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書類は嘘をつかない  作者: 青柳 玲夜(れーやん)
読めない名前

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34/64

第4話 壁

 佐野の報告書は薄かった。


 A4で四枚。捜査一課の報告書としては分量が少ない。分量が少ないということは、出てくるものが少ないということだ。黒田は自分のデスクで読んだ。缶コーヒーを開けた。微糖。朝の一本目。窓の外は曇っていた。十一月に入っていた。


 宮原修一の周辺調査。


 金銭関係。年金受給者。月額十四万円程度。預貯金は約八百万。退職金の残り。借金なし。ローンなし。クレジットカードの利用履歴に不審な点なし。緒方との金の貸し借りの痕跡なし。


 交友関係。退職後の付き合いはほぼない。運送会社の元同僚三名に聞き取り。「退職後は年賀状のやり取り程度」「会っていない」「宮原さんは静かな人だった」。


 妻・宮原幸子。十年前に病死。子供なし。死別後の交際関係なし。


 定期的な人間関係は緒方との月一の飲みだけ。


 黒田は缶コーヒーを一口飲んだ。


 次に緒方信一郎の周辺調査。


 こちらも薄い。退職後の交友関係は狭い。建材メーカーの元同僚数名に聞き取り。「退職後は疎遠」「年に一度、年末に電話するくらい」。妻と娘以外の人間関係は宮原だけ。


 八代の同級生関係。佐野が八代市役所に問い合わせ、同窓会名簿を入手した。緒方と宮原は八代市立第二中学校の同学年。同窓生の連絡がつく者に電話をかけている。


 「緒方と宮原は仲が良かった。三人でよく一緒にいた」

 「三人? もう一人は誰ですか」

 「野中の——名前は忘れた。女の子。三人で遊んでた」

 「どんな関係でしたか」

 「どんなって……普通に。中学の頃。放課後に三人でいるのを見た」

 「三人とも同じクラスですか」

 「いや、クラスは覚えてない。でも三人でいたのは覚えてる」


 佐野はこの証言にマーカーを引いていた。三人目の名前は不明。野中。女性。他の同窓生にも聞いたが、三人で遊んでいたという記憶を持つ者は少なかった。三十年以上前の中学の記憶だった。覚えていないほうが普通だった。


 黒田は報告書をデスクに置いた。缶コーヒーを飲み干した。空き缶をゴミ箱に入れた。


 金でも女でもない。三十年来の友人を刺す理由が出てこない。


 野中。三人目。佐野のマーカーが目に入った。三人で遊んでいた。緒方と宮原と、もう一人。


 黒田は佐野の席に歩いた。


「野中、追えるか」


 佐野が振り向いた。三十代前半。眼鏡。ネクタイが曲がっている。


「八代の同窓生にもう一度当たります。名字だけですが、野中で絞れるかもしれません」


「同窓会名簿に野中は」


「名簿に載っていませんでした。卒業後の名簿なので、転居や結婚で追えなくなっている可能性があります」


「八代の市役所で住民記録は」


「個人情報なので、捜査関係事項照会を出さないと出ません。出しますか」


 黒田は考えた。二秒。


「出すな。まだいい」


 佐野は頷いた。黒田はデスクに戻った。


 野中。名前が分からない。同窓会名簿にも載っていない。だが三人で遊んでいた。緒方と宮原と野中。


 この三人の関係に何があったか。あったとして、三十年以上前の話が殺人の動機になるか。


 黒田は二本目の缶コーヒーを開けた。



        *



 東京拘置所。午後。


 黒田は面会の手続きを済ませた。捜査一課の警部として。起訴後も補充捜査の名目で面会はできる。弁護人の立会いはない。宮原が拒否しなければ会える。宮原は拒否しなかった。


 面会室は狭かった。アクリル板の仕切り。パイプ椅子。蛍光灯。窓は高い位置に小さく一つ。壁は灰色だった。


 宮原修一が入ってきた。拘置所の作業着。逮捕時より少し頬がこけている。だが目は変わっていなかった。据わっていた。


「黒田さん」


「座ってくれ」


 宮原が座った。黒田はアクリル板の向こうに宮原の顔を見た。


「体の具合は」


「問題ないです」


「弁護士とは話してるか」


「話してます」


「動機のことは」


「……前にも言いました」


「覚えてない、か」


 宮原は答えなかった。


 黒田はアクリル板に手を置いた。指が板の冷たさを感じた。


「宮原さん。俺はあんたの動機を知りたいんじゃない。裁判のために聞いてるんでもない」


「じゃあ何のために」


「あんたが何を守ってるのか知りたい」


 宮原の目が動いた。一瞬。すぐに戻った。


「守ってなんかいない」


「三十年の友人を刺して、理由を言わない。あんたは自分を守ってるんじゃない。誰かを守ってる」


 宮原は窓を見た。高い位置の小さな窓。午後の光が斜めに入っていた。


「黒田さん。知らない方がいいこともありますよ」


「誰にとって」


「あなたにとってじゃない。知らなくていい人にとって」


 黒田は黙った。


 知らなくていい人。宮原が守っているのは、この事件の外にいる誰か。宮原でも緒方でもない第三者。宮原は三十年の友人を刺して、その理由を語らないことで、誰かを守っている。


「野中、という名前に心当たりは」


 宮原の手が膝の上で動いた。握った。開いた。握った。


「……どこでその名前を」


「八代の同級生に聞いた。あんたと緒方ともう一人、三人で遊んでいたと」


 宮原は窓から黒田に視線を戻した。


「その人には関係ない話です」


「関係ないかどうかは俺が判断する」


「関係ない。関係ないんです」


 宮原の声が初めて揺れた。


 黒田は見た。宮原が初めて感情を出した。怒りではない。懇願に近かった。


 黒田は立ち上がった。


「今日はここまでにする」


「黒田さん」


 黒田は振り向いた。


「その人のことは調べないでください」


 黒田は答えなかった。面会室を出た。


 廊下を歩いた。拘置所の廊下は靴音が響く。黒田の革靴の音だけが聞こえた。


 宮原は守っている。「野中」を守っている。野中という名前を聞いた途端に手を握った。「調べないでください」と言った。初めて宮原が何かを頼んだ。取調室では何も頼まなかった男が。


 黒田はポケットから携帯を出した。佐野に電話しようとした。やめた。携帯をしまった。


 外に出た。十一月の空。雲が低かった。


 黒田は歩き出した。角田の事務所へ。



        *



 角田の事務所。夕方。


 黒田はドアを開けた。


「いるか」


 角田は机に向かっていた。赤ペンを持っていた。ファイルが開いていた。「緒方信一郎 相続」のインデックスが見えた。


 黒田はボトル缶の蓋を開けた。ラベルを触った。剥がさなかった。


 角田はファイルを閉じた。


「何かありましたか」


「宮原に会ってきた。拘置所で」


「……」


「あいつ、誰かを守ってる。動機を言わないのは自分のためじゃない。第三者のためだ」


 角田は赤ペンの蓋を閉めた。


「野中、という名前が出た」


 角田の手が止まった。赤ペンの蓋を持ったまま。


「八代の同級生に聞いたら、緒方と宮原ともう一人、三人で遊んでいたと。その三人目が野中だ。名前は分からない。名字だけ」


 角田は黒田を見た。黒田は窓枠にもたれていた。ボトル缶を持ったまま。ラベルを剥がしていない。


「黒田さん」


「何だ」


「相続手続きの中で、一つお伝えできることがあります」


 黒田はボトル缶を下ろした。


 角田は赤ペンの蓋を開けた。閉めた。


「緒方さんの戸籍を遡りました。八代の改製原戸籍に、認知の記載がありました」


「認知」


「緒方さんが認知した子がいます。母親の名字は野中です」


 沈黙。


 黒田がボトル缶を窓枠に置いた。音がした。硬い音。ボトルが窓枠のコンクリートに当たる音だった。


「野中」


「はい」


「緒方が認知した子の、母親が野中」


「はい。野中智恵子。八代市です。認知は平成四年。緒方さんが三十歳の頃です」


 黒田は窓枠から離れた。角田の机の前に来た。立ったまま。角田を見下ろした。


「お前の書類に出てきた名前と、俺の捜査に出てきた名前が同じだ」


「そうなります」


「これは依頼人の情報じゃないのか。守秘義務は」


「認知の記載は戸籍の公的記録です。戸籍は非公開ですが、利害関係者であれば取得できる情報です。宮原さんが緒方さんの同級生であれば、利害関係の範囲に含まれる可能性があります。私がお伝えしているのは、相続手続きの中で確認した公的記録の事実です」


 角田の声は平らだった。感情はなかった。法的な説明だった。


 黒田は角田を見た。角田は黒田を見返した。


「お前は頭がいいな」


「仕事です」


 黒田は角田の机の端に手を置いた。


「野中智恵子。八代。緒方が認知した子がいる。宮原は野中の名前を聞いた途端に動揺した。調べるなと言った」


「宮原さんが」


「ああ。野中を守ってる。間違いない」


 黒田は机から手を離した。窓枠に戻った。ボトル缶を取った。一口飲んだ。


「八代に行く」


「私も行きます。相続手続きで確認しなければならないことがあります」


「不動産か」


 角田は一瞬間を置いた。


「はい。八代の不動産の現地確認と、関係者への聞き取りが必要です」


 黒田は角田を見た。角田は手帳を閉じた。


「一緒に行くか。移動は同じだ。現地ではそれぞれ動く。お前はお前の仕事をしろ。俺は俺の仕事をする」


「はい」


 黒田はボトル缶を飲み干した。ラベルを剥がした。丸めた。窓枠に置いた。


「明後日。羽田から飛ぶ。博多に寄る。緒方の元同僚が福岡にいる。そこで聞き込みをしてから八代に入る」


「分かりました」


「経費は自分持ちだぞ」


「当然です」


 黒田は笑わなかった。口の端が少しだけ動いた。


「帰る」


 黒田はドアを開けた。


「黒田さん」


 黒田が振り向いた。


「宮原さんは、何を守っているんでしょうか」


 黒田は角田を見た。


「分からん。だから八代に行く」


 ドアが閉まった。階段を降りる足音。


 角田は一人になった。


 机の上のファイル。「緒方信一郎 相続」。改製原戸籍のコピー。登記情報のプリントアウト。手帳のメモ。


 角田は赤ペンを取った。手帳を開いた。


 「八代」と書いた。


 赤ペンの蓋を閉めた。


 今日は長谷川に行こうと思った。立ち上がった。上着を取った。事務所を出た。


 階段を降りた。外に出た。十一月の夜。風が冷たくなっていた。


 長谷川の暖簾をくぐった。カウンターに座った。湯気が立っていた。出汁の匂いが鼻に入った。


「かけ」


 卵はつけなかった。三百八十円。蕎麦が来た。


 角田は蕎麦を啜った。熱かった。出汁の匂いがした。いつもの匂い。いつもの温度。いつもの蕎麦。何も変わっていなかった。角田が三日間来なかっただけで、蕎麦は何も変わっていなかった。


 汁を飲んだ。全部飲んだ。丼の底が見えた。


 丼を置いた。


 明後日、八代に行く。書類を持って。


 角田は金を払って店を出た。三百八十円。

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