第6話 二週間
金曜日。朝八時。角田は事務所にいた。
花森が入管に行く日だった。角田の仕事は終わっている。昨日、書類一式を確認して花森に渡した。赤を入れる箇所はなかった。あとは花森が窓口に出す。
角田はファイルを開いた。控え。昨日花森に渡した書類と同じもののコピー。手元に残していた。最終確認。五回目。赤ペンを持った。
申請理由書。問題なし。翻訳証明書。問題なし。課税証明書。問題なし。雇用契約書。問題なし。成績証明書。問題なし。卒業制作レポート。問題なし。職務内容書類。問題なし。
在留カードのコピー。
角田の赤ペンが止まった。
在留資格。留学。在留期間。一年。在留期限。二月十四日。
今日は一月三十一日。
二月十四日まで十四日。
角田は手帳を開いた。ミンの時系列を書いたページ。就職開始日。二月一日。明日。
在留資格変更の標準審査期間。二週間から一ヶ月。
角田は赤ペンの蓋を閉めた。
電話が鳴った。花森だった。
「角田先生、おはようございます。今から向かいます。九時半に入管の前でいいですか」
「花森先生。一つ確認します」
「はい」
「グエンさんの在留期限は」
「えっと——」
紙をめくる音がした。
「二月十四日です」
「今日は何日ですか」
「一月三十一日——」
花森が黙った。電話の向こうが静かになった。
「あと二週間です」
「……はい」
「再申請を今日出したとして、審査に通常二週間から一ヶ月かかります。在留期限までに結果が出ない可能性があります」
花森が息を呑んだ。小さく。
「それって——ミンくんがオーバーステイに——」
「なりません」
角田は声を変えなかった。
「出入国管理及び難民認定法第二十条第五項。在留期限の満了日までに申請が受理されていれば、結果が出るまで、または在留期限から二ヶ月を経過する日までのいずれか早い方まで、適法に在留できます。特例期間です」
花森が呼吸していた。電話の向こうで。
「つまり——今日出せば間に合うんですか」
「今日出せば間に合います。在留期限前に申請が受理されれば、グエンさんは適法に滞在できます」
「間に合う——」
「ただし、問題が一つあります」
花森の呼吸が止まった。
「就職開始日が二月一日です。明日です。在留資格変更の許可が下りる前に就労はできません。留学の在留資格では正規雇用の就労は認められない。内定先に事情を説明して、就労開始日を延期してもらう必要があります」
「ミンくんの内定が——」
「内定取消にはなりません。就労開始日の延期です。許可が下りてから出勤する。会社が応じてくれるかどうか」
「……私が連絡します。ミンくんに」
「はい」
「入管の前に電話します。九時半でいいですか」
「はい。花森先生」
「はい」
「書類に不備はありません。今日出してください」
「……はい」
電話が切れた。
角田はスマホを机に置いた。在留カードのコピーを見た。二月十四日。
昨日の最終確認で角田は在留期限を確認していなかった。書類の内容は全て見ていた。申請理由書、添付資料、補足書類。しかし在留期限の日付を計算していなかった。在留カードのコピーは花森のファイルに最初から入っていた。第一話から。
角田は手帳に赤ペンで書いた。「在留期限:2.14。残14日。特例期間あり。就労開始延期要」。書くことで頭が整理された。
コートを着た。赤ペンの蓋を確認した。鍵をかけた。
*
品川。東京出入国在留管理局。九時二十分。
入管の前に花森が立っていた。スーツだった。髪をまとめていた。トートバッグを肩にかけていた。
花森の顔が白かった。
「角田先生」
「はい」
「ミンくんに電話しました」
「はい」
「分かった、って。会社にも自分で話す、って。僕は待てます、って」
「そうですか」
「ミンくんに——」
花森が立ったまま言った。入管のビルの前で。一月の風が吹いていた。
「大丈夫だよって、言えなかった」
角田は花森を見た。花森の目が赤かった。泣いた後だった。今は泣いていなかった。
「大丈夫じゃないのに大丈夫って言ってたんです。ずっと。でも今日は——在留期限があと二週間で、就労開始日が明日で、ミンくんが会社に頭下げなきゃいけなくて。全部私が最初にちゃんとした書類を出していたら——」
花森の声は小さかった。だが震えていなかった。
「花森先生。窓口は九時半です」
花森が角田を見た。角田の顔はいつもと同じだった。
「書類に不備はありません。私が確認しました。今日受理されれば、特例期間に入ります。グエンさんは適法に滞在できます」
「はい」
「花森先生にできるのは、今この書類を窓口に出すことです」
「はい」
「出してください」
花森が頷いた。深く。トートバッグのストラップを握り直した。
二人でビルに入った。エレベーターで上がった。在留資格変更の窓口がある階。広い待合スペース。番号札の機械。椅子が並んでいた。人が大勢いた。いろんな言語が聞こえた。
「花森先生」
「はい」
「私はここで待っています」
「はい」
花森が番号札を取った。角田は待合スペースの椅子に座った。
花森が立っていた。番号札を両手で持っていた。クリアファイルをトートバッグから出して胸の前に抱えていた。花森の手が小さかった。クリアファイルが大きく見えた。
番号が呼ばれた。花森が窓口に向かった。グレーのスーツ。まとめた髪。小さい背中。
角田は椅子に座っていた。赤ペンをポケットに入れていた。蓋の上から指で触れていた。
十分。十五分。二十分。
花森が戻ってきた。角田の前に立った。
「受理されました」
「はい」
「追加書類はなしです。このまま審査に入りますって」
「はい」
「結果は通知書で届きます。二週間から一ヶ月」
「はい」
花森が椅子に座った。角田の隣に。どさっと座った。力が抜けたように。トートバッグを膝の上に置いた。クリアファイルはもう入っていなかった。窓口に全部出した。花森の手が空だった。
「角田先生」
「はい」
「出しました」
「はい。お疲れさまでした」
花森が天井を見た。入管の天井。白かった。蛍光灯が並んでいた。
「お腹空きました」
角田は花森を見た。花森が天井を見たまま言っていた。朝から何も食べていなかった。角田も食べていなかった。
「食べましょう」
「何がいいですか」
「花森先生が決めてください」
花森が天井から角田に目を移した。目がまだ赤かった。だが笑った。
「カレー。辛いの食べたい」
*
カレー屋。品川の駅の近く。花森が見つけた。インド料理。小さい店。
「角田先生。今日は辛いのにします。チキンビンダルー。激辛」
「私はバターチキンで」
花森が角田を見た。
「え、バターチキン? 角田先生が甘口?」
「……前に食べておいしかったので」
花森の目が丸くなった。
「両国で食べたやつ」
「はい」
「覚えてたんですね」
「味は覚えています」
花森がゆっくり笑った。何か言いかけた。止めた。メニューを閉じた。
「チキンビンダルーと、バターチキンと、ナン二枚お願いします」
カレーが来た。花森のチキンビンダルー。赤かった。角田のバターチキン。オレンジ色。ナンが二枚。大きかった。
花森がナンをちぎった。チキンビンダルーにつけた。口に運んだ。噛んだ。
「——っ、辛」
花森の目が潤んだ。辛さで。水を一気に飲んだ。グラスの半分。
「辛い。でもおいしい」
もう一口食べた。また目が潤んだ。鼻をすすった。辛さで涙が出ていた。花森は泣いていなかった。辛いだけだった。
角田はバターチキンを食べていた。ナンをちぎった。カレーにつけた。甘かった。前に食べた時と同じ味だった。トマトの酸味。バターのコク。
花森がナンをちぎった。角田のバターチキンの方に手を伸ばした。
止まった。手を引いた。
「——やっぱり自分の食べます」
花森がチキンビンダルーにナンをつけた。食べた。辛かった。水を飲んだ。
角田は花森を見ていた。花森がナンを引いたのを見ていた。
角田はナンをちぎった。大きめにちぎった。自分のバターチキンにたっぷりつけた。花森の前に差し出した。
「食べますか。甘いです」
花森が角田を見た。角田の手にナンがあった。バターチキンがたっぷりついていた。
「……いいんですか」
「辛いものの後に甘いものが合うと聞いたことがあります」
「誰に聞いたんですか」
「覚えていません」
花森がナンを受け取った。角田の指から花森の指へ。口に入れた。噛んだ。飲み込んだ。
「おいしい」
花森の声が小さかった。
「甘い。おいしい」
花森がナンを咀嚼していた。目を閉じなかった。いつもは目を閉じる。カレーでもパスタでも餃子でも。今日は閉じなかった。角田を見ていた。
「角田先生」
「はい」
「ありがとうございます」
「カレーの話ですか」
「全部です」
角田は自分のバターチキンの残りを食べた。花森はチキンビンダルーをナンで全部さらった。皿がきれいになった。角田の皿にもカレーは残っていなかった。二人とも食べ切った。
「ごちそうさまでした」
花森が手を合わせた。角田も手を合わせた。
会計。花森が「今日は——」と言った。角田が「花森先生が払ってください」と言った。
花森が止まった。
「え」
「仕事が一つ終わりました。お疲れさまでした」
花森が角田を見た。角田はレジの方を見ていた。花森が笑った。小さく。レジで払った。
外に出た。品川の風が冷たかった。
「角田先生」
「はい」
「結果が出るまで、どのくらいですか」
「二週間から一ヶ月です。通知書が届きます。花森先生の事務所に」
「その間、私は何をすればいいですか」
「待ってください」
「待つだけですか」
「待つだけです。書類は出しました。不備はありません。あとは審査官の判断です」
花森が頷いた。マフラーに顔を埋めた。
「角田先生」
「はい」
「待ってる間——事務所に行ってもいいですか。カフェラテ持って」
角田は花森を見た。花森がマフラーの上から角田を見ていた。目がまだ赤かった。でも笑っていた。
「……書類の相談があるなら」
「相談じゃなくても?」
「……構いません」
「やった」
花森が笑った。小さく。いつもの「やった」より小さかった。
花森が品川駅の方に歩いて行った。角田は反対方向に歩いた。
電車に乗った。錦糸町に戻った。
事務所に戻った。鍵を開けた。電気をつけた。
机の上には何もなかった。カフェラテの空き容器もなかった。ファイルもなかった。花森が全部持って行った。書類は入管の窓口に出した。角田の机の上は、花森が来る前の状態に戻っていた。書類と赤ペンとスチール棚。
角田は椅子に座った。赤ペンを手に取った。蓋を開けた。閉めた。
長谷川には行かなかった。




