第6話 だご
八時。ロビー。
角田はファイルを持って待っていた。黒田はちょうど八時に降りてきた。ショルダーバッグ。スーツ。ネクタイは曲がっていなかった。出張先の黒田は東京よりも少しだけきちんとしていた。
「俺は八代署に行く。昼に合流する。どこがいい」
「駅の近くで」
「飯を食える店を探しておけ」
「はい」
黒田はタクシー乗り場に歩いた。角田はホテルの前の通りを歩き始めた。法務局は駅から南に十分ほどだった。
十一月の朝。空気が冷たかった。東京とは違う冷たさだった。湿気がない。風が通る。山が近い。角田はコートの前を合わせた。
*
熊本地方法務局八代支局。
角田は窓口で申請書を出した。
一件目。株式会社八代不動産開発の法人登記。履歴事項全部証明書。
待った。十五分。番号を呼ばれた。証明書を受け取った。
ロビーの椅子に座って読んだ。
株式会社八代不動産開発。設立:三年前。代表取締役:藤本幸雄。本店所在地:八代市内。事業目的:不動産の売買、仲介、管理、開発。資本金:三百万円。
角田は赤ペンで手帳に書いた。設立が三年前。新しい。地場の小さな不動産業者。資本金三百万。代表の藤本幸雄。角田はこの名前を知らない。
二件目。緒方信一郎名義の土地建物の登記事項証明書。オンラインで確認済みだが、紙で正式な証明書を取った。窓口で受け取った。手帳の内容と照合した。差異なし。仮登記の記載を確認した。紙で見ても同じだった。
法務局を出た。市役所に向かった。歩いた。
八代市役所。税務課の窓口。固定資産評価証明書の交付申請。委任状と戸籍のコピーを添えた。窓口の職員が委任状を確認した。戸籍を確認した。
「相続手続きでよろしいですか」
「はい」
待った。十分。証明書が出た。
角田はロビーのベンチに座って読んだ。
緒方信一郎名義。土地二筆。建物一棟。評価額。土地の合計が約四百万円。建物が約百五十万円。合計約五百五十万。
角田は赤ペンで手帳に書いた。地方の住宅地。三十年前に父から相続した土地と古い木造建物。評価額は高くない。固定資産税は年に数万円程度。緒方が三十年間払い続けていたことになる。東京から。妻には「処分した」と言いながら。
角田は手帳を閉じた。赤ペンの蓋を閉めた。
昼前だった。
*
駅前の定食屋。火曜日。開いていた。
黒田が先に来ていた。カウンターの端。メニューを見ていた。角田が入ると黒田は顎でカウンターの隣を示した。
角田はメニューを見た。だご汁定食。五百八十円。
黒田は注文していた。だご汁定食と、から揚げ定食。二つ。
「から揚げも食うんですか」
「腹が減ってる」
角田はだご汁定食を頼んだ。
だご汁が来た。
平たい小麦の団子が味噌仕立ての汁に入っていた。根菜が見えた。里芋。大根。人参。ごぼう。湯気が立っていた。味噌と根菜の匂いがした。
角田は箸で団子を持ち上げた。不揃いだった。厚いのと薄いのがある。手で千切って入れたものだった。口に入れた。熱かった。小麦の弾力と味噌の塩気。出汁は昆布と煮干し。長谷川の蕎麦の出汁とは違った。蕎麦は鰹が効く。だご汁は味噌が主役だった。
角田は黙って食べた。
黒田はから揚げを先に食べていた。から揚げを食べ終わってからだご汁に手をつけた。
「どうだ」
「温かいです」
黒田は角田を見た。「温かいです」。角田の感想はいつもこれだ。うまいか、温かいか。
「それだけか」
「はい」
角田はだご汁を食べ終わった。汁を飲んだ。全部は飲まなかった。半分くらい残した。
黒田がだご汁を食べ終わった。汁は全部飲んだ。
「午後はどうする」
「現地確認に行きます。緒方さんの本籍地の土地建物を見に行きます」
「俺は午後も動く。夕方、ホテルで合流する。六時」
「はい」
会計。各自。角田は五百八十円を払った。
*
午後。角田は一人でタクシーに乗った。
運転手に住所を伝えた。緒方信一郎の本籍地。運転手はカーナビに入力した。八代の住宅地。駅から車で十五分ほどだった。
車窓の風景が変わった。駅前の商業地区を抜けると、田んぼが広がった。家が点在していた。家と家の間が広かった。東京の住宅地とは違った。塀がない家が多い。庭が広い。柿の木が目に入った。葉が落ち始めていた。十一月。
タクシーが止まった。角田は降りた。
「待っていてください。三十分ほどで戻ります」
「はい」
角田は住所の場所に立った。
木造二階建。築四十年以上。瓦屋根。外壁のモルタルが一部剥がれていた。窓は全て閉まっていた。カーテンが引かれている窓と、雨戸が閉まっている窓がある。玄関の引き戸は閉まっていた。ポストがある。郵便物は入っていなかった。表札はなかった。外されたのか、最初からないのか。
庭。手入れはされていない。草が膝の高さまで伸びていた。植木が伸び放題だった。ただし建物は崩れていなかった。屋根は落ちていない。窓も割れていない。放置されているが、廃墟ではなかった。
角田はスマートフォンで外観を撮影した。正面。側面。庭。相続財産の現況確認。報告書に添付する。
敷地の周囲を歩いた。裏に回った。裏庭。物置小屋が一棟。物置の扉は閉まっていた。鍵がかかっていた。
表に戻った。道を挟んで隣。
小さな家。緒方の実家より一回り小さい木造平屋。だが手入れされていた。外壁は塗り直されている。庭に花が植えてあった。洗濯物が干してあった。白いシャツと薄い色のタオル。人が住んでいた。
表札。
角田は表札を見た。
「野中」
角田は動かなかった。立ったまま表札を見ていた。
野中。緒方の認知した子の母の名字。野中智恵子。改製原戸籍に書かれていた名前。角田が赤ペンで手帳に書いた名前。
緒方の実家の隣に、野中が住んでいた。
角田はインターホンを押さなかった。書類が先だった。遥の戸籍附票がまだ届いていない。この家に住んでいるのが野中智恵子なのか、遥なのか、別の野中なのか、書類で確認していない。表札だけでは確認にならない。
角田はスマートフォンで表札を撮影しなかった。隣家の表札を撮るのは角田の仕事ではない。
だが角田は見た。洗濯物が干してあることを。花が植えてあることを。人が生活していることを。緒方の空き家の隣で。
角田はタクシーに戻った。
「駅までお願いします」
タクシーが走り出した。角田は窓の外を見ていた。田んぼ。柿の木。家。空が広かった。
*
六時。ホテルのロビー。
黒田が降りてきた。ネクタイを外していた。
「飯だ。店を見つけた。歩いて五分」
外に出た。十一月の夜。昨夜と同じ通り。だが今日は明かりがついている。火曜日。店が開いている。
黒田が入ったのは小さな居酒屋だった。引き戸。暖簾。カウンター六席と小上がり二卓。地元の客が二人、カウンターの端にいた。
カウンターに並んで座った。
「球磨焼酎あるか」
店主が頷いた。銘柄を二つ言った。黒田は一つ選んだ。ロックで。
「角田は」
「ウーロン茶で」
「飲まないのか」
「明日も仕事があるので」
黒田は角田を見た。何か言いかけた。やめた。
つまみが出た。お通し。里芋の煮物。それから黒田が馬刺しとからし蓮根を頼んだ。
焼酎が来た。黒田は一口飲んだ。
「で、午後は」
角田が報告した。法務局の結果。八代不動産開発。設立は三年前。代表は藤本幸雄。資本金三百万。小さな会社。
黒田は聞いた。馬刺しを食べた。
「藤本幸雄。知らない名前だ」
「私も知りません」
「八代署で聞いてみる。明日」
角田は続けた。固定資産評価証明。土地と建物で約五百五十万。高い金額ではない。
黒田は焼酎を飲んだ。
「故郷を捨てたはずの男が、五百五十万の土地を三十年持ってた」
「固定資産税を払い続けていたことになります」
「年にいくらだ」
「概算で六万から七万程度です」
「三十年で二百万か」
「概算ですが」
黒田はからし蓮根を食べた。
「それで、現地は」
角田が報告した。空き家。草が伸びている。建物は崩れていない。人は住んでいない。
角田は一瞬、間を置いた。
「隣の家に表札がありました。野中、と」
黒田の箸が止まった。
「野中」
「はい。手入れされた家でした。洗濯物が干してありました。人が住んでいます」
「緒方の実家の隣に、野中が住んでいる」
「はい」
黒田は焼酎のグラスを置いた。
「……お前はインターホンを押したか」
「押していません。書類の確認が先です」
「書類の確認」
「遥の戸籍附票が届いていません。この家に住んでいるのが誰か、まだ確認できていません」
黒田は角田を見た。角田はウーロン茶を飲んでいた。表情は変わらなかった。
「お前は」
「はい」
「……いい。分かった」
黒田は焼酎を飲んだ。
角田はもう一つ伝えた。
「黒田さん。緒方さんの八代の不動産に、売買予約の仮登記が入っています」
黒田が顔を上げた。
「日付は八月七日。緒方さんが亡くなる二ヶ月前です。権利者は八代不動産開発。さきほどお伝えした藤本幸雄の会社です」
「緒方が、死ぬ二ヶ月前に、この不動産を売ろうとしていた」
「売買予約です。仮登記の段階なので、売買は完了していません。本登記に必要な条件が整っていなかったか、代金の決済が済んでいなかったか」
「緒方が死んだから止まった」
「はい」
黒田は焼酎のグラスを持ったまま動かなかった。
「故郷を捨てた人間が、三十年持ち続けた土地を、死ぬ二ヶ月前に処分しようとした」
「そうなります」
「なぜ今なのか」
「分かりません」
黒田はグラスを置いた。
「俺の方も一つ。八代署で地元を当たった。宮原修一の名前を出した。宮原は年に何度か八代に来ていた。ここ数年」
角田の手が止まった。ウーロン茶のグラスを持ったまま。
「目撃情報は断片的だ。近所の人間が何度か見かけている。タクシーで来て、しばらくして帰る。何をしていたかは分からない」
「墓参りですか」
「墓参りだと思った、と言っていた。だが墓地で見たわけじゃない。宮原がこの辺りを歩いていたのを見た、と。それだけだ」
角田は黙った。宮原が八代に来ていた。緒方の実家の隣に野中が住んでいる。宮原は野中に会いに来ていたのか。あるいは緒方の空き家を見に来ていたのか。
「明日、もう少し詰める」
「はい」
馬刺しの皿が空になった。黒田が追加を頼んだ。焼酎の二杯目。角田はウーロン茶のおかわりを頼んだ。
仕事の話が途切れた。しばらく黙って食べていた。店の中は静かだった。カウンターの端の客は帰っていた。店主がカウンターの中で洗い物をしていた。水の音だけが聞こえた。
黒田が焼酎を一口飲んだ。
「お前の事務所は静かでいいな」
角田は何も返さなかった。
黒田は焼酎のグラスを回した。氷がぶつかる音がした。
「日向は元気にしてるか」
角田はウーロン茶のグラスを置いた。
「最近は会っていません」
「そうか」
黒田は焼酎を飲んだ。
「飯をうまそうに食う女だった。動き回る。暑苦しい。刑事に向いてた」
角田は何も言わなかった。
「今は変な探偵のところにいる」
黒田の声は平らだった。怒りはなかった。諦めでもなかった。事実を言っているだけだった。日向が辞めたことを黒田は受け入れている。受け入れた上で、角田に近況を聞いた。自分からは連絡していないということだった。
角田はウーロン茶を飲んだ。
店の中は静かだった。
「佐野はどうですか」
「佐野か。真面目だ。ネクタイが曲がってる」
「……」
「日向とは違う。日向は雑だった。報告書に誤字が多かった。だが勘が利いた。佐野は丁寧だ。報告書に誤字がない。マーカーを引く。日向は引かなかった」
角田は黙って聞いていた。黒田が部下の話をするのは珍しかった。東京の事務所では聞かない話だった。
「佐野で十分だ」
黒田はそう言って、焼酎を飲み干した。氷だけがグラスに残った。
角田は何も言わなかった。「十分だ」は黒田の本音だった。佐野で十分だと思っている。だが日向の名前を出したのは黒田の方だった。
黒田は会計を済ませた。角田が自分の分を出そうとした。黒田が手で制した。
「出張先くらいおごる」
「……ありがとうございます」
外に出た。十一月の夜。風が冷たかった。八代の夜は暗かった。街灯が少ない。星が見えた。東京では見えない数の星だった。
黒田は空を見上げた。角田も見上げた。
何も言わなかった。
ホテルに戻った。エレベーターに乗った。同じ階で降りた。
「明日は朝八時」
「はい」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
ドアが閉まった。




