第9話 遥
朝。角田はホテルの部屋でファイルを確認した。委任状のコピー。戸籍謄本のコピー。遥の戸籍附票。名刺。手帳。赤ペン。
ロビーに降りた。黒田がソファに座っていた。缶コーヒーを持っていた。
「行ってこい」
「はい」
黒田はそれ以上何も言わなかった。角田も何も聞かなかった。
フロントでタクシーを呼んでもらった。住所を伝えた。昨日と同じ住所。運転手が頷いた。
十五分。タクシーが止まった。
角田は降りた。緒方の空き家が左にある。草が膝まで伸びている。表札はない。その隣。表札「野中」。平屋。手入れされている。花が咲いている。洗濯物が出ていない。朝だからか。
角田はインターホンを押した。
間があった。十秒。二十秒。足音がした。小さな足音。
ドアが開いた。
女性が立っていた。小柄だった。髪を後ろで束ねていた。エプロンをしていた。目が少し大きかった。それ以外は、目立つ特徴のない顔だった。
角田は名刺を出した。
「行政書士の角田と申します。緒方信一郎さんの相続手続きを受任しております。お話を伺いたいのですが、野中遥さんでお間違いないでしょうか」
女性は名刺を見た。角田を見た。「緒方」の名前を聞いた時、表情が変わらなかった。
「野中です」
間があった。遥は角田の後ろを見た。誰もいないことを確認したのかもしれない。
「どうぞ」
角田は靴を脱いだ。廊下は短かった。居間に通された。六畳。畳。い草の匂いがした。駅前で嗅いだ匂いと同じだった。きれいに片付いていた。座卓。座布団が二枚出された。壁に小さな仏壇があった。写真が一枚。中年の女性。智恵子だろうと角田は思った。
「お茶を入れます」
遥は台所に行った。角田は座った。座卓にファイルを置いた。手帳を出した。赤ペンを出した。
部屋を見た。清潔だった。物が少なかった。棚に本が並んでいた。背表紙は読めなかった。窓の外に小さな庭があった。花壇。プランター。遥が世話をしているのだろう。
遥が戻ってきた。急須と湯呑みを二つ。小皿に漬物。高菜だった。
「どうぞ」
角田はお茶を受け取った。飲んだ。温かかった。
「突然のご訪問で申し訳ありません。緒方信一郎さんの相続手続きに関して、お話があります」
「はい」
「緒方信一郎さんが今年十月三日に亡くなりました。緒方さんの妻の田中真由美さんから相続手続きのご依頼を受けています」
遥は黙っていた。角田を見ていた。
「相続手続きの過程で、緒方さんの改製原戸籍を確認しました。平成四年六月十五日付の認知届が記載されています。被認知者は野中遥さん。母の氏名は野中智恵子さん」
遥は頷いた。
「知っています」
「認知のことをご存じでしたか」
「母から聞きました。私が高校生の時に」
角田は赤ペンで手帳に書いた。
「遥さんは法律上、緒方さんの相続人になります。相続人は三名です。妻の真由美さん、娘の彩花さん、そして遥さん。遺産分割協議を行うにあたり、全相続人の同意が必要です」
遥は頷いた。驚いた様子はなかった。
「遺産分割協議書にご署名をいただく必要があります。協議の内容については、真由美さん側と調整した上であらためてご連絡します」
「分かりました」
角田はお茶を飲んだ。遥も飲んだ。二人とも黙っていた。
「緒方さんとお会いになったことはありますか」
遥の手が止まった。湯呑みを持ったまま。
「今年の夏に、一度だけ」
角田の赤ペンが止まった。
「七月です。突然来ました」
「この家に」
「はい。初めてでした。インターホンが鳴って、出たら、男の人が立っていました。六十くらいの。名乗りました。緒方信一郎ですと」
角田は書いた。
「母のことを聞かれました。亡くなったことは知っていると言いました。お墓にも参っていると。それから——隣の家のことを」
「隣の家」
「処分しなければいけないと思っていると言いました。ずっと放っておいてすまなかったと」
角田は赤ペンの蓋を閉めた。
「お茶を出しました。飲みました。三十分くらいで帰りました。それだけです」
「その後の連絡は」
「ありません。一度きりです。次に名前を聞いたのは——亡くなったという話です。十月に。宮原のおじさんから聞きました」
角田は赤ペンの蓋を開けた。
「宮原さんに、緒方さんが来たことを話しましたか」
「はい。おじさんに電話しました。父が来たと」
「いつ」
「父が帰ったすぐ後です。七月の。おじさんは黙っていました。しばらく何も言わなくて。それから——分かったとだけ」
角田は書いた。赤ペンの音だけが部屋にあった。
「隣の家を処分すると言っていたことも、おじさんに話しましたか」
「はい」
遥は湯呑みを座卓に置いた。
「おじさんは怒りませんでした。ただ——困った声でした」
角田は手帳を閉じた。
「ありがとうございます。相続手続きに必要なことは以上です。協議書の件はあらためてご連絡します」
角田はファイルと手帳をまとめた。立ち上がった。名刺を改めて座卓に置いた。
「何かご不明な点があれば、いつでもご連絡ください」
「角田さん」
角田は玄関に向かいかけた足を止めた。
「父は——どんな人でしたか」
角田は振り向いた。遥は座ったままだった。湯呑みの横に角田の名刺があった。
「お会いしたことはありません。書類でしか存じ上げません」
「そうですか」
「ただ——」
角田は少し間を置いた。
「隣の家の固定資産税を、三十年間払い続けておられました」
遥は黙った。角田も黙った。仏壇の写真の智恵子が、二人を見ていた。
「……そうですか」
角田は頭を下げた。靴を履いた。
「失礼します」
ドアが閉まった。角田は歩き出した。タクシーは待っていなかった。歩くことにした。
十一月の八代。風が冷たかった。空は曇っていた。角田はファイルを鞄に入れた。手帳はポケットに入れた。赤ペンの蓋が閉まっているか、指で確認した。閉まっていた。
住宅地を歩いた。緒方の空き家を通り過ぎた。草の中に、コンクリートの基礎が見えた。建物はまだ建っていた。
角田は立ち止まらなかった。歩いた。
大通りに出た。タクシーを拾った。ホテルに戻った。
ロビーに黒田はいなかった。
部屋に戻った。ファイルを開いた。手帳を開いた。今日聞いたことを整理した。赤ペンで線を引いた。
遥が語ったこと。七月。緒方が来た。初めて。名乗った。智恵子の墓に参っていると言った。隣の家を処分すると言った。三十分で帰った。遥が宮原に電話した。宮原は黙っていた。分かった、とだけ言った。
角田は手帳を閉じた。
窓の外を見た。曇り空。日本製紙の煙突が見えた。昼間は煙が白く上がっていた。
角田は昼飯を食べていなかった。腹は減っていなかった。
昨日の鮭弁当の残りが、ゴミ箱にあった。




