第10話 読めない名前
八代駅。朝。角田と黒田はベンチに座っていた。新八代までの列車を待っていた。
角田は黒田に報告した。遥から聞いたことを。
七月。緒方が遥を訪ねた。初めて。名乗った。隣の家を処分すると言った。三十分で帰った。遥が宮原に電話した。宮原は「分かった」とだけ言った。
黒田は聞いた。煙草を吸いたそうに手を動かしたが、駅のベンチだった。缶コーヒーを持っていた。微糖。飲まなかった。
「宮原は七月に知っていた。緒方が来たことも、土地を売ろうとしていたことも」
「はい」
「七月に知って、十月に刺した。三ヶ月」
角田は何も言わなかった。
「三ヶ月の間に、宮原は緒方に連絡したはずだ。電話か、会ったか。通話記録を確認する」
「はい」
「宮原が緒方に何を言ったか——推測だが」
「推測です」
「売るな、と言っただろう。あの土地を売るな。遥が隣にいる。智恵子の墓もある。処分するな、と」
角田は駅のホームを見ていた。線路。向こう側の田んぼ。山。
「緒方はそれでも売ろうとした。年内に決済すると決めていた。宮原が何を言っても止まらなかった」
黒田は缶コーヒーを開けた。飲んだ。
「十月三日。ふじで二人で飲んだ。焼酎を。口論になった。宮原が包丁を持った。刺した」
「それは検察が組み立てます」
「ああ。俺の仕事はここまでだ」
列車が来た。二人は乗った。
新八代。新幹線に乗り換えた。博多まで一時間もかからなかった。
博多駅。乗り換えの時間があった。黒田が通路の店を見ていた。
「あったぞ」
熊本ラーメンの店。マー油の匂いがした。黒い。博多ラーメンの白い豚骨とは違った。
二人で入った。黒田がカウンターに座った。角田が隣に座った。
黒田が替え玉なしで普通盛りを頼んだ。角田も同じものを頼んだ。
ラーメンが来た。黒い油が浮いている。太い麺。もやし。キクラゲ。焦がしにんにくの匂い。
黒田が食べた。角田が食べた。
「どうだ」
「博多のとは違います」
「どう違う」
角田は少し考えた。
「重いです」
黒田が笑った。声は出さなかった。口の端が少し上がっただけだった。
「足し算だ。言っただろう」
角田は麺を食べた。最後まで食べた。スープは残した。重かった。
博多空港。羽田行き。二時間。
黒田は通路側に座った。角田は窓側に座った。黒田はすぐに寝た。角田は窓の外を見ていた。雲の上だった。
手帳を開いた。赤ペンで今回の調査を整理した。
真由美に報告すること。相続人が三名であること。緒方の認知した子、野中遥が八代市に在住していること。遺産分割協議に遥の参加が必要であること。八代の不動産が未処分であること。仮登記が存在すること。
真由美は認知のことを知らない。不動産のことも知らない。処分したと聞いていた。
角田は手帳を閉じた。窓の外を見た。雲が切れて、下に海が見えた。
羽田に着いた。夕方だった。黒田とモノレールに乗った。浜松町で降りた。
「俺は本庁に戻る」
「お疲れ様でした」
黒田は角田を見た。
「真由美さんへの報告は」
「明日、事務所にお呼びします」
「そうか」
黒田は歩き出した。三歩歩いて止まった。
「遥は——」
角田は待った。
「どんな奴だった」
「静かな人でした」
黒田は何か言いかけて、やめた。手を上げた。歩いて行った。
角田は浜松町から総武線に乗った。錦糸町で降りた。
*
翌日。角田の事務所。
真由美が来た。紺のコートを着ていた。前回と同じ椅子に座った。角田が茶を出した。
「相続手続きの経過をご報告します」
角田はファイルを開いた。
「緒方さんの改製原戸籍を確認したところ、認知の記載がありました」
真由美の手が止まった。
「認知された子が一名います。野中遥さん。現在三十三歳。熊本県八代市に在住されています」
真由美は角田を見ていた。
「認知届の日付は平成四年六月十五日です。緒方さんと真由美さんがご結婚される前のことです」
「……結婚の前」
「はい。緒方さんが三十歳の時の届出です」
真由美は黙った。角田も黙った。事務所の壁際のスチール棚が、微かに軋んだ。ファイルの重さか、建物の揺れか。
「知りませんでした」
「はい」
「主人は——何も言いませんでした」
角田は何も言わなかった。
「もう一点、ご報告があります。八代市の不動産についてです」
真由美が角田を見た。
「緒方さん名義の土地と建物が八代市に残っています。処分されていません。固定資産税は緒方さんが継続して納付されていました」
真由美の目が揺れた。処分したと聞いていた。三十年前に。
「処分して——いなかったんですか」
「はい。登記簿上、緒方さんの名義のままです。また、今年八月七日付で売買予約を原因とする仮登記が入っています。緒方さんが売却を進めておられた途中です」
真由美は下を向いた。膝の上の手が握られていた。
角田は待った。
「……分かりました」
「遺産分割協議には、遥さんの参加が必要です。法定相続分は、真由美さんが二分の一、彩花さんが四分の一、遥さんが四分の一です」
「その方は——その方は、どんな方ですか」
角田は一瞬、遥の家を思い出した。六畳の畳。仏壇。高菜の漬物。お茶。
「静かな方でした」
真由美は頷いた。何度か頷いた。泣いてはいなかった。
「協議書の案ができましたら、あらためてご連絡します。ご不明な点があればいつでもお電話ください」
「はい。ありがとうございます」
真由美は立ち上がった。コートを着た。ドアに向かった。
「角田さん」
「はい」
「主人は——八代に何を残していたんでしょうか」
角田は答えなかった。答えられなかった。書類には書いてあった。土地。建物。固定資産税の納付記録。認知届。それは全部書類に書いてあった。だが真由美が聞いているのはそういうことではなかった。
「お気持ちの整理がつきましたら、ご連絡ください。急ぎません」
真由美は頭を下げた。出て行った。
角田は椅子に座ったままだった。ファイルを閉じた。棚に入れた。「緒方信一郎 相続」。横山家のファイルの横に。
棚が軋んだ。
*
夕方。角田は長谷川の暖簾をくぐった。
「かけで」
いつもの席。いつもの声。カウンターの向こうで湯が沸いていた。
蕎麦が来た。いつもの蕎麦だった。出汁の匂い。葱。蕎麦の白。
食べた。蕎麦は何も変わっていなかった。八代のだご汁でも、博多のラーメンでも、熊本のマー油でもなかった。長谷川のかけだった。
汁を飲んだ。
丼の底が見えた。
角田は三百八十円を置いた。暖簾をくぐった。
外は暗かった。十一月の本所。風が冷たかった。コートの襟を立てた。
事務所に戻った。電気をつけた。机の上に手帳を置いた。赤ペンを筆立てに入れた。
椅子に座った。棚を見た。ファイルが並んでいた。横山家。緒方家。その横にまだ空間があった。
角田は手帳を開いた。最後のページ。赤ペンで一行だけ書いた。
「野中遥——相続人」
手帳を閉じた。赤ペンの蓋を閉めた。
事務所の電気を消した。




