第2話 赤ペンの嵐
翌日。十時。インターホンが鳴った。
角田は分かっていた。赤ペンの蓋を閉めた。立ち上がった。ドアを開けた。
花森のどかが立っていた。
昨日と違った。ダウンコートにニット。白いニット。首が広く開いていた。髪を下ろしていた。肩にかかっていた。昨日より長く見えた。
「おはようございます。今日事務所お休みなので、私服で来ちゃいました」
花森が入ってきた。コートを脱いだ。椅子の背にかけた。ニットの袖を少し引っ張って手首を隠した。癖らしかった。
トートバッグからカフェラテ二つ。今日も二つ。角田の分と花森の分。それからチョコレートの箱。「差し入れです」。それからコンビニの肉まん。紙袋。湯気が出ていた。
「角田先生、朝ごはん食べました?」
「食べました」
「じゃあおやつで」
花森が肉まんを角田の机に置いた。書類の横に肉まんが置かれた。角田の事務所の机に肉まんが置かれるのは初めてだった。
「不足書類、持ってきました」
花森がファイルを出した。雇用契約書の裏面コピー。会社のパンフレット。
「卒業証明書の翻訳は」
「あ。まだです」
「課税証明書は」
「えっと——これです」
角田は受け取った。見た。
「これは前年度のものです」
「え」
「最新年度のものが必要です」
「六年度と七年度って——あ、年度が違うんですね。すみません。明日取り直します」
花森がしょんぼりした。椅子に深く座った。肉まんの紙袋を開けた。齧った。しょんぼりしながら肉まんを齧っていた。湯気が花森の顔にかかった。前髪が揺れた。
花森が肉まんを半分食べた。残りを角田の方に差し出した。
「角田先生も食べます? あったかいですよ」
歯形がついていた。花森が齧った断面が見えていた。肉汁が光っていた。
「いえ、大丈夫です」
「遠慮しないでください」
「遠慮ではなく、自分の分があるので」
角田が花森の置いた肉まんを指した。花森が「あ、そうだった」と笑った。肉まんの残りを口に入れた。頬が膨らんだ。咀嚼しながら目を細めた。飲み込んだ。指先についた肉汁を、唇に近い方の指から順に舐めた。親指。人差し指。舌先が指の腹に触れた。花森はそれが普通だった。
角田は書類を読んでいた。
*
角田がファイルを開いた。昨夜読み込んだファイル。赤ペンの書き込みが全ページに入っていた。付箋が十二枚ついていた。黄色の付箋。一色。
「これを説明します。見てください」
花森が向かいの椅子から立ち上がった。角田の横に来た。椅子を引きずって持ってきた。角田の隣に座った。近かった。肘が触れた。
花森のニットから柔軟剤の匂いがした。甘い匂い。角田の事務所にはない匂いだった。角田は匂いに気づいていなかった。ファイルの一枚目を開いた。
「ここ。申請理由書。『ITに関連する業務に従事する予定です』。これだけでは足りません」
「足りない」
「具体的に何をするのか。プログラミングなのか、システム設計なのか、運用保守なのか。審査官は面接しません。書類だけで判断する。書いてないことは存在しない」
花森が角田を見た。横から。近い距離で。角田の横顔を見ていた。
「角田先生って、書類のこと話す時だけ声が変わりますね」
「……変わりますか」
「なんか、熱い」
角田は花森を見た。花森の目が大きかった。睫毛が長かった。近かった。
「……次のページを見てください」
角田がページをめくった。花森が「あ、はい」と言ってファイルに目を戻した。前かがみになった。ニットの襟元が緩んだ。白い鎖骨が見えた。角田は見ていなかった。赤ペンの先が雇用契約書の第三条を指していた。
「ここ。雇用契約書の職務内容欄。『ITに関する業務』。申請理由書と同じ文言です。会社側も本人側も何をするのか分かっていないように見える」
「でもミンくんはプログラミングって——」
「書いてありません。口頭で聞いたことは証拠にならない。会社に確認して、具体的な職務内容を記載した書類を出してもらう必要があります」
花森がメモした。今日は自分のペンを持ってきていた。ピンク。花森のメモはピンクの字で並んでいった。
花森がメモしながら角田に体を寄せた。ファイルの文字を読もうとしていた。花森のペンの先が角田の袖に触れた。
「花森先生」
「はい」
「ペンが私の袖に当たっています」
「あ、すみません」
花森が体を少し引いた。だがすぐ元に戻った。ファイルを見ようとすると自然に寄ってくる。角田との間に隙間がなくなった。花森の肩が角田の腕に触れていた。花森は気にしていなかった。角田の腕に花森の体温が伝わっていた。ニット越しに。角田は次のページをめくった。
卒業証明書。
「この翻訳。前回の申請で出したものですか」
「はい。ミンくんの友達が訳してくれて」
「『情報技術に関する科目を履修し』——ここが問題です。原文のベトナム語ではどう書いてありますか」
「えっと——」
花森がファイルの中をめくった。原本を探していた。見つからなかった。角田のファイルの中に紛れていた。角田が見つけた。二人で同じ紙を持った。紙の端を花森が持ち、紙の真ん中を角田が持った。花森の指が角田の指の隣にあった。小さい指だった。爪にうっすら透明のマニキュアが塗ってあった。角田は紙の文字を見ていた。
「花森先生、ベトナム語は読めますか」
「読めないです」
「私も読めません。正確な翻訳を専門の翻訳者に依頼してください。翻訳証明書付きで」
「はい……あの、翻訳ってどこに頼めばいいですか」
角田が手帳を出した。翻訳会社の連絡先を探した。手帳を開いた。花森が覗き込んだ。角田の隣から。角田の手帳の上に花森の顔があった。髪が手帳に触れそうだった。髪の匂いがした。シャンプーか何かの、果物のような匂いだった。角田は翻訳会社の電話番号を読み上げた。
花森がピンクのペンでメモした。
「角田先生の手帳、すごい……」
「何がですか」
「全部赤ペンなんですね。きれい。字がきれい」
花森が角田の手帳のページを指でなぞった。赤い字の上を。角田の字の上を花森の指が滑った。
角田は手帳を閉じた。
「課税証明書は最新年度のものを。それから——」
角田はファイルを閉じた。花森を見た。
「申請理由書は私が書き直します。一からです。そのために、グエンさんに直接会って話を聞きたい」
花森が顔を上げた。目が光った。
「ミンくんに会ってくれるんですか」
「話を聞かないと書けません。いつがいいですか」
「明後日——金曜日、ミンくんの時間が取れると思います。ここでいいですか。この事務所」
「構いません」
花森が立ち上がった。嬉しくて体が動いた。角田の手を両手で握った。
「ありがとうございます。角田先生」
角田の右手が花森の両手の中にあった。花森の手は小さかった。柔らかかった。温かかった。角田は赤ペンを持ったままだった。赤ペンごと握られていた。花森の掌の中で赤ペンの軸が温まっていた。
「花森先生」
「はい」
「赤ペンが」
「あ——すみません」
花森が手を離した。笑った。照れてはいなかった。自然に笑っていた。花森にとってはこれが普通だった。
赤ペンの蓋が外れていた。花森の手の中で外れた。蓋が床に落ちた。転がった。机の下に入った。
花森が「あ、蓋」と言って屈んだ。机の下に手を伸ばした。ニットの裾が上がった。腰が見えた。角田は椅子に座ったままだった。花森の背中が目の前にあった。白いニットの背中。屈んでいるから布が張っていた。角田は天井を見ていた。何を見ていたのか分からなかった。
花森が蓋を拾って起き上がった。髪が乱れていた。頬が赤かった。屈んだから血が上ったらしかった。蓋を角田に渡した。手渡し。指が触れた。花森の指は温かかった。
「はい。すみません落としちゃって」
角田は蓋を受け取った。赤ペンに嵌めた。閉めた。
「……ありがとうございます」
「角田先生、大事にしてますよねそのペン」
「仕事道具ですから」
花森が笑った。
*
時計を見た。一時を過ぎていた。二人とも昼を食べていなかった。
「お腹空きませんか」
「長谷川に——」
「昨日のお蕎麦おいしかったですけど、今日はカレーとか食べたくないですか」
「カレー」
「近くにいいとこあるんですよ。両国の方に。ナンが大きいんです」
角田は断る理由がなかった。コートを着た。花森がダウンコートを着た。マフラーを巻いた。二人で階段を下りた。
花森が先に歩いた。角田がついていった。角田が誰かの後をついていく構図は珍しかった。花森の歩幅は小さかった。だが速かった。ダウンコートの裾が揺れていた。角田は花森の半歩後ろを歩いた。
カレー屋。両国の裏通り。インド人が営んでいる小さな店。花森が先に入った。「いつもの席お願いします」。常連らしかった。
テーブル席。花森が向かいに座った。コートを脱いだ。ニットの下に何か着ているのか着ていないのか分からなかった。角田には関係なかった。メニューを開いた。
「角田先生、辛いの大丈夫ですか」
「あまり食べません」
「じゃあバターチキンにしましょう。甘口で。ナンで」
花森が注文した。角田は任せた。
カレーが来た。大きなナン。皿からはみ出ていた。バターチキンカレー。オレンジ色。クリーミーだった。パクチーが乗っていた。花森がパクチーを避けて角田の皿に移した。
「パクチー苦手なんです。角田先生大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「よかった」
花森がナンをちぎった。両手で。引きちぎった。ちぎる手つきが力強かった。小さい手なのに力があった。ちぎった断面が白かった。もちもちしていた。花森がナンをカレーにつけた。たっぷり。オレンジ色のカレーがナンの白に染みた。
口に運んだ。
花森が目を閉じた。
「おいしーー」
咀嚼した。頬が動いた。飲み込んだ。目を開けた。幸せそうだった。舌先で唇についたカレーを舐めた。オレンジ色が唇から消えた。
「角田先生、食べてください。冷めますよ」
角田はナンをちぎった。カレーにつけた。食べた。甘かった。バターチキンは甘かった。辛くなかった。トマトの酸味とバターのコクがあった。角田はあまり食べたことのない味だった。
「おいしいでしょ」
「……甘いですね」
「甘いのがいいんですよ。ナンと合うんです」
花森がもう一枚ナンをちぎった。大きめに。カレーをたっぷりつけた。角田の方に差し出した。花森の指にカレーがついていた。オレンジ色。
「角田先生、これ食べてください。カレー多めにつけた方がおいしいんです」
花森の手が角田の前にあった。ナンを持っている。花森がちぎったナン。花森の指の温度。カレーの匂い。
「自分でちぎれます」
「いいからいいから。はい」
角田は受け取った。花森の指から角田の指へ。ナンが渡った。角田は食べた。カレーが多かった。口の周りについた。角田が手の甲で拭いた。
花森が笑った。嬉しそうに。角田が食べるのを見ていた。花森は自分のナンをちぎりながら角田を見ていた。角田が咀嚼して飲み込むのを見届けてから、自分のナンを口に運んだ。
「おいしいでしょ」
「……おいしいです」
花森がまた目を閉じた。カレーを食べるたびに目を閉じた。三回目。毎回閉じる。閉じて、咀嚼して、飲み込んで、開ける。その間、花森の睫毛が頬に影を落としていた。
花森がナンでカレーの残りを全部さらった。皿がきれいになった。花森の食べ終わった皿には何も残っていなかった。
角田の皿にはカレーが少し残っていた。
「角田先生、残すんですか」
「少し多かったので」
「もったいない」
花森がナンの最後のひとちぎりで角田の皿に手を伸ばした。角田の皿のカレーをナンでさらった。角田の皿。角田のカレー。花森のナン。花森が角田の皿のカレーを口に入れた。
「うん。やっぱりおいしい」
角田は水を飲んでいた。
「ごちそうさまでした」
花森が手を合わせた。角田も手を合わせた。
「今日は私が払います。お世話になってるんだから」
「各自で」
「だめですよ。角田先生、書類見てくれてるんだから」
「仕事です」
「仕事って——お金もらってないですよね」
角田は黙った。確かにもらっていなかった。花森の依頼は正式な受任ではない。相談。協力。角田は花森に報酬を請求するつもりがなかった。
「角田先生」
「はい」
「じゃあカレーくらい払わせてください。お願いします」
花森が手を合わせた。拝むように。目が上目遣いになった。角田は花森を見た。
「……では今日は」
「やった」
花森が払った。レジで。角田が先に外に出た。花森が出てきた。
「角田先生」
「はい」
「金曜日、ミンくん連れてきます。十時でいいですか」
「構いません」
「あと——」
花森が立ち止まった。角田も止まった。
「角田先生のチョコレート、食べてくださいね。机の上に置いてきちゃったから」
「……はい」
「じゃあ金曜日に」
花森が手を振った。小さい手。両国の方に歩いて行った。ダウンコートの裾が揺れていた。
角田は事務所に戻った。
机の上にチョコレートの箱があった。花森のカフェラテの空き容器。角田のカフェラテの空き容器。昼に食べなかった肉まんが冷めていた。花森のファイルが赤ペンの字だらけで開いていた。
角田は椅子に座った。チョコレートの箱を開けた。一つ取った。口に入れた。
甘かった。
赤ペンの蓋を開けた。ファイルを読み始めた。




