第5話 カフェラテ
木曜日。花森が来た。
翻訳証明書が届いていた。翻訳会社の封筒。花森がそれを持ってきた。それから会社の職務内容書類。田中部長の名前と社印が入っていた。
「全部揃いました」
花森がファイルを机の上に広げた。申請理由書。角田が書いたもの。卒業制作レポート。成績証明書の原本。翻訳証明書付きの卒業証明書翻訳。最新年度の課税証明書。雇用契約書の表裏コピー。会社のパンフレット。職務内容書類。
角田が一つずつ確認した。赤ペンを持っていた。
申請理由書。問題なし。翻訳証明書。翻訳者の署名、連絡先、「この翻訳は原文に忠実である」の文言。問題なし。課税証明書。最新年度。合っている。雇用契約書。表裏。職務内容欄に「Javaを用いたバックエンドシステムの設計・開発・運用」と記載されている。前回の「ITに関する業務」とは別の書類。会社が新たに作成したもの。
「これは角田先生が会社に頼んでくれって言った書類ですよね。ミンくんが田中部長に直接お願いして、書いてもらったんです」
「はい。これで関連性が証明できます」
角田が書類を順番に並べ直した。法定書類を前に、補足資料を後ろに。全部で十二枚。角田の手が書類を揃えた。端を叩いて合わせた。
赤ペンの蓋を閉めた。赤を入れる箇所がなかった。
「問題ありません。明日、入管に出してください」
花森が息を吐いた。長い息だった。
「角田先生——」
「はい」
「ありがとうございます」
花森の声が小さかった。いつもの花森の声量ではなかった。角田は花森を見た。花森が笑っていた。目が潤んでいた。泣いてはいなかった。
「花森先生。明日の提出は花森先生が行ってください。私は行きません」
「はい。分かってます。申請取次は花森の届出で」
「書類を落とさないでください」
「落としません」
「書類の順番を変えないでください」
「変えません」
「窓口で追加書類を求められたら、その場で判断せず私に電話してください」
「はい」
角田が書類をクリアファイルに入れた。花森が持ってきた新品のクリアファイル。花森に渡した。花森が両手で受け取った。胸に抱えた。
「大事に持って帰ってください」
「はい」
花森がクリアファイルをトートバッグに入れた。丁寧に。バッグの底に立てて入れた。折れないように。
*
書類の話が終わった。花森が帰るかと思った。帰らなかった。
「角田先生、お昼まだですよね」
「まだです」
「じゃあ待ってていいですか。一緒にお昼行きたい」
花森がトートバッグから本を出した。行政書士の実務書。入管業務の。分厚い。表紙に「入管手続の実務と書式」と書いてあった。
「角田先生に言われてから勉強してるんです。これ読んでるんですけど、ちょっと分からないとこがあって」
花森が椅子を持ってきた。角田の隣に座った。本を開いた。ピンクの付箋が何枚も貼ってあった。花森の本がピンクの付箋だらけだった。
「ここなんですけど。在留資格の変更と更新の違いって——変更が別の資格に切り替えるので、更新が同じ資格の期間を延ばすってことですよね」
「はい」
「じゃあミンくんのは変更。留学から技人国に」
「そうです」
「更新は例えば——技人国で三年もらって、三年経ったらまた三年もらうってことですか」
「そうです。在留期間の更新許可申請」
「それも書類出すんですか」
「出します」
「その時も申請理由書は——」
「必要です。ただし更新の場合は、実際にどんな業務に従事していたかの実績を書きます。変更の時とは書き方が変わる」
花森がメモした。ピンクのペンで。「変更=切り替え。更新=延長。更新は実績ベース。」
花森が本の別のページを開いた。付箋の場所。角田の肩に花森の髪が触れた。花森は気にしなかった。いつもの花森だった。唇に触れられて一瞬黙った花森はいなかった。距離ゼロ。花森の体温が角田の腕に伝わっていた。
「ここも分からなくて。永住権って、何年住めば申請できるんですか」
「原則十年です。ただし条件がある。そのうち五年以上は就労資格で在留していること」
「ミンくんは——」
「まだ先です」
花森が頷いた。本を閉じた。ピンクの付箋が本の端からたくさん飛び出していた。
「角田先生の本も見ていいですか」
花森が角田の棚を見た。角田の棚に入管業務の実務書があった。花森が取った。開いた。角田の本には付箋が少なかった。だが余白に赤ペンの書き込みがあった。
「角田先生の本、赤ペンで書いてある……」
「はい」
「『申請理由書に専攻科目を全て列挙すること。抜けると審査官が見落とす』——これ、角田先生が書いたんですか」
「はい」
「こういうの、私も書いた方がいいですか」
「花森先生のやり方で構いません。付箋の方がやりやすければ付箋で」
花森が角田の本を閉じた。重かった。両手で角田に返した。角田が受け取った。花森の指が本の表紙の上で角田の指に重なった。一瞬。花森は気にしなかった。角田は本を受け取って棚に戻した。
「角田先生」
「はい」
「私ももっと勉強します。ミンくんの件が終わっても。次の依頼の時は、もうちょっとましな書類書けるようにします」
「花森先生の書類を見ます。いつでも」
花森が笑った。大きく。
*
「お昼行きましょう。今日は——」
「長谷川に」
「えー、蕎麦? 角田先生毎日蕎麦じゃないですか」
「ほぼ毎日です」
「たまには違うの食べましょうよ。パスタとか」
「パスタ」
「錦糸町の方にいいとこあるんですよ」
角田は長谷川に行きたかった。だが花森が立ち上がっていた。コートを着ていた。マフラーを巻いていた。ドアの前にいた。
「角田先生、早く」
角田はコートを取った。赤ペンの蓋を確認した。鍵をかけた。
花森が先に階段を下りた。角田がついていった。錦糸町の方に歩いた。花森の歩幅は小さかった。だが速かった。
パスタ屋。裏通り。小さい店。テーブルが四つ。花森が「ここ好きなんです」と言って入った。
テーブル席。花森が向かいに座った。メニューを開いた。角田にも見せた。テーブルの上でメニューを二人で覗き込んだ。
「角田先生、クリーム系とトマト系どっちが好きですか」
「どちらでも」
「じゃあ私カルボナーラにします。角田先生は?」
「……ペペロンチーノで」
「シンプル。角田先生っぽい」
パスタが来た。花森のカルボナーラ。クリーム色。卵黄が載っていた。黒胡椒。ベーコン。角田のペペロンチーノ。にんにくとオリーブオイルと唐辛子。
花森がフォークでカルボナーラを巻いた。巻き方が下手だった。ソースが飛んだ。テーブルに。白い点がついた。
「あ」
花森が紙ナプキンで拭いた。笑った。もう一回巻いた。今度は巻けた。大きい一口だった。頬が膨らんだ。クリームが唇についた。白い。舌先で舐めた。
「おいしい〜」
角田はペペロンチーノを食べていた。にんにくが効いていた。唐辛子の辛味があった。シンプルだった。油と塩とにんにく。余計なものがなかった。
「角田先生、一口もらっていいですか」
「……どうぞ」
花森のフォークが角田の皿に伸びた。ペペロンチーノを巻いた。花森のフォークで角田のパスタを。巻き取って口に運んだ。
「にんにく! おいしい。でも辛い」
花森が水を飲んだ。一口で半分。
「角田先生も私のカルボナーラ食べます?」
「結構です」
「遠慮しないで。おいしいですよ」
花森がカルボナーラを巻いて角田の前に差し出した。フォークごと。花森が食べたフォーク。クリームがついたフォーク。
「自分のがありますので」
「えー」
花森が口を尖らせた。カルボナーラを自分で食べた。目を閉じた。三口目。花森はカレーでもパスタでも目を閉じる。
食べ終わった。花森の皿はきれいだった。角田の皿もきれいだった。ペペロンチーノは量が少なかった。
「角田先生、足りました?」
「足りました」
「本当に? デザートとか」
「結構です」
「ティラミスおいしいんですよ、ここ」
「結構です」
花森が「じゃあ私だけ」と言ってティラミスを頼んだ。来た。白い皿。ココアパウダーが振ってあった。マスカルポーネが層になっていた。
花森がスプーンですくった。口に運んだ。目を閉じた。四回目。
「おいしい……角田先生、一口だけ」
「結構です」
花森がスプーンにティラミスをすくって角田の前に差し出した。花森が食べたスプーン。ココアパウダーがスプーンの縁についていた。
「一口だけ。本当においしいんです」
角田は花森を見た。花森が笑っていた。スプーンを差し出していた。悪気がなかった。花森にとってはこれが普通だった。
「……一口だけ」
角田がスプーンを受け取った。花森の指からスプーンが渡った。角田が口に入れた。マスカルポーネの甘さとコーヒーの苦味が舌の上に広がった。甘かった。
花森が「おいしいでしょ」と言った。嬉しそうだった。角田がスプーンを返した。花森がそのスプーンで残りのティラミスを食べた。同じスプーン。花森は気にしていなかった。角田も気にしていなかった。
会計。花森が「今日は——」と言いかけた。角田が「各自で」と言った。花森が「じゃあ各自で」と引いた。今日は押さなかった。
外に出た。一月の風が冷たかった。花森がマフラーに顔を埋めた。
「角田先生」
「はい」
「明日、入管行ってきます」
「はい」
「終わったら電話します」
「はい。何かあったらその場で電話してください」
「はい」
花森が立ち止まった。角田も止まった。錦糸町の駅前の通り。人が歩いていた。
「角田先生」
「はい」
「カフェラテ」
「何ですか」
「毎日持っていってたじゃないですか。カフェラテ」
「はい」
「角田先生、カフェラテ好きですか」
角田は少し考えた。
「甘いです」
「好きか嫌いかで」
「……嫌いではないです」
花森が笑った。マフラーの上から。目だけ見えた。
「じゃあ明日も持っていきます。入管の帰りに。結果報告とカフェラテ」
「明日は来なくていいです。電話で構いません」
「でもカフェラテ届けたいです」
「……花森先生」
「はい」
「書類が先です」
花森が笑った。大きく。マフラーがずれた。
「はい。書類が先です。じゃあまた」
花森が手を振った。小さい手。両国の方に歩いて行った。マフラーを巻き直しながら。
角田は事務所に戻らなかった。長谷川に行った。
「かけで」
いつもの席。隣は空いていた。
蕎麦が来た。かけ。三百八十円。
食べた。出汁の味がした。いつもの味だった。
汁を飲んだ。半分まで飲んで、止まった。
丼の中に蕎麦湯が残っていた。汁と蕎麦湯が混ざっていた。角田はそれを見ていた。丼の底は見えなかった。
残りを飲んだ。全部。丼の底が見えた。
三百八十円を置いた。暖簾をくぐった。
外は暗かった。事務所に戻った。鍵を開けた。電気をつけた。
机の上にカフェラテの空き容器が二つ。今日の分。花森の分と角田の分。角田は二つともゴミ箱に入れた。
明日、花森が入管に行く。角田が書いた書類を持って。花森の名前で。
角田にできることは終わっていた。書類は書いた。確認した。赤を入れる箇所はなかった。あとは花森が持って行って、窓口に出す。それだけ。
角田は椅子に座った。赤ペンを手に取った。蓋を開けた。閉めた。開けた。閉めた。
何もすることがなかった。
蓋を閉めた。




