実務経験の年数を再計算した。十年以上。問題なし。
決算変更届の数字を確認した。完成工事高。財務諸表。赤ペンが数字の上を走った。桁の確認。端数の確認。問題なし。ファイルを閉じた。今日中に提出できる。
机の上にカフェラテはなかった。花森は来ていない。月曜にカフェラテを持ってきて、水曜に書類を持ってきて、今日は来なかった。花森は花森の仕事をしている。三箇所を直している最中かもしれない。
静かだった。書類と赤ペンとスチール棚。いつもの事務所。
午前中が終わった。コートを着た。鍵をかけた。
長谷川。
「かけで」
いつもの席。カウンター。一人。蕎麦が来た。三百八十円。食べた。出汁の味。いつもの味。汁を飲んだ。全部。丼の底が見えた。
三百八十円を置いた。暖簾をくぐった。外は晴れていた。二月の風が冷たかった。
事務所に戻った。鍵を開けた。コートを脱いだ。建設業許可のファイルを封筒に入れた。レターパックに宛名を書いた。赤ペンではなく黒のボールペンで。午後一番でポストに入れる。
椅子に座った。レターパックの封をした。角田の仕事が一つ終わった。建設業許可の更新。期限は二月末。間に合った。
赤ペンの蓋を開けた。次のファイルを開いた。産業廃棄物収集運搬業の許可更新。期限は三月。まだ余裕がある。
午後二時。
スマホが鳴った。
画面を見た。花森。
「はい」
「角田先生——」
花森の声が震えていた。
「はい」
「入管から——通知が来ました」
角田は赤ペンの蓋を閉めた。産業廃棄物のファイルの上に赤ペンを置いた。
「許可です」
「はい」
「許可が下りました。ミンくんの。在留資格変更。技術・人文知識・国際業務。許可です」
「はい」
花森の声が震えていた。息を吸う音がした。電話越しに何かを拭く音がした。
「角田先生——ありがとうございます」
「花森先生が窓口に出した書類です」
「角田先生が書いた書類です」
角田は何も言わなかった。窓の外を見ていた。二月の空。晴れていた。
「ミンくんに電話します。今から」
「してください」
「はい。角田先生——」
「はい」
「……あとで行っていいですか。事務所」
「構いません」
電話が切れた。
角田はスマホを机に置いた。赤ペンを取った。蓋を開けた。産業廃棄物のファイルに目を戻した。次の仕事。
*
午後四時。インターホンが鳴った。
花森だった。カフェラテが二つ。目が赤かった。泣いた後だった。だが笑っていた。
「ミンくんに電話しました。ミンくん泣いてました。田中部長にも電話しました。来週から出勤できますって」
「そうですか」
「田中部長が『おめでとう』って言ってくれたって。ミンくんがそれでまた泣いたって」
花森がカフェラテを角田の前に置いた。角田がストローを刺した。飲んだ。甘かった。
花森が椅子に座った。カフェラテを飲んだ。長く飲んだ。ストローから口を離さなかった。しばらく黙っていた。
花森が口を開いた。
「角田先生」
「はい」
花森がトートバッグから封筒を出した。角田の前に置いた。白い封筒。厚みがあった。
「何ですか」
「報酬です」
角田が花森を見た。
「最初から払うつもりでした。角田先生は請求しないって分かってたんで、自分で決めました」
「花森先生——」
「受け取ってください。私の仕事を助けてもらったんです。タダでやってもらうのは——行政書士として、だめです」
花森の目が真っ直ぐだった。いつもの甘い笑顔ではなかった。仕事の顔だった。品川の入管の前に立っていた時の顔に近かった。
「……いくらですか」
「相場です。在留資格変更の報酬の相場。調べました」
角田は封筒を受け取った。厚さを確認するようなことはしなかった。そのまま机の引き出しに入れた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
花森がカフェラテを飲んだ。目がまだ赤かった。だが声は落ち着いていた。
「あと——」
花森がもう一つ何かを出した。紙袋。小さかった。リボンがかかっていた。
「何ですか」
「チョコレートです。バレンタインなので」
「……バレンタイン」
「今日、二月十四日です」
角田が止まった。赤ペンを持ったまま止まった。二月十四日。ミンの在留期限の日。
「ミンくんの在留期限がバレンタインだったんですよね。偶然ですけど。許可が期限の日に届いた。ぎりぎりですよね」
「ぎりぎりではありません。特例期間に入っていたので、在留期限は実質的に延長されていました。今日届いたのは審査が二週間で終わったということです」
「でもバレンタインに届いたんですよ。なんか、ちょっと運命っぽくないですか」
「運命ではありません」
花森が笑った。
「角田先生らしい」
花森がチョコレートの紙袋を角田の前に押した。
「食べてくださいね。義理ですから」
「……ありがとうございます」
「義理ですからね」
「はい」
「義理」
「分かりました」
花森がまた笑った。カフェラテのストローを咥えたまま笑っていた。三回言った。角田は三回聞いた。
花森がカフェラテを飲み終わった。ストローが空気を吸う音がした。
「角田先生」
「はい」
「月曜日にミンくん連れてきていいですか。お礼を言いたいって」
「構いません」
「ありがとうございます」
花森が立ち上がった。コートを着た。マフラーを巻いた。トートバッグを肩にかけた。
「角田先生」
「はい」
「今日は——いい日です」
「はい。許可が下りたので」
花森が一瞬止まった。笑った。小さく。
「はい。許可が下りたので」
花森が帰った。ヒールの音が階段を下りていった。
角田は机の上を見た。チョコレートの紙袋。リボン。報酬の封筒は引き出しの中。カフェラテの空き容器が二つ。
角田はチョコレートの紙袋を開けた。小さな箱。茶色い箱。開けた。チョコレートが四つ。粒が四つ。丸いチョコレート。
一つ取った。食べた。
甘かった。カフェラテより甘かった。
角田は箱の蓋を閉めた。残り三つ。紙袋に戻した。机の端に置いた。
赤ペンの蓋を開けた。産業廃棄物のファイルに目を戻した。午後の仕事。
窓の外が暗くなり始めていた。二月の日は短い。
事務所の電気をつけた。
仕事を続けた。




