第7話 待つ
月曜日。申請を出して三日目。
角田は建設業許可の更新書類を読んでいた。赤ペンを持っていた。通常業務。花森が来る前からあった仕事。期限は二月末。急がないが、放置もできない。
決算変更届の数字を確認していた。完成工事高。経営業務管理責任者の略歴書。専任技術者の実務経験証明書。赤ペンが動いていた。角田の手が書類の上を走っていた。いつもの速度。いつもの角度。角田の日常が戻っていた。
机の上にカフェラテの空き容器はなかった。ファイルもなかった。書類と赤ペンとスチール棚。花森が来る前の事務所。
インターホンが鳴った。
花森だった。カフェラテが二つ。
「角田先生、おはようございます」
「おはようございます」
「結果、来ましたか」
「来ていません。まだ三日です」
「三日って長くないですか」
「短いです」
花森がカフェラテを角田の机に置いた。一つを角田の前に。もう一つを自分の分として持った。ストローを刺した。咥えた。しょんぼりしていた。
「角田先生、今日お仕事ですか」
「はい。別の仕事があります」
花森が角田の机を見た。建設業許可のファイル。付箋。赤ペンの書き込み。花森の目が少し丸くなった。
「角田先生、ミンくんの件以外もお仕事あるんですよね。当たり前ですけど」
「はい」
「ずっとミンくんのことばっかりやってくれてたから……すみません」
「花森先生も仕事があるでしょう」
「あります。……あります、けど」
「待つのも仕事です。結果が出るまで、花森先生の仕事をしてください」
「はい」
花森がカフェラテを飲んだ。ストローから手を離さなかった。
「あの、田中部長の件なんですけど」
「はい」
「ミンくんから連絡があって。田中部長が『許可が下りるまで待ってます。ミンくんの席は空けてあります』って」
「そうですか」
「ミンくん泣いたって。電話切った後に」
角田は何も言わなかった。建設業許可のファイルに目を戻した。赤ペンが動いた。専任技術者の資格証の有効期限。確認。問題なし。
花森がカフェラテを飲みながら角田の仕事を見ていた。赤ペンが書類の上を走るのを見ていた。しばらく見ていた。
「あ、私帰りますね。お仕事の邪魔しちゃ——」
インターホンが鳴った。
*
角田がドアを開けた。
黒田だった。革ジャン。缶コーヒー。微糖。
「おう」
黒田が入ってきた。花森が椅子に座っていた。カフェラテを持っていた。
黒田が花森を見た。花森が黒田を見た。
「……誰だ」
「花森です。行政書士の。はじめまして」
花森が立ち上がった。名刺を出した。ピンクの縁取りの名刺。黒田が受け取った。見た。
「花森のどか。墨田区」
「はい。角田先生にはお世話になってます」
黒田が角田を見た。角田は玄関のところに立っていた。
「同業者です。書類の相談で」
「ふーん」
黒田が事務所の中を見た。カフェラテが二つ。建設業許可のファイル。いつもの事務所。だがいつもと違うものがあった。花森がいた。
黒田がいつもの椅子に向かった。花森が座っていた。花森が「あ、すみません」と椅子を引いた。黒田が座った。花森が棚の横から別の椅子を持ってきた。三人。角田の事務所に三人は狭かった。
黒田が缶コーヒーを開けた。飲んだ。花森がカフェラテを飲んだ。角田の前にもカフェラテがあった。
「……お前、カフェラテなんか飲むのか」
「もらったので」
黒田が花森を見た。
「毎日持ってきてるんです」
花森が笑った。
「毎日」
「はい。角田先生、嫌いじゃないって言ってくれたので」
黒田が角田を見た。角田は建設業許可のファイルを読んでいた。赤ペンが動いていた。黒田を見なかった。
「……角田」
「はい」
「お前、大変だな」
「何がですか」
黒田は缶コーヒーを飲んだ。答えなかった。
花森が黒田を見ていた。革ジャン。短い髪。日焼け。缶コーヒーの微糖。角田の事務所にいるもう一人の人間。
「黒田さんはお仕事は」
「元刑事だ」
「え、刑事さん」
「元だ」
花森の目が丸くなった。
「角田先生と黒田さんって、どういう関係なんですか」
「……知り合いだ」
「知り合いです」
角田と黒田が同時に答えた。花森が二人を見た。笑った。
「仲いいんですね」
黒田と角田が同時に黙った。缶コーヒーとカフェラテと赤ペンが同時に止まった。
花森がまた笑った。
黒田が缶コーヒーを飲み終わった。空き缶を角田のゴミ箱に入れた。立ち上がった。
「用事は」
「近くに来たから寄っただけだ。ウインズの帰り」
「月曜日はウインズ——」
「やってねえよ。今日は別の用事だ」
黒田がドアの方に歩いた。花森が「お疲れさまでした」と言った。黒田が振り返った。角田を見た。
「角田」
「はい」
「気をつけろよ」
「何がですか」
黒田は答えなかった。出て行った。ドアが閉まった。階段を下りる革靴の音がした。
花森が角田を見た。
「気をつけろって何ですかね」
「分かりません」
花森が首を傾げた。カフェラテのストローを咥えたまま首を傾げていた。角田はファイルに目を戻した。
*
花森が帰る時間になった。角田が建設業許可のファイルを半分まで読み終わった頃。
「角田先生、お昼は長谷川ですか」
「はい」
「私も——」
「花森先生」
「はい」
「仕事に戻ってください」
花森が口を開きかけた。閉じた。笑った。寂しそうだった。だが分かっていた。
「はい。じゃあ、また来ます。カフェラテ持って」
「結果が出たら電話してください」
「はい。でもカフェラテは持っていきます」
花森が帰った。ヒールの音が階段を下りていった。
角田はゴミ箱を見た。黒田の缶コーヒーの空き缶が入っていた。微糖。花森のカフェラテの空き容器が入っていた。角田のカフェラテの空き容器も入っていた。三つ。三人分。
建設業許可のファイルを閉じた。赤ペンの蓋を閉めた。半分まで。続きは午後。
コートを着た。鍵をかけた。
長谷川。
「かけで」
いつもの席。カウンター。一人。隣は空いていた。
蕎麦が来た。かけ。三百八十円。
食べた。出汁の味がした。甘くなかった。辛くなかった。いつもの味だった。
汁を飲んだ。全部。丼の底が見えた。
三百八十円を置いた。暖簾をくぐった。
外は晴れていた。二月の空。風が冷たかった。
事務所に戻った。建設業許可のファイルを開いた。赤ペンの蓋を開けた。午後の仕事。
角田の日常が戻っていた。




