第8話 智恵子
黒田は午後から歩いていた。
緒方の本籍地の周辺。住宅地。家と家の間が広い。畑がある。柿の木がある。十一月。葉が落ちている木と、まだ残っている木がある。
黒田は一軒ずつ回った。インターホンを押して、名刺を出して、聞いた。
「東京の警視庁の者です。緒方さんのお宅の件で、ご近所の方にお話を伺っています」
四軒目。斜め向かいの家。七十代の女性が出てきた。エプロンをしていた。畑仕事の途中だった。
「緒方さんのところ。空き家でしょう。もう長いこと誰も住んでいないですよ」
「隣の野中さんはご存じですか」
「智恵子ちゃん。ああ、智恵子ちゃんは三年前に亡くなりました。病気で。四十代のはじめくらいからずっと一人で遥ちゃんを育てて。大変だったと思いますよ」
「遥さんのお父さんは」
「いなかった——いたんでしょうけど、こっちにはいなかった。智恵子ちゃんは何も言わなかった。聞かなかった。田舎ですからね、聞かないのがこっちの礼儀で」
「宮原修一という名前はご存じですか」
「宮原さん。ああ、時々来ておられた。智恵子ちゃんの同級生だと聞きました。東京から」
「いつ頃から」
「智恵子ちゃんが病気になってからは何度も来ていました。入院してからは月に一度くらい。遥ちゃんの面倒も見ていた。買い物を手伝ったり。遥ちゃんは当時まだ若かったから」
「智恵子さんが亡くなった時は」
「葬儀の手配をしたのは宮原さんです。遥ちゃんは一人でしょう。親戚もこっちにはいなかった。宮原さんが全部やりました。お寺の手配も、お花も。立派なお葬式でしたよ。人は少なかったけど」
黒田は聞いた。書かなかった。
「緒方さんの息子さん——緒方信一郎さんは」
「隣の息子さんね。東京に行ったきり。お父さんが亡くなった時も、すぐには帰ってこなかった。家はそのまま。草が伸び放題。たまに業者が来て刈ることがあったけど、本人は見なかった。こっちの人間はもう諦めてますよ」
「智恵子さんが亡くなってから、緒方さんが来ていたと聞いたんですが」
「ああ。そういえば。年に一回くらい、見かけた気がします。でもこっちの家には寄らなかった。お墓に行ってたんでしょうね。隣のうちの様子を見るくらいで、すぐ帰っていた」
「宮原さんと緒方さんが一緒にいるのを見たことは」
「ないですね。別々に来ていた。宮原さんはよく来ていた。緒方さんはたまに」
黒田は礼を言った。
五軒目。二軒隣。八十代の男性。
「宮原君か。智恵子さんの同級生だろう。緒方の息子と三人で、中学の頃は一緒に遊んでいたよ。三人組だった」
「智恵子さんとの関係は」
「さあ。同級生としか聞いとらん。だが宮原君は智恵子さんが亡くなった時、ずいぶん泣いていたよ。葬儀の時に。遥ちゃんの隣で」
黒田は立ち止まった。
「泣いていた」
「ああ。遥ちゃんは泣かなかった。静かな子だから。宮原君の方が泣いていた」
黒田は礼を言って歩き出した。
住宅地を抜けた。田んぼが広がっていた。空が広かった。山が遠くに見えた。黒田は自販機の前に立った。缶コーヒーを買った。微糖。温かい缶を手で持った。飲まなかった。しばらく持っていた。
宮原は泣いていた。緒方ではなく、宮原が。智恵子の葬儀で。遥の隣で。
黒田は缶コーヒーを開けた。飲んだ。甘かった。
*
角田は午後、八代市役所にいた。
市民課の窓口。戸籍附票の交付請求書。行政書士の職務上請求書を添えた。
「野中遥さんの戸籍附票をお願いします」
窓口の職員が請求書を確認した。
「相続手続きですか」
「はい。被相続人の認知した子の住所確認です」
待った。二十分。番号を呼ばれた。
角田は封筒を受け取った。ロビーのベンチに座った。封筒を開けた。
野中遥。戸籍附票。
住所の履歴。出生時の住所——八代市内。現住所——同じ八代市内。住所の移動なし。遥は生まれてから一度も八代を出ていなかった。
現住所は、緒方の本籍地の隣。昨日角田が見た家。表札「野中」。洗濯物。花。あの家に遥が住んでいた。
角田は赤ペンで手帳に書いた。
野中遥。現住所確認。緒方信一郎の認知した子。相続人。
角田は手帳を閉じた。明日、訪ねる。
市役所を出た。外は曇っていた。風が冷たかった。角田はホテルに向かって歩いた。途中、コンビニに寄った。何も買わなかった。棚を見て、出た。
*
六時。ホテルのロビー。
黒田が椅子に座っていた。缶コーヒーの空き缶をテーブルに置いていた。角田が来ると顎で向かいの椅子を示した。
「附票は取れたか」
「取れました。野中遥。現住所は昨日見た家です。住所の移動はありません。生まれてからずっと八代です」
「一度も出ていない」
「はい」
黒田は空き缶を見た。
「俺の方。近所を回った」
黒田が話した。智恵子が一人で遥を育てたこと。宮原が智恵子の病気の頃から通っていたこと。葬儀を手配したこと。遥の面倒も見ていたこと。
角田は聞いた。
「宮原は葬儀で泣いていた。遥は泣かなかった」
角田は何も言わなかった。
「宮原は葬儀で泣いていた。遥は泣かなかった」
角田は手帳を開かなかった。赤ペンも出さなかった。書くことではなかった。
「明日、お前が遥に会うんだな」
「はい。相続人としての確認です。緒方さんの相続手続きで、認知された子として遺産分割協議に参加していただく必要があります」
「俺は行かない。俺が行くと刑事の聞き込みになる」
「はい」
「お前は相続の仕事で行け。行政書士として」
「はい」
黒田は角田を見た。
「遥に聞いてくれ。緒方と会ったことがあるか」
角田はウーロン茶のペットボトルを持ったまま黒田を見た。
「相続手続きに必要な範囲で聞きます」
「……分かった」
黒田は立ち上がった。
「飯はどうする」
「部屋で済ませます」
「そうか。俺は店を探す」
黒田は出て行った。角田はロビーに残った。ウーロン茶を飲んだ。
明日、遥に会う。緒方信一郎の認知した子。智恵子の娘。三十三歳。生まれてから一度も八代を出ていない女性。母の家に住み、母の墓を守り、父の空き家の隣で暮らしている。
角田は遥の戸籍附票をファイルに挟んだ。委任状と戸籍のコピーを確認した。名刺を確認した。明日持っていくもの。
部屋に戻った。コンビニで買った弁当があった。鮭弁当。四百八十円。角田は弁当の蓋を開けた。食べた。冷たかった。
半分食べて、蓋を閉めた。
窓の外。日本製紙の煙突の航空障害灯。赤い点滅。煙は暗くて見えなかった。
角田は手帳を開いた。赤ペンで一行書いた。
「野中遥——明日訪問」




