第3話 グエンさん
金曜日。九時五十分。角田は机の上を片付けた。
片付けたといっても、赤ペンの書き込みだらけのファイルを引き出しに入れただけだった。書き込みを依頼人に見せるわけにはいかない。花森の書類の不備が全ページに赤で記されている。花森の名誉の問題だった。
九時五十五分。インターホンが鳴った。花森は五分前に来る。
ドアを開けた。花森が立っていた。今日はスーツだった。グレーのジャケット。白いブラウス。スカート。ヒールが少し高かった。仕事の顔だった。髪をまとめていた。だが後れ毛はやはり出ていた。
「おはようございます」
花森の後ろに、もう一人立っていた。
若い男だった。小柄だった。角田より少し低く、花森より高い。黒髪。短髪。清潔感があった。スーツを着ていた。紺のスーツ。白いシャツ。ネクタイが少し曲がっていた。内定先の面接で着たスーツだろう。目が真っ直ぐだった。緊張していた。
「ミンくん、こちらが角田先生。書類のプロフェッショナルです」
「……すみたです」
若い男がお辞儀した。深かった。腰から。
「スミタ先生。はじめまして。グエン・ヴァン・ミンです。よろしくお願いします」
日本語がきれいだった。丁寧だった。発音に僅かな癖があったが、聞き取りに支障はなかった。
「どうぞ」
三人が座った。角田の事務所に三人は狭かった。角田が机の前。ミンが向かいの椅子。花森がミンの隣に椅子を置いた。
花森がトートバッグからカフェラテを三つ出した。三つ。
「ミンくんの分」
ミンが「ありがとうございます」と両手で受け取った。花森が自分のストローを刺した。角田の前にもう一つ置いた。四日目のカフェラテだった。
角田はストローを刺した。飲んだ。甘かった。四日目も甘かった。
「グエンさん。いくつか質問します。答えられる範囲で構いません」
「はい」
角田が手帳を開いた。赤ペンを取った。
「専門学校で何を学びましたか」
「情報技術です。プログラミングとデータベースと——」
「プログラミングは何の言語ですか」
「JavaとPythonです。あとHTMLとCSS」
「Javaはどの程度使えますか」
ミンが少し考えた。言葉を選んでいた。
「基礎は分かります。オブジェクト指向も。卒業制作で使いました」
「卒業制作は何を作りましたか」
「在庫管理システムです。チームで作りました。四人で」
「グエンさんの担当は」
「バックエンドです。データベースの設計と、Javaでサーバーサイドのプログラムを書きました」
角田がメモした。赤ペンで。技術名。科目名。チーム構成。担当範囲。具体的に書いていった。
花森がミンの隣で聞いていた。目を丸くしていた。
「すごい、ミンくんそんなことやってたの」
「はい。花森先生には言ってなかったですか」
「聞いてなかった……ごめんね」
ミンが小さく笑った。花森がしょんぼりした。カフェラテを飲んだ。ストローを咥えたまましょんぼりしていた。
「グエンさん。内定先の会社では何をすると説明を受けていますか」
「バックエンド開発チームに入ると聞いています。Javaを使います。受託開発の会社なので、お客さんのシステムを作ります」
「入社後最初の三ヶ月は」
「研修です。会社の開発ルールを覚えます。そのあとOJTでプロジェクトに入ります」
「研修の内容は具体的に聞いていますか」
「えっと——」
ミンが少し困った顔をした。角田は待った。
「新入社員向けのJava研修と、会社のフレームワークの研修があると聞いています」
「その話は誰から聞きましたか」
「面接の時に、開発部の部長が説明してくれました」
「部長の名前は分かりますか」
「田中部長です」
角田がメモした。田中。開発部長。面接時の説明者。
「グエンさん。卒業制作のレポートはありますか」
「はい。学校に提出したレポートがあります。日本語で書きました」
「それを提出してもらえますか。添付資料にします」
花森が顔を上げた。
「え、そんなの使えるんですか」
「使えます。グエンさんが何を学んで何ができるかを具体的に示す資料は、全て使えます。申請理由書の補足になる」
花森がメモした。ピンクのペンで。「卒業制作レポート——添付資料OK」。花森のメモは分かりやすかった。字が丸かった。
「あと、専門学校の成績証明書の原本を持ってきてください。月曜日までに」
「はい」
「成績証明書に科目名が記載されていますか。Java、Python、データベースという科目名が」
「あると思います。確認します」
「確認してください。もし科目名が抽象的な場合——たとえば『プログラミング演習』だけだった場合は、学校にシラバスの写しを出してもらいます」
「シラバス」
「授業の内容が書いてある資料です。どの科目で何を教えたか。それがあれば、科目名が抽象的でも中身を証明できます」
ミンが頷いた。真面目な顔で。メモは取っていなかった。だが全部覚えている目をしていた。
花森が角田を見ていた。書類の話をしている角田を横から見ていた。角田の声がまた変わっていた。花森は知っていた。
*
聞き取りが一段落した。角田は手帳を閉じかけた。
ミンが言った。
「スミタ先生」
「はい」
「僕は——日本にいられますか」
角田はミンを見た。ミンの目が真っ直ぐこちらを見ていた。二十三歳の目だった。スーツのネクタイが曲がっていた。両手が膝の上で握られていた。
「書類を正しく出せば、審査官に伝わります」
「伝わりますか」
「グエンさんの経歴と職務内容には関連性があります。専門学校でJavaを学び、卒業制作でバックエンド開発を行い、内定先でJavaを使ったバックエンド開発に従事する。一本の線です」
ミンが黙った。
「前回の申請は、その線が書類に書かれていなかっただけです」
花森がミンの肩に手を置いた。
「大丈夫だよ、ミンくん」
花森の「大丈夫」だった。ミンはこの言葉を何度も聞いてきたはずだった。花森はいつもそう言う。だが今回は角田が横にいた。角田がいるから、花森の「大丈夫」に初めて根拠があった。
ミンが頷いた。
「お願いします」
「卒業制作のレポートと成績証明書の原本。月曜日に花森先生の事務所に持っていってください。花森先生が私のところに届けます」
「はい」
花森が「うん、月曜日ね。一緒に持ってこようね」と言った。ミンが「はい。花森先生」と答えた。
ミンがお辞儀した。深かった。角田にも花森にも。靴のかかとが揃っていた。
角田はドアを開けた。ミンが出ていった。階段を下りる足音が遠くなった。
*
花森が残った。当然のように残った。椅子に座ったままだった。
「ミンくん、真面目ですよね」
「はい」
「いい子なんですよ。日本語も上手だし。学校の成績もいいし。会社の面接も一発で受かったし」
「はい」
花森がカフェラテを飲んだ。ストローの音がした。空になりかけていた。
「あの子が不許可になったの、私のせいですよね」
角田は花森を見た。花森がストローを咥えたまま角田を見ていた。目が笑っていなかった。いつも笑っている目が。
「書類の問題です」
「私が書いた書類の問題です」
角田は何も言わなかった。否定しなかった。肯定もしなかった。事実だった。花森が書いた書類が不十分だったから、ミンの申請は不許可になった。ミンのスペックには問題がなかった。花森の書類に問題があった。
花森がストローを離した。カフェラテの容器を机に置いた。両手を膝の上に置いた。指が少し震えていた。
「私、行政書士になって三年なんです」
「はい」
「入管の仕事が多いんです。SNSで発信してるから。外国人の方からの相談が来るんです。困ってる人が来るから、断れなくて」
「はい」
「ミンくんの時も、ミンくん困ってて。日本語学校の先生から紹介されて。ミンくんが事務所に来て、花森先生お願いしますって。断れないですよね」
角田は聞いていた。
「でも私、入管の書類をちゃんと勉強してなかったんです。研修は受けたけど、実務でやるのは全然違って。分からないことだらけで。でも依頼人が目の前にいるから、分からないって言えなくて」
花森の声が小さくなった。
「『大丈夫ですよ』って言っちゃうんです。大丈夫じゃないのに」
角田は花森を見ていた。花森の目が潤んでいた。泣いてはいなかった。
「……次は、ちゃんと見ててください。私の書類。角田先生の赤ペンで」
「見ます」
花森が笑った。目が潤んだまま笑った。カフェラテの空き容器を持って、最後の一口を吸った。ストローの音がずずっと鳴った。空だった。
「お昼、行きませんか。今日は私が決めていいですか」
「……どこですか」
「中華。角田先生、餃子好きですか」
「嫌いではないです」
「じゃあ決まり」
花森が立ち上がった。ジャケットの袖を引っ張った。ニットの時と同じ癖だった。角田はコートを取った。赤ペンの蓋を確認した。閉まっていた。鍵をかけた。
階段を下りた。花森が先に歩いた。ヒールの音が階段に響いた。角田がついていった。
外は寒かった。一月の風が吹いていた。花森がマフラーに顔を埋めた。
「角田先生、今日は私がおごりますから」
「各自で」
「だめです。ミンくんの件、本当にありがとうございます」
「仕事です」
「仕事って——お金もらってないですよね」
角田は黙った。花森が角田を見上げた。花森は小柄だった。ヒールを履いても角田より低かった。見上げる角度があった。
「じゃあお昼くらい払わせてください」
「……分かりました」
「やった」
花森が笑った。マフラーの上から笑った。目だけ見えた。目が細くなった。
中華屋。本所の裏通り。テーブル席。赤いテーブルクロス。メニューが壁に貼ってあった。
「餃子二人前と、回鍋肉と、白いご飯ふたつ。あと、角田先生なんか飲みます?」
「ウーロン茶で」
「じゃあウーロン茶ふたつ」
花森が注文した。角田は任せた。
ウーロン茶が先に来た。花森がグラスを両手で包んだ。冷たかった。冬に冷たいウーロン茶を頼んでしまった。花森が「つめたっ」と笑った。角田は普通に飲んだ。
餃子が来た。鉄板の上。二人前。十二個。湯気が立っていた。油が跳ねていた。焦げ目がついていた。
「わあ」
花森が箸を取った。餃子を一つ持ち上げた。皮が薄かった。中の肉が透けていた。酢醤油の小皿に浸した。ラー油を少し垂らした。
口に運んだ。
齧った。
肉汁が出た。花森が目を見開いた。
「あつっ——」
口を開けた。息を吐いた。手で口元を扇いだ。頬が膨らんでいた。熱い餃子を噛みかけのまま口の中で転がしていた。飲み込んだ。
「あっつい。でもおいしい」
花森がもう一つ取った。今度は箸で半分に割った。中から湯気が出た。半分を酢醤油につけた。ふーふーした。息を吹きかけた。唇を尖らせて。湯気が花森の顔にかかった。前髪が揺れた。
口に入れた。目を閉じた。
「おいしい……」
角田は自分の餃子を食べていた。酢醤油をつけた。齧った。熱かった。うまかった。普通に食べた。
回鍋肉が来た。キャベツとピーマンと豚肉。甜麺醤の匂いがした。花森が取り皿に盛った。角田の分も。花森が角田の皿に回鍋肉を載せた。花森の箸で。
「角田先生、これもおいしいですよ」
角田は食べた。甘辛かった。ご飯に合った。
花森がご飯の上に回鍋肉を載せて食べていた。口が大きく開いた。頬張った。ご飯粒が唇の端についた。花森は気づいていなかった。咀嚼していた。幸せそうだった。
「花森先生」
「はい?」
「ご飯粒が」
「え、どこですか」
「右です。唇の」
花森が指で右の唇を触った。場所が違った。
「ここですか」
「もう少し下です」
花森が指をずらした。まだ違った。
「取れましたか」
「……取れていません」
花森が角田を見た。角田は花森の唇の右端を見ていた。ご飯粒がまだついていた。
「角田先生、取ってください」
「自分で取れると思います」
「場所が分からないんです」
角田は箸を置いた。手を伸ばした。人差し指で花森の唇の右端に触れた。ご飯粒を取った。指の先にご飯粒がついた。
花森が「ありがとうございます」と笑った。角田はご飯粒を紙ナプキンに置いた。箸を取った。餃子の続きを食べた。
花森は一瞬だけ黙った。それから回鍋肉の続きを食べた。
角田は気づいていなかった。花森が一瞬だけ黙ったことに。
餃子がなくなった。十二個。花森が七個食べた。角田が五個食べた。花森が最後の一個を取る時、「角田先生いいですか」と聞いた。角田が「どうぞ」と言った。花森が最後の一個を酢醤油につけて、半分に割って、片方を角田の皿に置いた。
「半分こ」
「……結局もらうんですか」
「だって最後の一個ですから」
角田は半分の餃子を食べた。花森がもう半分を食べた。同じ餃子の、同じ断面を、二人が食べた。
花森がウーロン茶を全部飲んだ。氷を噛んだ。がりがりと音がした。角田のウーロン茶はまだ半分残っていた。
「ごちそうさまでした」
花森が手を合わせた。角田も手を合わせた。
花森がレジで払った。角田は先に外に出た。花森が出てきた。
「角田先生」
「はい」
「月曜日、ミンくんの書類持ってきます」
「卒業制作のレポートと、成績証明書の原本」
「はい。あと翻訳の件も月曜日に依頼します」
「課税証明書は」
「月曜に区役所で取ります。最新年度。今度は間違えません」
花森が拳を作った。小さい拳。ガッツポーズのつもりらしかった。角田は何も言わなかった。
「じゃあ月曜日に」
「はい」
花森が手を振った。両国の方に歩いて行った。ヒールの音が遠くなった。
角田は事務所に戻った。
机の上にカフェラテの空き容器が三つ。角田の分と花森の分とミンの分。三人分の空き容器。角田は三つともゴミ箱に捨てた。
椅子に座った。引き出しからファイルを出した。花森のファイル。赤ペンの書き込みだらけのファイル。
手帳を開いた。今日メモした内容を読み返した。Java。Python。データベース。バックエンド。在庫管理システム。卒業制作。四人チーム。田中部長。
赤ペンの蓋を開けた。
白い紙を出した。申請理由書の下書き。一行目から書き始めた。
「申請人グエン・ヴァン・ミンは、○○専門学校情報技術学科において二年間の課程を修了し——」
角田の赤ペンが白い紙の上を走った。
ミンの二年間を、一本の線にする仕事だった。学んだこと。作ったもの。これからやること。全部つなげて、一枚の紙にする。審査官はこの紙だけを見る。この紙に書いてあることだけが存在する。
角田は書いた。
花森が言った。「大丈夫だよ、ミンくん」。花森の大丈夫には根拠がなかった。花森はいつもそう言う。だが今回は角田が書類を書いている。角田が書けば、花森の「大丈夫」が本当になる。
書いてないことは存在しない。だから書く。
角田は書き続けた。事務所の窓の外が暗くなっていた。




