第1話 花森先生
一月。角田の事務所は寒かった。
エアコンは動いている。だが雑居ビルの三階は、冬になると隙間風が入る。どこから入るのか角田には分からない。窓を閉めても入る。壁の隙間か、床か。分からないが、寒い。
角田は書類を読んでいた。建設業許可の更新申請。毎年やっている得意先の案件。工事経歴書の数字を確認していた。赤ペンでチェックを入れていく。静かだった。いつも通りの午前中だった。
十一時半。そろそろ長谷川に行こうかと思った時に、インターホンが鳴った。
予約はない。
角田は赤ペンの蓋を閉めた。立ち上がった。ドアを開けた。
女が立っていた。
小柄だった。角田より頭ひとつ低い。コートを着ていた。ベージュのコート。マフラー。長い髪をまとめていたが、後れ毛が何本か出ていた。頬が赤かった。外から来たばかりだった。
「角田先生ですか」
「……すみたです」
「あ、すみません。すみた先生。支部の名簿で見て。花森です。花森のどか。同じ墨田支部の行政書士です」
花森がお辞儀した。マフラーがずれた。直した。顔を上げて笑った。目が大きかった。笑うと細くなった。
「ご相談したいことがあって来ました。お時間いいですか」
角田は中に入れた。椅子の上にファイルが積んであった。床に移した。花森が座った。コートを脱いだ。カーディガン。スカートを直した。事務所を見回した。
「すごい書類の量ですね」
「……はい」
「あ、コーヒーとか大丈夫ですか。持ってきたんです」
花森がトートバッグからコンビニのカフェラテを二つ出した。
「一つ角田先生の分です」
自分の分のストローを刺して飲んだ。角田の前にもう一つ置いた。角田はカフェラテを普段飲まない。だが出されたものは飲む。ストローを刺した。飲んだ。甘かった。
「それで、ご相談というのは」
「入管に強い先生を探してて」
「入管に強いわけではありません」
「でも書類に強いって聞きました。支部の研修で先生の話聞いたことあって。戸籍の読み方の」
「……あれを聞いていたんですか」
「はい。すごいなって思って」
花森がカフェラテを飲みながら言った。ストローを咥えたまま角田を見ていた。
「それで、ちょっと困ってることがあるんですけど」
花森がトートバッグからファイルを出した。クリアファイル。透明。中身が見えた。書類が入っていた。順番がおかしかった。申請書の後ろに添付書類があって、その間に付箋のついたメモが挟まっていた。付箋の色が三色あった。
角田はクリアファイルを受け取った。
「依頼人がいまして。ベトナム人の男の子で、グエン・ヴァン・ミンさん。二十三歳。日本語学校と専門学校を出て、都内のIT企業に内定をもらったんです。留学から技人国への在留資格変更申請を出しました」
「はい」
「不許可になりました」
花森の声が少し小さくなった。
「不許可の理由は」
「それが——入管の窓口で説明を受けたんですけど、ちょっとよく分からなくて」
「分からなかった」
「はい……」
花森がカフェラテを持つ手が少し下がった。目が潤んでいた。泣いてはいなかった。潤んでいた。
「グエンさんの就職開始日が二月一日なんです。あと三週間しかなくて。このままだと内定が——」
「書類を見せてください」
角田はクリアファイルの中身を出した。書類をまず順番に並べ直した。申請書。申請理由書。パスポートのコピー。在留カードのコピー。卒業証明書。成績証明書。雇用契約書。会社の登記事項証明書。会社の決算書。課税証明書。
花森が向かいの椅子からこちらを見ていた。
角田は赤ペンを取った。蓋を開けた。
一枚目。在留資格変更許可申請書。
角田の目が止まった。
「花森先生」
「はい」
「申請書の名前のスペリングが間違っています」
「え」
「パスポートのコピーを見てください。ファミリーネームのスペリング。申請書と違います」
角田がパスポートのコピーと申請書を並べた。花森が椅子から立ち上がった。角田の横に来た。机を覗き込んだ。前かがみになった。肩が触れる距離だった。角田が赤ペンで指している箇所を見た。
「ほんとだ……Nが一個多い……」
「次。申請理由書。三行目。専門学校の正式名称が間違っています。パンフレットの名称と申請書の名称が違う」
「え、待って、それも——」
「四行目。内定先の法人番号が未記入です」
「あ……」
「添付書類。雇用契約書のコピー。これは両面ですか」
「えっと——片面しかコピーしてないかもです」
「裏面に職務内容の詳細が書いてある可能性があります。確認が必要です」
角田は赤ペンの蓋を閉めた。開けた。閉めた。
花森がまだ横にいた。角田の手元を見ていた。髪が耳にかかっていた。後れ毛が頬に触れていた。
「花森先生」
「はい」
「最初から見させてください。全部読みます」
「お願いします……」
花森が自分の席に戻った。カーディガンの前を直した。座った。しょんぼりしていた。だがカフェラテは飲んでいた。ストローを咥えたまましょんぼりしていた。
角田は一枚目から読み始めた。赤ペンで。
一枚目。赤が三箇所。
二枚目。赤が五箇所。
三枚目の申請理由書で、角田は赤ペンの蓋を置いた。蓋を閉める時間が惜しかった。
花森が向かいの椅子で、角田の赤ペンの動きを見ていた。何かを言いたそうだった。だが黙っていた。角田の手が止まらないことだけは分かったらしかった。
五枚目が終わった時、花森が言った。
「角田先生」
「はい」
「……そんなにありますか」
角田は花森を見た。花森の目が潤んでいた。さっきより多く。
「あります」
「……はい」
「ただ、本人の問題ではないと思います」
花森が顔を上げた。
「グエンさんの経歴を見る限り、資格変更が通らないスペックではありません。専門学校でITを専攻している。内定先の職務内容と関連性がある。N2を持っている」
「はい。ミンくんは真面目で——」
「問題は書類です。書類が、グエンさんの強みを正確に伝えられていない」
角田はペンを置いた。花森を見た。
「直せます」
花森の目から涙が一粒落ちた。すぐに手で拭いた。笑った。
「ありがとうございます」
角田はカフェラテを飲んだ。甘かった。二口目も甘かった。
「花森先生」
「はい」
「再申請は花森先生が出してください。私は申請取次の届出をしていません」
「え——角田先生、入管やらないんですか」
「やりません」
「じゃあ書類だけ」
「書類だけ直します。窓口は花森先生の仕事です」
花森は少し考えた。それから頷いた。
「分かりました。お願いします」
角田はファイルを自分の机の上に置いた。棚の前ではなく、机の上に。今日中に読む。
花森が立ち上がった。コートを着た。マフラーを巻いた。
「角田先生、お昼ご飯は」
「長谷川に——」
「ながせがわ?」
「蕎麦屋です」
「あ、お蕎麦。いいですね。私もお腹空いたなあ」
花森が角田を見た。角田は花森を見た。
「……お一人で行かれますか」
「え、一緒に行っちゃだめですか」
「いえ、だめではないですが」
「じゃあ行きましょう。ご馳走しますよ。お礼に」
「いえ、それは」
「行きましょう行きましょう」
花森がドアを開けた。階段を下り始めた。角田はコートを取った。赤ペンの蓋が閉まっているか指で確認した。閉まっていた。鍵をかけた。
階段を下りた。花森が下で待っていた。
「角田先生、どっちですか」
「こっちです」
二人で歩いた。一月の本所は寒かった。花森がマフラーに顔を埋めていた。鼻と目だけ出ていた。
「寒いですね」
「はい」
「角田先生、マフラーしないんですか」
「しません」
「風邪ひきますよ」
「ひきません」
花森が笑った。白い息だった。
長谷川の暖簾が見えた。角田がくぐった。花森がくぐった。
「かけで」
「私もかけで。あ、天ぷらつけていいですか」
花森がメニューを見ていた。角田はいつもの席に座った。花森が隣に座った。向かいではなく、隣に。カウンターが狭かった。
蕎麦が来た。角田のかけ。三百八十円。花森のかけ天ぷら。
角田は食べた。いつもの蕎麦だった。
花森が天ぷらを箸で割った。衣がさくっと鳴った。
「おいしい」
花森が目を閉じて言った。
角田は蕎麦を食べていた。汁を飲んだ。いつもの汁だった。
「角田先生、ここ毎日来てるんですか」
「ほぼ毎日です」
「いいなあ。こういうお店」
花森が蕎麦湯を飲んだ。角田の湯呑みと同じやつで出てきた。両手で包んで飲んだ。
「温かい」
角田は丼の底を見ていた。汁は半分残っていた。飲もうとした。花森がまだ喋っていた。
「ミンくんのこと、本当にありがとうございます。私一人じゃどうしていいか分からなくて」
「書類を直すだけです」
「でも助かります」
花森が角田を見た。目が大きかった。睫毛が長かった。蕎麦湯の湯気が顔にかかっていた。
「大丈夫ですよ、ミンくんには。角田先生がいるから」
角田は汁を飲んだ。残りを全部。丼の底が見えた。
三百八十円を置いた。花森が「私が払いますって」と言った。角田はもう払っていた。
「ごちそうさまでした」
「あ、待ってください角田先生——」
花森が財布を出している間に角田は暖簾をくぐっていた。
外は寒かった。花森が出てきた。
「もう。角田先生、速いですね」
「事務所に戻ります。書類を読みます」
「はい。じゃあ私は事務所に戻ってグエンさんに連絡します」
「雇用契約書の裏面を確認してください」
「はい」
「卒業証明書の原本も必要です。翻訳も。正確なものを」
「はい」
「課税証明書が最新年度になっていません。今年度のものを」
「はい、はい」
「それから——」
「角田先生」
「はい」
「メモしていいですか」
花森がトートバッグからペンを探していた。見つからなかった。バッグの中をかき回していた。ペンが出てこなかった。
角田はコートのポケットから赤ペンを出した。花森に渡した。
「あ、ありがとうございます。借ります」
「返してください」
「もちろんです」
花森が角田の赤ペンで、手帳にメモを書き始めた。角田の赤ペン。角田が毎日使っている赤ペン。花森の手帳に赤い字が並んでいった。
「雇用契約書の裏面。卒業証明書の原本と翻訳。課税証明書の最新版。あと何でしたっけ」
「内定先の会社概要。事業内容が分かるもの。パンフレットかホームページの印刷でもいい」
「はい」
花森がメモを書き終えた。赤ペンの蓋を閉めた。角田に返した。
「ありがとうございます。明日持っていきます」
「明日は——」
「明日また来ていいですか」
「……どうぞ」
花森が笑った。手を振った。両国の方に歩いて行った。
角田は赤ペンを見た。蓋が閉まっていた。花森が閉めた蓋だった。
事務所に戻った。机の上にファイルがあった。花森のクリアファイル。三色の付箋。コンビニのカフェラテの空き容器が二つ。角田の分と花森の分。
角田はカフェラテの容器をゴミ箱に捨てた。ファイルを開いた。赤ペンの蓋を開けた。
読み始めた。




