第2話 依頼
十月も終わりに差しかかっていた。
角田は机の上に建設業許可の更新申請書を広げていた。三鷹の塗装会社。五年に一度の更新。前回の申請書の控えと見比べながら、変更点を赤ペンで確認していく。役員の異動が一件。専任技術者の変更が一件。経営業務の管理責任者は変わっていない。
決算変更届の提出状況を確認した。五年分、毎年出ている。漏れはない。工事経歴書の数字を遡った。完成工事高は横ばい。元請が減って下請が増えている。塗装業界の縮図みたいな数字だった。
赤ペンを置いた。手帳を開いた。スケジュールを確認した。月末に都庁へ申請。来月の頭に許可通知が届く見込み。手帳を閉じた。赤ペンを取った。
壁際のスチール棚。「進行中」のインデックスの間に隙間がある。横山家のファイルがあった場所。司法書士の中村に引き継いでから五ヶ月。家庭裁判所の審理には時間がかかる。角田の手を離れた案件だった。
赤ペンの蓋を閉めた。申請書の最終確認に入った。
*
十一時過ぎだった。
事務所のドアが開いた。黒田ではなかった。
女性だった。六十歳前後。紺のジャケットにグレーのスラックス。喪服ではない。髪を後ろでまとめている。化粧は薄い。鞄は黒い革の手提げ。整った身なりだったが、華やかさはなかった。静かな人だった。
「すみません。予約していないのですが」
「どうぞ」
角田は赤ペンを置いた。椅子から立ち上がった。
「お掛けください」
来客用の椅子を指した。机の向かい。角田は流し台に行った。電気ケトルのスイッチを入れた。棚からマグカップを出した。ティーバッグを一つ入れた。湯が沸くのを待った。
女性は椅子に座った。鞄を膝の上に置いた。事務所の中を見回すことはしなかった。視線は自分の手元に落ちていた。
角田はお茶を出した。マグカップの柄が揃っていなかった。角田のは白い無地。女性に出したのは青い花柄。誰かの置き忘れか、前の借り主の残り物か。角田は気にしていなかった。
「お忙しいところ申し訳ありません」
「いいえ。お名前を伺えますか」
「緒方です。緒方真由美」
角田は手帳を開いた。鉛筆を取った。赤ペンではない。依頼人の聞き取りには鉛筆を使った。
「緒方真由美さん。どのようなご相談ですか」
「相続の手続きをお願いしたいのですが」
「どなたの相続ですか」
「夫です。緒方信一郎。先月——十月の初めに亡くなりました」
角田は手帳に書いた。緒方信一郎。
「お悔やみ申し上げます」
「ありがとうございます。あの——事件で亡くなりました。ニュースにも出ましたので、ご存知かもしれません」
角田はペンを止めなかった。
「存じ上げません」
「錦糸町の居酒屋で刺されて。犯人はもう捕まっています」
「そうですか」
角田の声は平らだった。事件の詳細は聞かなかった。相続手続きに必要な情報ではなかった。
「ご主人の生年月日を教えてください」
「昭和三十七年十一月十四日です」
「お亡くなりになったのは」
「十月三日です」
「最後のご住所は」
「江東区の大島です。自宅です」
角田は鉛筆でメモを取っていった。本籍地は分からないと真由美は言った。結婚前は熊本だったと思うが、結婚後に東京に移したかもしれないし、移していないかもしれない。夫は本籍のことを話さなかった。
「戸籍を取ればわかります。まず死亡届が出された自治体から追います」
「お願いします」
「ご家族構成を教えてください。ご主人のご兄弟、お子さん」
「兄弟はいません。一人っ子だったと聞いています。子供は娘が一人です。彩花。三十歳です」
「お嬢さん以外に、お子さんは」
「いません」
角田は手帳に書いた。相続人、妻と子。二名。
「ご主人の財産について伺います。不動産はありますか」
「自宅のマンションがあります。江東区の大島。夫の名義です」
「それ以外の不動産は」
「ないと思います」
真由美は少し間を置いた。
「主人の実家は熊本にあったそうですが、処分したと聞いています。いつだったかは——はっきりしません」
角田は手帳に書いた。「熊本の不動産 処分済み(本人申告)」。
「預貯金は」
「あると思います。退職金もそのまま口座に入っていたはずです。通帳は家にあります」
「生命保険は」
「あります。一社。受取人は私です」
「株式や投資信託は」
「ないと思います。そういうことはしない人でした」
角田はメモを整理した。
「今後の流れをご説明します。まず戸籍を集めます。ご主人の出生から死亡までの連続した戸籍が必要です。これは私が職権で取得できます。同時に財産の調査に入ります。不動産の登記事項証明書を取り、預貯金の残高証明を各金融機関に依頼します。全て揃ったところで遺産分割協議書を作成します。相続人全員——緒方さんとお嬢さんが署名捺印されれば、手続きに入れます」
「不動産の名義変更もお願いできますか」
「名義変更は登記手続きになりますので、司法書士にお願いする形になります。こちらから司法書士をご紹介することもできますし、ご自身でお探しいただいても結構です」
「紹介していただけると助かります」
「承知しました」
角田は委任状を出した。説明した。真由美は読んだ。ゆっくり読んだ。角田は待った。
報酬の説明をした。戸籍収集と相続人調査、遺産分割協議書の作成、一式でいくらになるか。真由美は頷いた。
「お願いします」
角田はペンを渡した。自分のペン。ボールペン。真由美は委任状に署名した。住所を書いた。文字は小さく、丁寧だった。
本人確認書類を見せてもらった。運転免許証。写真と顔を確認した。コピーを取った。返した。
「では作業に入ります。戸籍が届き次第、ご連絡します。二週間ほどかかると思います」
「はい。よろしくお願いします」
真由美は立ち上がった。鞄を持った。
「お茶、ごちそうさまでした」
「いいえ」
ドアが閉まった。階段を降りる足音が聞こえた。角田は女性のマグカップを流しに持っていった。お茶は半分残っていた。
角田は手を洗った。席に戻った。
*
角田は新しいクリアファイルを取り出した。インデックスに「緒方信一郎 相続」と書いた。委任状と本人確認書類の写しを入れた。スチール棚の「進行中」のところに差した。横山家のファイルがあった隙間に、緒方のファイルが入った。
手帳のメモを見返した。赤ペンを取った。
取得すべき戸籍のリスト。
被相続人の出生から死亡までの連続した戸籍謄本。現在の本籍地が不明。まず死亡届が提出された自治体——江東区——に戸籍の交付請求を出す。そこから出生まで遡る。転籍があれば前の本籍地に請求する。熊本から東京に転籍しているはずだから、最低二箇所。
相続人の現在の戸籍謄本。妻・真由美と娘・彩花。二名。
被相続人の住民票の除票。
不動産の登記事項証明書。江東区大島のマンション。
赤ペンでリストを書き終えた。蓋を閉めた。
鉛筆で書いた聞き取りメモを見返した。「熊本の不動産 処分済み(本人申告)」。真由美がそう言った。緒方本人が真由美にそう言っていた。
角田は赤ペンの蓋を開けた。メモの横に一行だけ書いた。
「——要確認」
本人が「処分した」と言って実際に処分されていない不動産を、角田は見たことがある。何度もある。処分するつもりだった、処分したと思い込んでいた、あるいは家族に処分したと言っておいて実際はしていなかった。いずれにしても登記を取れば分かることだった。
角田は法務局のオンラインシステムを開いた。熊本の不動産を確認する。被相続人の氏名と、分かっている限りの住所で名寄せを試みる。だが本籍地も地番も分からない。戸籍が届けば本籍地が分かる。本籍地が分かれば不動産の所在を絞れる。
順番通りにやる。まず戸籍。
角田は交付請求書の記入に入った。
*
夕方。五時を過ぎていた。
ドアが開いた。
「いるか」
黒田だった。ボトル缶。微糖。ラベルを親指で触った。剥がした。丸めた。窓枠に置いた。
今日は剥がした。角田はそれを見て何も言わなかった。
「何かありましたか」
角田が聞いた。いつもは聞かない。今日は聞いた。
黒田はボトル缶を一口飲んだ。
「錦糸町の件。起訴された。殺人。動機のところは弁護士がうまくやるだろうが、こっちは出せてない」
「まだ言わないんですか」
「言わない。弁護士がついた。弁護士にも言ってないらしい。弁護士も困ってるだろうな。本人が動機を語らないんじゃ情状の組み立てができない」
角田は赤ペンの蓋を閉めた。
「今日、相続の依頼を受けました」
「誰の」
「緒方信一郎さん。奥さんからです」
黒田の手が止まった。ボトル缶を口に運ぶ途中で。
「緒方」
「はい」
「緒方信一郎の、女房が」
「はい。相続手続きの依頼です。戸籍の収集と遺産分割協議書の作成」
黒田はボトル缶を下ろした。窓枠にもたれていた背中を起こした。
「お前の依頼人が、俺の被害者の女房か」
「そうなります」
黒田は角田を見た。角田は手帳を見ていた。
「偶然か」
「本所で行政書士を探せば、そう多くはありません」
黒田はボトル缶を一口飲んだ。
「お前、相続で戸籍を取るな」
「はい。出生まで遡ります」
「熊本の戸籍も取るのか」
「本籍が熊本にあれば取ります。転籍していなければ」
黒田は窓の外を見た。向かいのビルの壁。灰色。
「何か出てきたら教えろとは言わない。お前の依頼人の情報だ。守秘義務がある」
「はい」
「捜査関係事項照会を出せば別だが、出すつもりはない。この件はそういうやり方をしたくない」
角田は黒田を見た。黒田は窓の外を見ていた。
「何か——相続手続きの中で、お伝えできることがあれば、お伝えします」
「お伝えできること」
「依頼人の利益を損なわない範囲で」
黒田は振り向いた。角田を見た。
「お前は真面目だな」
「仕事ですから」
黒田はボトル缶を飲み干した。空のボトルを窓枠に置いた。ラベルの丸めたやつの隣に。
「佐野に八代を洗わせてる。緒方と宮原の地元だ。だが三十年前の同級生関係なんか、洗っても埃しか出てこない」
「埃の中に何かあるかもしれません」
「書類屋の台詞だな」
「書類屋ですから」
黒田は笑わなかった。笑わなかったが、口の端が少しだけ動いた。
「帰る。飯は食ったのか」
「これからです」
「長谷川は混む時間だ。やめとけ」
「はい」
黒田はドアを開けた。出ていった。階段を降りる足音が聞こえた。
角田は一人になった。事務所は静かだった。
机の上のファイル。「緒方信一郎 相続」。赤ペンで書いたリスト。
角田は手帳を開いた。黒田が言った言葉を思い出した。「何か出てきたら教えろとは言わない」。
角田は手帳を閉じた。赤ペンの蓋を閉めた。
立ち上がった。上着を取った。事務所の電気を消した。ドアを閉めた。鍵をかけた。
階段を降りた。外に出た。十月の夜。風はなかった。
角田は長谷川とは反対の方向に歩き出した。黒田が「やめとけ」と言ったからではなかった。今日は蕎麦の気分ではなかった。
角田は角を曲がった。コンビニの明かりが見えた。おにぎりを買うことにした。
おにぎりを二つ買って事務所に戻った。机の上で食べた。鮭と昆布。二百六十円。味は普通だった。普通だったが、悪くはなかった。
赤ペンは机の端に置いたままだった。
食べ終わった。包みをゴミ箱に入れた。手を洗った。
もう一度ファイルを開いた。「緒方信一郎 相続」。明日から戸籍を追う。
角田は赤ペンを取った。




