第4話 壁
佐野の報告書は薄かった。
A4で四枚。捜査一課の報告書としては分量が少ない。分量が少ないということは、出てくるものが少ないということだ。黒田は自分のデスクで読んだ。缶コーヒーを開けた。微糖。朝の一本目。窓の外は曇っていた。十一月に入っていた。
宮原修一の周辺調査。
金銭関係。年金受給者。月額十四万円程度。預貯金は約八百万。退職金の残り。借金なし。ローンなし。クレジットカードの利用履歴に不審な点なし。緒方との金の貸し借りの痕跡なし。
交友関係。退職後の付き合いはほぼない。運送会社の元同僚三名に聞き取り。「退職後は年賀状のやり取り程度」「会っていない」「宮原さんは静かな人だった」。
妻・宮原幸子。十年前に病死。子供なし。死別後の交際関係なし。
定期的な人間関係は緒方との月一の飲みだけ。
黒田は缶コーヒーを一口飲んだ。
次に緒方信一郎の周辺調査。
こちらも薄い。退職後の交友関係は狭い。建材メーカーの元同僚数名に聞き取り。「退職後は疎遠」「年に一度、年末に電話するくらい」。妻と娘以外の人間関係は宮原だけ。
八代の同級生関係。佐野が八代市役所に問い合わせ、同窓会名簿を入手した。緒方と宮原は八代市立第二中学校の同学年。同窓生の連絡がつく者に電話をかけている。
「緒方と宮原は仲が良かった。三人でよく一緒にいた」
「三人? もう一人は誰ですか」
「野中の——名前は忘れた。女の子。三人で遊んでた」
「どんな関係でしたか」
「どんなって……普通に。中学の頃。放課後に三人でいるのを見た」
「三人とも同じクラスですか」
「いや、クラスは覚えてない。でも三人でいたのは覚えてる」
佐野はこの証言にマーカーを引いていた。三人目の名前は不明。野中。女性。他の同窓生にも聞いたが、三人で遊んでいたという記憶を持つ者は少なかった。三十年以上前の中学の記憶だった。覚えていないほうが普通だった。
黒田は報告書をデスクに置いた。缶コーヒーを飲み干した。空き缶をゴミ箱に入れた。
金でも女でもない。三十年来の友人を刺す理由が出てこない。
野中。三人目。佐野のマーカーが目に入った。三人で遊んでいた。緒方と宮原と、もう一人。
黒田は佐野の席に歩いた。
「野中、追えるか」
佐野が振り向いた。三十代前半。眼鏡。ネクタイが曲がっている。
「八代の同窓生にもう一度当たります。名字だけですが、野中で絞れるかもしれません」
「同窓会名簿に野中は」
「名簿に載っていませんでした。卒業後の名簿なので、転居や結婚で追えなくなっている可能性があります」
「八代の市役所で住民記録は」
「個人情報なので、捜査関係事項照会を出さないと出ません。出しますか」
黒田は考えた。二秒。
「出すな。まだいい」
佐野は頷いた。黒田はデスクに戻った。
野中。名前が分からない。同窓会名簿にも載っていない。だが三人で遊んでいた。緒方と宮原と野中。
この三人の関係に何があったか。あったとして、三十年以上前の話が殺人の動機になるか。
黒田は二本目の缶コーヒーを開けた。
*
東京拘置所。午後。
黒田は面会の手続きを済ませた。捜査一課の警部として。起訴後も補充捜査の名目で面会はできる。弁護人の立会いはない。宮原が拒否しなければ会える。宮原は拒否しなかった。
面会室は狭かった。アクリル板の仕切り。パイプ椅子。蛍光灯。窓は高い位置に小さく一つ。壁は灰色だった。
宮原修一が入ってきた。拘置所の作業着。逮捕時より少し頬がこけている。だが目は変わっていなかった。据わっていた。
「黒田さん」
「座ってくれ」
宮原が座った。黒田はアクリル板の向こうに宮原の顔を見た。
「体の具合は」
「問題ないです」
「弁護士とは話してるか」
「話してます」
「動機のことは」
「……前にも言いました」
「覚えてない、か」
宮原は答えなかった。
黒田はアクリル板に手を置いた。指が板の冷たさを感じた。
「宮原さん。俺はあんたの動機を知りたいんじゃない。裁判のために聞いてるんでもない」
「じゃあ何のために」
「あんたが何を守ってるのか知りたい」
宮原の目が動いた。一瞬。すぐに戻った。
「守ってなんかいない」
「三十年の友人を刺して、理由を言わない。あんたは自分を守ってるんじゃない。誰かを守ってる」
宮原は窓を見た。高い位置の小さな窓。午後の光が斜めに入っていた。
「黒田さん。知らない方がいいこともありますよ」
「誰にとって」
「あなたにとってじゃない。知らなくていい人にとって」
黒田は黙った。
知らなくていい人。宮原が守っているのは、この事件の外にいる誰か。宮原でも緒方でもない第三者。宮原は三十年の友人を刺して、その理由を語らないことで、誰かを守っている。
「野中、という名前に心当たりは」
宮原の手が膝の上で動いた。握った。開いた。握った。
「……どこでその名前を」
「八代の同級生に聞いた。あんたと緒方ともう一人、三人で遊んでいたと」
宮原は窓から黒田に視線を戻した。
「その人には関係ない話です」
「関係ないかどうかは俺が判断する」
「関係ない。関係ないんです」
宮原の声が初めて揺れた。
黒田は見た。宮原が初めて感情を出した。怒りではない。懇願に近かった。
黒田は立ち上がった。
「今日はここまでにする」
「黒田さん」
黒田は振り向いた。
「その人のことは調べないでください」
黒田は答えなかった。面会室を出た。
廊下を歩いた。拘置所の廊下は靴音が響く。黒田の革靴の音だけが聞こえた。
宮原は守っている。「野中」を守っている。野中という名前を聞いた途端に手を握った。「調べないでください」と言った。初めて宮原が何かを頼んだ。取調室では何も頼まなかった男が。
黒田はポケットから携帯を出した。佐野に電話しようとした。やめた。携帯をしまった。
外に出た。十一月の空。雲が低かった。
黒田は歩き出した。角田の事務所へ。
*
角田の事務所。夕方。
黒田はドアを開けた。
「いるか」
角田は机に向かっていた。赤ペンを持っていた。ファイルが開いていた。「緒方信一郎 相続」のインデックスが見えた。
黒田はボトル缶の蓋を開けた。ラベルを触った。剥がさなかった。
角田はファイルを閉じた。
「何かありましたか」
「宮原に会ってきた。拘置所で」
「……」
「あいつ、誰かを守ってる。動機を言わないのは自分のためじゃない。第三者のためだ」
角田は赤ペンの蓋を閉めた。
「野中、という名前が出た」
角田の手が止まった。赤ペンの蓋を持ったまま。
「八代の同級生に聞いたら、緒方と宮原ともう一人、三人で遊んでいたと。その三人目が野中だ。名前は分からない。名字だけ」
角田は黒田を見た。黒田は窓枠にもたれていた。ボトル缶を持ったまま。ラベルを剥がしていない。
「黒田さん」
「何だ」
「相続手続きの中で、一つお伝えできることがあります」
黒田はボトル缶を下ろした。
角田は赤ペンの蓋を開けた。閉めた。
「緒方さんの戸籍を遡りました。八代の改製原戸籍に、認知の記載がありました」
「認知」
「緒方さんが認知した子がいます。母親の名字は野中です」
沈黙。
黒田がボトル缶を窓枠に置いた。音がした。硬い音。ボトルが窓枠のコンクリートに当たる音だった。
「野中」
「はい」
「緒方が認知した子の、母親が野中」
「はい。野中智恵子。八代市です。認知は平成四年。緒方さんが三十歳の頃です」
黒田は窓枠から離れた。角田の机の前に来た。立ったまま。角田を見下ろした。
「お前の書類に出てきた名前と、俺の捜査に出てきた名前が同じだ」
「そうなります」
「これは依頼人の情報じゃないのか。守秘義務は」
「認知の記載は戸籍の公的記録です。戸籍は非公開ですが、利害関係者であれば取得できる情報です。宮原さんが緒方さんの同級生であれば、利害関係の範囲に含まれる可能性があります。私がお伝えしているのは、相続手続きの中で確認した公的記録の事実です」
角田の声は平らだった。感情はなかった。法的な説明だった。
黒田は角田を見た。角田は黒田を見返した。
「お前は頭がいいな」
「仕事です」
黒田は角田の机の端に手を置いた。
「野中智恵子。八代。緒方が認知した子がいる。宮原は野中の名前を聞いた途端に動揺した。調べるなと言った」
「宮原さんが」
「ああ。野中を守ってる。間違いない」
黒田は机から手を離した。窓枠に戻った。ボトル缶を取った。一口飲んだ。
「八代に行く」
「私も行きます。相続手続きで確認しなければならないことがあります」
「不動産か」
角田は一瞬間を置いた。
「はい。八代の不動産の現地確認と、関係者への聞き取りが必要です」
黒田は角田を見た。角田は手帳を閉じた。
「一緒に行くか。移動は同じだ。現地ではそれぞれ動く。お前はお前の仕事をしろ。俺は俺の仕事をする」
「はい」
黒田はボトル缶を飲み干した。ラベルを剥がした。丸めた。窓枠に置いた。
「明後日。羽田から飛ぶ。博多に寄る。緒方の元同僚が福岡にいる。そこで聞き込みをしてから八代に入る」
「分かりました」
「経費は自分持ちだぞ」
「当然です」
黒田は笑わなかった。口の端が少しだけ動いた。
「帰る」
黒田はドアを開けた。
「黒田さん」
黒田が振り向いた。
「宮原さんは、何を守っているんでしょうか」
黒田は角田を見た。
「分からん。だから八代に行く」
ドアが閉まった。階段を降りる足音。
角田は一人になった。
机の上のファイル。「緒方信一郎 相続」。改製原戸籍のコピー。登記情報のプリントアウト。手帳のメモ。
角田は赤ペンを取った。手帳を開いた。
「八代」と書いた。
赤ペンの蓋を閉めた。
今日は長谷川に行こうと思った。立ち上がった。上着を取った。事務所を出た。
階段を降りた。外に出た。十一月の夜。風が冷たくなっていた。
長谷川の暖簾をくぐった。カウンターに座った。湯気が立っていた。出汁の匂いが鼻に入った。
「かけ」
卵はつけなかった。三百八十円。蕎麦が来た。
角田は蕎麦を啜った。熱かった。出汁の匂いがした。いつもの匂い。いつもの温度。いつもの蕎麦。何も変わっていなかった。角田が三日間来なかっただけで、蕎麦は何も変わっていなかった。
汁を飲んだ。全部飲んだ。丼の底が見えた。
丼を置いた。
明後日、八代に行く。書類を持って。
角田は金を払って店を出た。三百八十円。




