第5話 博多
角田は搭乗口の椅子でファイルを読んでいた。
羽田空港第一ターミナル。朝の七時二十分。搭乗開始まで十五分。角田は三十分前に着いていた。赤ペンを持っていた。「緒方信一郎 相続」のファイル。改製原戸籍のコピー。登記情報のプリントアウト。手帳のメモ。空港の椅子で赤ペンを持っている男は角田くらいだった。
黒田が来た。搭乗開始の五分前。走ってはいなかった。ショルダーバッグ一つ。
「お前、荷物が多いな」
角田はキャリーケースを引いていた。書類の入ったファイルが三冊と着替え。
「書類があるので」
「書類を持って飛行機に乗る行政書士か」
「……普通です」
黒田は搭乗券を出した。窓側だった。角田は通路側。
機内。黒田は離陸するなり目を閉じた。五分で寝息が聞こえた。角田はファイルを開いた。テーブルに赤ペンを置いた。八代の不動産の登記情報をもう一度読んだ。仮登記の日付。八月七日。権利者の名前。株式会社八代不動産開発。角田はこの会社について何も知らない。法務局で確認する。
雲の上に出た。窓の外は白かった。黒田は寝ていた。
*
福岡空港。十時前。地下鉄で博多駅。
黒田の聞き込みは午後二時。昼まで時間がある。
「飯だ」
「聞き込みが先では」
「二時に約束してる。飯が先だ」
黒田は歩き出した。博多駅の筑紫口を出て歩いた。角田はキャリーケースを引いてついていった。黒田は迷わなかった。二つ角を曲がって、ビルの一階のラーメン屋の前で止まった。暖簾が出ていた。十時半。開いている。
「ここだ」
「……調べてきたんですか」
「前に来たことがある」
カウンターだけの店。八席。角田はキャリーケースを入口脇に置いた。
券売機。黒田はラーメンを押した。角田も押した。
「麺の硬さは」
「カタで」
角田は何も言わなかった。店員が聞いた。角田は「普通で」と答えた。
ラーメンが来た。
白濁したスープ。極細のストレート麺。万能ネギ。チャーシュー二枚。紅生姜が小皿で出てきた。ゴマと辛子高菜が卓上に置いてある。
匂いが来た。獣の匂い。骨を煮詰めた匂い。長谷川の出汁とは全く違う匂いだった。角田の鼻がわずかに動いた。
黒田は箸を割った。食べなかった。角田を見た。
「博多と熊本は同じ豚骨だと思ってるだろう」
「……」
「違う」
角田は箸を割った。食べ始めた。
「博多ラーメンは引き算だ。豚骨一本。スープは骨の髄まで溶かす。麺が細いのは替え玉の前提だからだ。伸びる前に食い切る。食い切ったらもう一玉。具もシンプルにする。スープの純度で勝負する。余計なものを載せない」
角田は麺を啜っていた。
「熊本は逆だ。同じ豚骨だが鶏ガラをブレンドする。暴力的な豚骨に鶏の丸みを足す。それだけじゃない。マー油。焦がしニンニクの油だ。あの黒い油で風味の奥行きが全部変わる。麺は中太。替え玉文化がない。一杯を太い麺でしっかり食わせる」
「……」
「つまり博多は純度で殴る。熊本は複雑さで包む。同じ豚骨で正反対のことをやってる」
角田は丼を置いた。空だった。
「……お前、もう食ったのか」
「うまかったです」
「感想がそれだけか」
「はい」
黒田は角田を見た。角田は水を飲んでいた。
「…………」
黒田は自分のラーメンを食べ始めた。食べ終わって、替え玉を頼んだ。カタで。
替え玉を食べながら言った。
「ラーメン漫画に出てくる禿げた料理人が言ってたぞ。客が食ってるのは味じゃなくて情報だって」
「……」
「ラーメンハゲだ。芹沢。知らないか」
「読んだことがないです」
「読め」
「……はい」
黒田は替え玉を食べ終わった。スープを最後まで飲んだ。
「うまかった」
角田は頷いた。
*
午後二時。博多駅近くの喫茶店。
黒田は一人で入った。角田は駅のコインロッカーにキャリーケースを預けて、駅ビルの待合スペースでファイルを読んでいた。赤ペン。
黒田が会ったのは緒方の元同僚だった。建材メーカーの九州支社にいた男。六十代。退職後は福岡で暮らしている。
三十分で出てきた。
角田が待合スペースで顔を上げた。黒田がエスカレーターを降りてきた。
「どうでした」
「大したことは出なかった」
黒田は歩きながら話した。新幹線の改札に向かいながら。
「緒方は真面目な男だったと。仕事はきっちりやる。飲みにも行った。でも深い付き合いじゃなかった」
「八代の話は」
「しなかった。熊本出身だとは知っていたが、地元の話はほとんどしなかったと。帰っている様子もなかった」
角田は黙って歩いた。
「故郷を捨てた人だと思っていた。そう言っていた」
「捨てた」
「ああ。東京で家庭を持って、こっちのことは全部終わった人だと。年賀状は二、三年で途切れた。緒方の方から来なくなったと」
角田は何も言わなかった。角田は知っている。緒方は八代の不動産を処分していなかった。捨てていなかった。死ぬ二ヶ月前に処分しようとした。故郷を「捨てた」のではなく「捨てられなかった」。だが角田は何も言わなかった。黒田に伝えられる情報ではなかった。
「宮原の名前は知らないと」
「社内の付き合いだけだったと。緒方の友人関係は分からないと」
「それだけか」
「それだけだ」
新幹線の切符を買った。博多から新八代。二人分。各自の金で。
*
新幹線。博多から新八代まで約四十分。
車内は空いていた。二人並んで座った。黒田は窓側。角田は通路側。同じ配置が続いている。
黒田はメモを見ていた。手帳にボールペンで何か書いていた。角田はファイルを見ていた。赤ペン。二人とも自分の仕事をしていた。言葉は少なかった。仕事をしている時の二人は、話す必要がなかった。
窓の外の景色が変わった。市街地が途切れて、田んぼが広がった。山が近づいた。トンネルが多くなった。九州の山は近かった。東京から来ると空が広いと感じるが、山も近い。
新八代着。
駅を降りた。改札を出た。
黒田が見回した。ロータリー。タクシー乗り場。駐車場。商業施設が一つ。それだけだった。
「……何もねえな」
「在来線で八代駅まで行きます。一駅です」
在来線ホームに降りた。ワンマン列車。二両編成。ドアの横にボタンがある。自分で開ける。
黒田は何も言わなかった。乗った。
八代駅着。改札を出た。
正面に見えた。日本製紙の工場。煙突。白い煙が上がっていた。夕方の空に。煙突は高かった。工場の敷地は駅から見える範囲を超えて広がっていた。
「でかいな」
角田は煙突を見ていた。白い煙は上がり続けていた。夕方でも夜でも止まらないのだろう。紙を作り続けている。
風が吹いた。製紙工場の匂いの下に、別の匂いがあった。青い匂い。い草だった。八代はい草の産地だった。角田は匂いを嗅いだだけで、何も書かなかった。
タクシーを拾った。ビジネスホテル。チェックイン。部屋はシングル。
荷物を置いた。
黒田が角田の部屋のドアをノックした。
「飯に行くぞ」
外に出た。十一月の夕暮れ。六時を過ぎていた。
*
月曜日だった。
黒田が歩いた。角田がついていった。ホテルの周辺。飲食店の看板は見える。だが暗い。シャッターが下りている。
「定休日か」
「月曜日です」
「分かってる」
黒田は駅の方に戻った。駅前の通り。居酒屋。暗い。引き戸に手書きの張り紙。「月曜定休」。定食屋。暗い。焼肉屋。暗い。
角を曲がった。ラーメン屋。暗い。黒田が足を止めた。看板に「月曜・火曜定休」と書いてあった。
「火曜もか」
「火曜も休みのようです」
「…………」
黒田は黙って歩いた。角田もついていった。
一軒だけ明かりがついていた。スナックだった。紫色のネオン。
「あそこは開いています」
「スナックで飯は食えない」
引き返した。ホテルの近く。コンビニが一軒。明かりが煌々としていた。
黒田は黙ってコンビニに入った。角田もついていった。
弁当のコーナー。黒田はチキン南蛮弁当を手に取った。迷った。棚を見た。のり弁があった。見た。戻した。チキン南蛮弁当にした。角田はおにぎりを二つ取った。鮭と昆布。
ホテルのロビー。自販機の横にテーブルと椅子がある。二人で座った。黒田はチキン南蛮弁当を開けた。角田は鮭のおにぎりを開けた。
黒田が食べながら言った。
「明日は店が開いてる」
「はい」
「熊本ラーメンを食う。マー油のやつ」
「はい」
「だご汁も食いたい」
「だご……」
「団子汁だ。小麦粉を練って平たくしたやつ。味噌仕立て。このあたりの家庭料理だ」
「読めませんでした」
「お前は書類は読めるのに飯は読めないのか」
角田は昆布のおにぎりを開けなかった。鮭を食べ終わって、昆布は持ち帰ることにした。
「明日の朝、八時にロビーで」
「はい」
「俺は八代署に顔を出す。お前は」
「法務局と市役所です」
「夕方合流する。飯を食う」
「はい」
黒田はチキン南蛮弁当を食べ終わった。パックを閉じた。
エレベーターに乗った。同じ階で降りた。隣の部屋だった。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
ドアが閉まった。
角田は部屋に入った。キャリーケースを開けた。ファイルを出した。机に並べた。赤ペンを取った。
明日、法務局で八代不動産開発の登記を確認する。市役所で固定資産の評価証明を取る。午後は不動産の現地に行く。緒方の本籍地の住所。父・義男から相続した土地と建物。三十年前に相続して、妻に「処分した」と言って、処分していなかった場所。
角田は手帳に赤ペンでリストを書いた。
一、法務局——八代不動産開発の法人登記。代表者。設立年月日。事業目的。
二、市役所——固定資産評価証明書。緒方名義の土地建物の評価額。
三、現地確認——本籍地住所の土地建物の状態。人が住んでいるか。管理されているか。
赤ペンの蓋を閉めた。
窓の外。ホテルの窓から日本製紙の煙突の先端が見えた。赤い航空障害灯が点滅していた。煙は暗くて見えなかった。だが出ているはずだった。
角田は昆布のおにぎりを食べた。冷たかった。




