第8話 赤ペン
水曜日。申請から十日目。
角田は建設業許可のファイルを読んでいた。午前中。赤ペンが動いていた。専任技術者の変更届。前任者の退職に伴う後任の届出。実務経験証明書の年数確認。十年以上。問題なし。
インターホンが鳴った。
花森だった。カフェラテ二つ。いつもの。
「角田先生、おはようございます。結果来ましたか」
「来ていません」
「十日って——」
「まだです」
花森がカフェラテを角田の机に置いた。自分の分のストローを刺した。飲んだ。
「あの、今日はお願いがあって来たんです」
花森がトートバッグからファイルを出した。角田の前に置いた。
「角田先生に見てもらいたい書類があるんです。ミンくんのじゃなくて。別の案件」
「はい」
「在留資格の更新です。技人国の。三年前に許可を受けた中国人のエンジニアの方で、更新の時期が来て。申請理由書、書いてみたんです。角田先生に見てもらう前提で」
花森がファイルから申請理由書を出した。A4二枚。花森が書いたもの。
角田が受け取った。赤ペンを取った。蓋を開けた。
*
一枚目。
角田の目が上から下に動いた。赤ペンが紙の上を走った。
一箇所。職務内容の記載。「システム開発業務に従事した」。角田が赤い丸で囲んだ。余白に書いた。「具体的な技術名と担当範囲を記載」。
続き。読んだ。経歴の記述。来日の経緯。専門学校での履修科目。内定先の情報。職務内容との関連性。
二箇所目。更新の実績記載。「業務に貢献した」。角田が赤い線を引いた。余白に書いた。「プロジェクト名、使用技術、担当範囲を具体的に」。
二枚目。
読んだ。会社の評価。上司の所見。今後の業務計画。
三箇所目。「勤務態度は真面目であり」。角田が赤い線を引いた。余白に書いた。「昇給・昇格の実績があれば記載。評価の証拠を」。
蓋を閉めた。
花森が角田の書き込みを覗き込んでいた。赤い字。余白に書かれた指摘。
「角田先生、字きれいですね」
「……普通です」
「普通じゃないですよ。最初にミンくんの書類に赤入れてもらった時から思ってたんですけど。角張ってて、でも読みやすくて」
角田は答えなかった。
花森が角田を見ていた。指が膝の上で絡まっていた。結果を待つ顔。ミンの審査結果を待つ時と同じ顔。
「三箇所です」
「三箇所」
花森の声が小さかった。
「一つ目。職務内容の記載が抽象的です。『システム開発業務に従事した』ではなく、具体的にどの言語を使って何を担当したかを書いてください。ミンさんの時と同じです」
花森がメモした。ピンクのペンで。
「二つ目。更新は実績ベースです。三年間で何をしたかが重要です。プロジェクト名、担当範囲、使用技術。これを書いてください」
花森がメモした。
「三つ目。『勤務態度は真面目であり』。これは人柄です。証拠にしてください。昇給があればその記録。昇格があればその辞令。評価面談の記録があればそれも」
「人柄じゃなくて、人柄の証拠」
「はい」
花森がメモを書き終えた。角田を見た。
「それだけですか」
「それだけです」
花森が息を吐いた。長く。
「構成は問題ありません。経歴から職務内容への流れが書けています」
花森の目が大きくなった。
「本当ですか」
「地図を描いたでしょう」
花森が頷いた。大きく。
「描きました。角田先生がやってたの見て。手帳に。左に経歴、右に職務内容。赤ペンで線——は引けないんで、ピンクで引きました」
花森が手帳を開いて角田に見せた。花森の手帳。ピンクのペンで経歴と職務内容が書いてあった。ピンクの線が左右のページを繋いでいた。角田の地図のピンク版。字が丸かった。ところどころにハートの記号があった。
角田は花森の手帳を見た。
「……いいと思います」
花森が笑った。大きく。立ち上がりかけた。座り直した。
「角田先生」
「はい」
「前にお借りした赤ペンのことなんですけど——あ、あれはもう返しましたよね」
「はい」
「でもあの時思ったんです。赤ペンっていいなって」
花森がトートバッグから何かを出した。赤ペン。新品。パッケージから出したばかり。
「私も赤ペン買ったんです。書類読む時に使おうと思って」
角田が花森の赤ペンを見た。角田のとは違うメーカーだった。少し細い。キャップが赤かった。角田のはキャップが黒い。
「使ってください」
花森がキャップを取った。赤ペンを握った。自分の申請理由書に角田の指摘をメモし始めた。赤い字。花森の字。丸い字。角田の赤ペンの字は角張っている。花森の赤ペンの字は丸い。同じ赤で違う字。
花森が赤ペンで「具体的な技術名」と書いた。一箇所目の横に。「PJ名、担当、使用技術」と書いた。二箇所目の横に。「昇給の記録。証拠」と書いた。三箇所目の横に。
花森が赤ペンのキャップを閉めた。角田を見た。
「三箇所直して、また持ってきます」
「持ってきてください」
「はい」
*
「角田先生、お昼——」
「長谷川に行きます」
「私も行っていいですか」
角田は花森を見た。花森が笑っていた。いつもの笑顔。
「今日は一人で食べます」
花森が一瞬止まった。笑った。
「はい。じゃあ帰ります。三箇所直して、また見てもらいに来ます」
「はい」
「角田先生」
「はい」
「ありがとうございました。ミンくんのことだけじゃなくて。私の書類も見てくれて」
「花森先生の仕事です。良い書類を書いてください」
「はい」
花森が帰った。ファイルと赤ペンを持って。ヒールの音が階段を下りていった。
角田はコートを着た。鍵をかけた。
長谷川。
「かけで」
いつもの席。カウンター。一人。
蕎麦が来た。三百八十円。食べた。
出汁の味がした。いつもの味。
汁を飲んだ。全部。丼の底が見えた。
事務所に戻った。建設業許可のファイルを開いた。赤ペンの蓋を開けた。
午後三時。花森からメッセージが来た。写真。花森の申請理由書。赤ペンで三箇所を修正した痕跡。花森の丸い赤い字。一箇所目の横に「Javaを用いたECサイトのバックエンド開発(二年間)」。二箇所目の横に「在庫管理システムリプレイスPJ。要件定義〜結合テスト。Java/Spring Boot/MySQL」。三箇所目の横に「昨年十月、主任に昇格。月額給与25万→28万」。
角田はスマホの画面を見た。花森の赤い字を見た。具体的だった。技術名があった。期間があった。金額があった。
角田はメッセージを返した。
「二箇所目、担当フェーズを『要件定義、基本設計、詳細設計、実装、結合テスト』と列挙してください。省略しないでください」
花森から返事が来た。
「はい!」
ビックリマークがついていた。
角田はスマホを机に置いた。赤ペンの蓋を閉めた。開けた。建設業許可のファイルに戻った。




