第1話 錦糸町の夜
電話は十一時過ぎに鳴った。
大井の最終レースが終わって、ウインズ錦糸町から歩いて五分。自宅の玄関で靴を脱いだところだった。馬券は外れている。三連単の軸が飛んだ。二着に入った七番は見ていなかった。見ていない馬が来るレースは、そもそもの組み立てが間違っている。
携帯の表示を見た。本所署。
「黒田です」
「お休みのところ申し訳ありません。錦糸町で刺殺です。京葉道路沿いの居酒屋。被害者は搬送先で死亡確認。十時四十三分」
「犯人は」
「不明です。同席者の男が店を出ています。店主は顔を知っている常連です。名前は宮原」
「所轄は」
「こちらです。刑事課が現着しています」
「行く。三十分で着く」
靴を履き直した。革ジャンはそのまま。ジーンズもそのまま。大井帰りの格好で殺人の現場に行く。着替える時間があるなら現場を見る時間に使いたかった。
*
店の名前は「ふじ」。京葉道路から一本入った路地。間口は狭い。暖簾は紺。今は外されている。入口の前に規制線が張られ、制服の巡査が二人立っていた。
手帳を出した。
「警視庁捜査一課、黒田」
巡査が敬礼した。黒田は暖簾のない入口をくぐった。
カウンター八席。小上がりが二卓。照明は明るくした状態で、鑑識が動いていた。奥の小上がりに血痕。テーブルの上に焼酎のグラスが二つ。
黒田は入口に立ったまま、奥を見た。
グラスが二つ。片方は倒れている。被害者の側。もう片方は立ったままだった。
テーブルの上。箸が二膳。使われている。皿がいくつか。枝豆の殻が入った小鉢。焼き鳥の串が三本。冷やしトマトが半分残っている。二人で飲んでいた。食べていた。途中まで、普通に。
カウンターの中に包丁が一本。血がついた状態でまな板の横に置かれていた。三徳包丁。刃渡りは十八センチくらい。鑑識がすでにビニールで覆っている。
黒田はテーブルに近づいた。しゃがんだ。血痕を見た。飛び散り方。量。壁に付着した分。テーブルの上の分。
立ったままのグラスをもう一度見た。
同席者の側。宮原の側。焼酎がまだ三分の一ほど残っている。倒れていない。テーブルに衝撃があれば倒れる距離に置いてある。倒れていない。
黒田は立ち上がった。
本所署の刑事課長が来た。五十代、丸顔。
「黒田警部。ご足労すみません」
「被害者の身元は」
「緒方信一郎、六十三歳。江東区在住。会社員——退職していますが、以前は都内の建材メーカー勤務です。常連客で、月に一回くらい来ると店主が言っています」
「同席の宮原は」
「宮原修一、六十一歳。墨田区在住。こちらも退職者です。運送会社に勤めていました。店主によると、二人はいつもセットで来る。月に一度。今日もいつも通りだったと」
「いつも通りじゃなかったから人が死んでるんだ」
刑事課長は口をつぐんだ。黒田は続けた。
「店主はどこにいる」
「裏の事務所に。動揺していますが話はできます」
「聞く」
*
店主は六十代後半の男だった。白い調理服のまま、パイプ椅子に座っていた。手が震えていた。
「常連さんなんです」
店主は言った。黒田は向かいのパイプ椅子に座らなかった。立ったまま聞いた。
「二人はいつから来ている」
「五年くらい。最初に来たのは緒方さんの方です。一人で。そのうち宮原さんと二人で来るようになった」
「月に一回」
「だいたいそうです。月末の金曜が多い。予約はしない。ふらっと来て、小上がりの奥に座る。いつも同じ席です」
「今日は何を頼んだ」
「芋焼酎の水割り。二人とも。それから枝豆と焼き鳥と冷やしトマト。いつもと同じです」
「いつもと違ったことは」
店主は首を傾げた。震えていた手が膝の上で止まった。
「……声が大きくなったのは最後の方です。言い合いみたいな感じでした。でも中身は聞こえなかった。カウンターに他のお客さんが三人いたので」
「どっちの声が大きかった」
「宮原さんの方だったと思います。緒方さんは静かだった。いつも通り」
「それで」
「気づいたら宮原さんがカウンターの方に来てた。俺はトイレに行ってて、戻ったら包丁がなくなってた。で、奥で——」
店主の声が途切れた。
「宮原は包丁を取った後、どうした」
「分からないです。見てなかった。気づいたときには緒方さんが倒れてて、宮原さんが立ってた。包丁はカウンターのまな板の上に戻してあった」
「戻してあった」
「はい」
黒田は黙った。
包丁を取って、小上がりに行って、刺して、カウンターに戻って包丁を置いた。投げたのではない。まな板の横に置いた。
カッとなった人間の動作じゃない。
「宮原は店を出る前に何か言ったか」
「何も。包丁を置いて、そのまま出ていきました。走ってもなかった。普通に歩いて」
「金は」
「置いてありました。テーブルの上に。一万円札」
黒田はもう一度奥の小上がりを見た。テーブル。二つのグラス。食べかけの皿。金が置いてあった場所は鑑識が確認済みだろう。
「ありがとう。また聞くかもしれない」
店主は頷いた。黒田は事務所を出た。
*
翌朝。十時。
本所署に宮原修一が出頭した。
黒田は本所署の取調室にいた。朝から待っていた。宮原が来ると分かっていたわけではない。来なければこちらから行くつもりだった。名前も顔も分かっている。逃げる気があるなら昨夜のうちに消えている。消えていないなら来る。来た。
宮原を見た。
六十一歳。痩せている。白髪交じりの短髪。顔色は青い。一晩眠れなかっただろう。だが目は据わっていた。取り乱した様子はない。酒は完全に抜けている。黒っぽいジャンパーにチノパン。胸ポケットに何も入っていない。手ぶらだった。
「宮原修一さんですね」
「はい」
「昨夜の件でお話を伺います。座ってください」
宮原は椅子に座った。背筋は丸めなかった。テーブルの上に両手を置いた。手は震えていなかった。
「昨夜、錦糸町の居酒屋『ふじ』で緒方信一郎さんを刺したのはあなたですか」
「はい」
「凶器は店の包丁ですか」
「はい。カウンターにあった包丁です」
「なぜ包丁を手に取ったんですか」
「酔っていました。口論になって、カッとなった」
「何の口論ですか」
間があった。二秒か三秒。
「覚えてないです」
「覚えてない」
「はい」
黒田は宮原の目を見た。宮原は黒田の目を見返した。
この男は覚えている。
覚えていないのではない。言わないのだ。言えないのか、言いたくないのか、その区別はまだつかない。だが覚えていない人間の目ではなかった。覚えている人間が、覚えていないと言っている。
「緒方さんとはどういう関係ですか」
「同級生です。小学校と中学校の。熊本の八代です」
「いつから付き合いがあるんですか」
「子供の頃からです。上京してからも、たまに飲んでた。ここ五年くらいは月に一回、あの店で」
「五十年以上の付き合いですか」
「そうなります」
「五十年の付き合いの相手と口論になった。何の口論か覚えていない。覚えていないのに包丁を取りに行くほど怒った」
宮原は答えなかった。目は逸らさなかった。
「宮原さん。あなたは昨夜、どのくらい飲みましたか」
「焼酎の水割りを三杯か四杯」
「酔っていましたか」
「酔っていたと思います」
「今、昨夜のことをどのくらい覚えていますか」
「包丁を持ったことは覚えています。刺したことも覚えています。店を出たことも覚えています」
「ずいぶん覚えている」
宮原の顔が動かなかった。
「口論の中身だけ覚えていないんですか」
「……はい」
黒田はテーブルの上を見た。宮原の両手を見た。爪が短く切ってある。指は太くない。運送会社を定年まで勤めた人間にしては細い手だった。
「分かりました。今日はここまでにします。あなたを緒方信一郎さんに対する殺人の被疑者として逮捕します」
宮原は頷いた。抵抗しなかった。立ち上がった時も、手錠をかけられた時も、表情は変わらなかった。
*
逮捕の後、黒田は本所署の廊下を歩いた。自販機の前で立ち止まった。微糖の缶コーヒーのボタンを押した。百三十円。缶が落ちてきた。キャップを回した。
廊下の窓から外を見た。本所署の裏手。駐車場。覆面が三台。午後の日差しが当たっている。
宮原修一。六十一歳。独居。妻とは十年前に死別。子供なし。運送会社を定年退職。年金暮らし。前科前歴なし。
緒方信一郎。六十三歳。妻子あり。建材メーカーを定年退職。年金と退職金で暮らしていた。前科前歴なし。
二人とも普通の人間だった。どこにでもいる退職者で、月に一度の飲みを楽しみにしている六十代の男で、五十年来の友人同士で。
黒田は缶コーヒーを一口飲んだ。微糖。甘さが足りない。いつもの味なのに。
口論の中身。
宮原は言わなかった。覚えていないと言った。覚えていないはずがない。包丁を持ったことは覚えている。刺したことも覚えている。なのに口論の中身だけ覚えていない。
グラスが倒れていなかった。
宮原のグラスは立ったままだった。テーブルを叩いて立ったならグラスは倒れる。少なくとも揺れて中身がこぼれる。焼酎が三分の一残ったまま立っていた。宮原は静かに立ち上がった。カウンターまで歩いた。包丁を取った。小上がりに戻った。刺した。包丁をカウンターに戻した。金を置いた。店を出た。
カッとなった人間の動線じゃなかった。
黒田は缶コーヒーを飲み干した。空き缶を自販機の横のゴミ箱に入れた。
携帯を出した。部下の番号を呼び出した。
「佐野。宮原修一と緒方信一郎の周辺を洗え。八代。熊本の八代市。二人の出身地だ。同級生関係、地元の付き合い、親族関係、全部。五十年前まで遡れ」
「五十年ですか」
「小学校からだ。全部」
電話を切った。ジャンパーのポケットに携帯を戻した。
廊下を歩いた。階段を降りた。本所署を出た。
外は十月の空だった。澄んでいた。風はなかった。
黒田は歩き出した。あてはなかった。強いて言えば、角田の事務所の方角だった。
*
角田の事務所は本所の雑居ビルの三階にある。エレベーターはない。階段を三階分上がる。黒田はこの階段を何度上っているか数えたことがない。数えるような性質のものではなかった。
ドアを開けた。
「います」
角田は机に向かっていた。書類を読んでいた。赤ペンを持っていた。いつもの光景だった。
黒田は入口の脇に立った。自販機で買った二本目のボトル缶の蓋を開けた。微糖。ラベルを親指で撫でた。剥がさなかった。
「何か」
角田が聞いた。書類から目を上げないまま。
「いや」
黒田はボトル缶を一口飲んだ。角田は書類に戻った。赤ペンが動いた。
静かだった。階下からビルの配管の音がかすかに聞こえた。角田の赤ペンが紙の上を走る音が聞こえた。エアコンの音。それだけだった。
黒田はボトル缶をもう一口飲んだ。
「錦糸町で刺殺があった」
「そうですか」
「犯人は出頭した。同席してた男だ」
「……」
「動機が分からん」
角田は赤ペンを止めた。黒田を見た。
黒田は窓の外を見ていた。向かいのビルの壁。灰色。何も面白くない景色だった。
「分からないんですか」
「言わねえんだ。覚えてないと言ってる」
角田は黒田を見ていた。黒田は窓を見ていた。
角田は何も言わなかった。赤ペンの蓋を閉めた。開けた。また閉めた。
「蕎麦でも食いますか」
黒田は振り向いた。角田が立ち上がっていた。
「……お前が誘うのは珍しいな」
「たまにはいいでしょう」
黒田はボトル缶のラベルを剥がした。丸めて窓枠に置いた。
「行くか」
二人は事務所を出た。階段を降りた。本所の通りを歩いた。長谷川まで五分。黒田は角田の半歩後ろを歩いた。いつもは半歩前だった。今日は後ろだった。自分でも理由は分からなかった。
長谷川の暖簾をくぐった。カウンターに並んで座った。
「天ぷらそば」
「かけ。卵」
蕎麦が来るまで黒田は何も言わなかった。角田も何も言わなかった。店の中は湯気と出汁の匂いがしていた。
蕎麦が来た。黒田の天ぷらそばは海老天が丼からはみ出していた。海老天を箸で二つに折って、半分を汁に沈めた。角田のかけ蕎麦には卵が落としてあった。四百二十円。
黒田は蕎麦を啜った。熱かった。うまかった。
角田も蕎麦を啜っていた。卵を崩さずに。
店を出た。通りで別れた。
「明日から忙しくなる」
「お疲れさまです」
黒田は手を上げた。角田は頭を下げた。
黒田は歩き出した。錦糸町の方へ。角田は反対方向へ。事務所へ戻るのだろう。
十月の夜。風が出てきた。
黒田はジャンパーのポケットに手を入れた。空のボトル缶が指に当たった。捨てるのを忘れていた。
宮原のグラスを思い出した。倒れていなかったグラス。焼酎が三分の一残ったグラス。
あの男は、カッとなってなどいなかった。
黒田は立ち止まった。ポケットからボトル缶を出した。自販機の横のゴミ箱に入れた。
歩き出した。




