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書類は嘘をつかない  作者: 青柳 玲夜(れーやん)
棚の奥の伊豆

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第10話 書類には時効がない

 角田は書類一式を鞄に入れた。


 横山家のファイル。添付書類の一覧。全項目にチェックが入っている。源蔵の戸籍謄本。戸籍附票。住民票の写し。土地・建物の登記事項証明書。固定資産税の納税証明。温泉利用許可台帳の写し。吉川の陳述書。署名入り。


 角田は鞄の口を閉めた。


 壁際のスチール棚を見た。


 事務所を出た。



        *



 錦糸町の司法書士事務所。午前十時。


 角田はファイルを机の上に置いた。司法書士はファイルを開いた。添付書類の一覧を見た。一枚ずつ確認した。


「不在者財産管理人選任。静岡家裁沼津支部」


「はい。申立人は吉川三千男。利害関係人です。温泉排水の被害を受けている隣地の農家です」


 司法書士は台帳の写しに目を止めた。墨消しの黒い帯。名義人の欄。横山源蔵。許可年月日。昭和四十三年。


「二十六年間、名義人が不在」


「はい」


「承継の記録が一件しかない。喜三郎から源蔵」


「はい。源蔵から辰雄への承継は出されていません」


 司法書士はファイルを閉じた。


「書類は揃ってる。申立書はこちらで書きます」


「お願いします」


 角田は立ち上がった。鞄が軽くなっていた。


 事務所を出る前に振り返った。机の上にファイルが置いてある。角田が一枚ずつ揃えた書類。棚から出して、端から端まで読んで、鳴らし続けた棚。


 あのファイルは、もう角田の手元にはない。



        *



 ケアセンター松戸。


 角田は受付で面会票を書いた。黒田は入口の自動販売機でコーヒーを買っていた。


 前に来た時と同じだった。面会票。二階。リノリウムの床。消毒液の匂い。


 居室のドアが開いていた。佐伯は車椅子に座っていた。窓際。同じ場所。外の欅を見ていた。五月の欅は葉が厚くなっていた。四月の新緑より一段濃い。


「佐伯先生。角田です」


「……ああ」


 佐伯が角田を見た。眼鏡をかけ直した。角田の後ろに黒田を見つけて、目だけで頷いた。


 角田はパイプ椅子に座った。黒田は前と同じ場所に立った。窓際。ボトル缶のラベルを剥がし始めた。


「報告に来ました」


 佐伯は黙って角田を見ていた。


「横山家の件です。先生の棚から出てきた封筒の案件です」


「ああ」


 角田は手帳を開かなかった。手帳を見なくても言えた。


「辰雄さんに会いました。墨田区にいます。委任状の署名は辰雄さんのものではありませんでした。印鑑も辰雄さんのものではなかった。源蔵さんが辰雄さんの名前で書いたものです。辰雄さんはこの申請を知りませんでした」


 佐伯は動かなかった。窓の外を見なかった。角田を見ていた。


「温泉利用許可の台帳を県から取りました。台帳に、源蔵さんから辰雄さんへの承継の記録はありませんでした」


 佐伯の指が膝の上で動いた。前回と同じ動作。布地を掴みかけて、止めた。


「先生は農業委員会に農地転用を出して、温泉の承継は県に出していません」


 部屋が静かになった。


 佐伯は角田を見たまま、しばらく何も言わなかった。


「……そうだ」


「温泉だけ止めた理由を、お聞きしてもいいですか」


 佐伯はゆっくりと窓の外を見た。欅の緑。前回は新緑だった。今は若葉が重なって影を作っている。


「源蔵は委任状を持ってきた。辰雄の署名だと言った。だが辰雄に会わせろと言ったら、自分が話をつけるから待てと言った。三回来て、三回とも同じことを言った」


「はい」


「農地転用は形式上出せた。委任状がある。受任した以上、依頼された手続きは出す。だが温泉の方は——」


 佐伯は言葉を切った。


「温泉の承継は、辰雄があの温泉を引き受けるということだ。許可条件も含めて。排水の処理も。維持管理も。辰雄がそれを望んでいるか、確認できなかった」


 佐伯は角田に視線を戻した。


「確認できないものは出さない」


 角田は頷いた。


「もう一つ、報告します」


「何だ」


「不在者財産管理人の選任を申し立てます。吉川さんを申立人として。排水被害の利害関係人です。添付書類は揃えました。今日、司法書士に引き継ぎました。静岡家裁沼津支部です」


 佐伯の手が止まった。


 膝の布地を掴んでいた指が、離れた。


 長い沈黙があった。


 黒田がボトル缶のラベルを丸めた。丸めた音だけが部屋に響いた。


「……管理人か」


「はい。管理人が選任されれば、温泉利用許可の処理も含めて、源蔵さんの財産が動かせます」


 佐伯は窓の外を見ていた。欅の枝が風に揺れていた。


「角田さん」


「はい」


「私にもできたことだ」


 角田は何も言わなかった。


 佐伯は行政書士と司法書士のWライセンスだった。不在者財産管理人の選任申立書は司法書士の業務範囲。佐伯なら自分で書いて家裁に出せた。引き継ぐ必要もなかった。


 佐伯にはできた。やらなかった。


「分かっていた。手段はあった。だが——」


 佐伯は言葉を止めた。角田を見た。


「管理人が動けば、温泉が止まるかもしれない」


 ——あの温泉だけは、止めないでくれ。


「角田さん。書類は揃えたのか」


「はい」


 佐伯は少し間を置いた。


「そうか」


 それだけだった。佐伯は窓の外に視線を戻した。欅の葉が風に鳴っていた。


 角田は立ち上がった。


「失礼します」


 佐伯は振り向かなかった。窓の外を見ていた。角田が部屋を出る直前に、佐伯の声が聞こえた。


「角田さん」


 角田は止まった。


「源蔵は見つかったのか」


「いいえ。見つかっていません」


 佐伯は何も言わなかった。角田は少し待って、部屋を出た。



        *



 ケアセンターを出た。松戸の駅に向かって歩いた。五月の午後。風が生暖かかった。


 黒田は空のボトル缶をゴミ箱に捨てた。ラベルはとっくに剥がしてあった。


「佐伯はできたのにやらなかったのか」


「はい」


「源蔵の言葉か」


「分かりません。ただ、管理人を立てれば温泉が動く。動けば止まるかもしれない。佐伯先生はそれを避けた」


「源蔵は止めるなと言った。佐伯は止めなかった。お前は動かした」


 角田は歩きながら答えなかった。


 しばらく歩いた。駅が見えた。


「で、源蔵は」


「分かりません」


「管理人が動いても、源蔵がどこにいるかは分からない」


「はい」


「書類は動いた。源蔵は動かない」


「はい」


 黒田は鼻を鳴らした。


「まあ、お前の仕事は終わった」


 角田は少し歩いてから言った。


「書類を揃えるところまでが、私の仕事です」


「そうだな」


 駅に着いた。改札の前で黒田が立ち止まった。


「じゃあまたな」


 ポケットからICカードを出した。カードケースに小さなキーホルダーがぶら下がっていた。カピバラ。シャボテン公園の土産売り場で売っている類のもの。


 角田は何も言わなかった。


「……何だよ」


「何も」


 黒田は改札を通った。角田も通った。別のホームだった。



        *



 本所。夕方。


 長谷川。


「かけ」


 三百八十円。


 蕎麦が来た。湯気が立った。箸を取った。啜った。いつもの長谷川。いつもの出汁。いつもの麺。


 丼を持ち上げた。汁を飲んだ。半分。丼を置いた。


 勘定を払った。暖簾を出た。


 事務所に戻った。


 壁際のスチール棚を開けた。「進行中」のインデックス。横山家のファイルがあった場所に、細い隙間が空いていた。ファイルは司法書士の手元にある。角田の棚にはもうない。


 角田はその隙間を見た。


 隙間の左側に、別のファイルの背表紙が見えた。佐伯が残した他の仕事。角田がまだ開けていないファイル。棚にはまだ書類がある。


 角田は棚を閉めた。


 机に座った。手帳を開いた。横山家のページ。赤ペンのリスト。全項目に丸がついている。角田はそのページの下に、一行だけ書いた。


 ——引継完了。


 赤ペンの蓋を閉めた。手帳を閉じた。


 事務所の電気を消した。

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― 新着の感想 ―
この作品は、出てくる依頼人や関係者の人生の重みが一言、一つの動作に表れて、それを書類で動かす角田氏の仕事の重みをとても感じます。 畦道に書類を置いて署名した吉川さんのシーンの、年月と人生の重さはとても…
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