第9話 署名
三度目の踊り子号。
角田は鞄を膝の上に置いていた。鞄の中に陳述書の下書きがある。手続きの説明書がある。添付書類の一覧がある。角田が一枚ずつ揃えたもの。
車窓は見なかった。陳述書を開いて、最初から読んだ。赤ペンを持っていた。直す箇所はなかった。三回読んで、閉じた。鞄に戻した。赤ペンの蓋を閉めた。
*
筏場。
バス停から歩いた。四月の伊豆。同じ道。左手にわさび田。右手に横山家の土地。温泉の排水が溝を伝って流れている。
何も変わっていなかった。角田が来ても来なくても、わさびは枯れ続けている。
吉川がいた。水路の脇にしゃがんで、石の隙間に詰まった泥を掻き出していた。角田の足音に顔を上げた。
何も言わなかった。立ち上がって、長靴の泥を落として、角田を見た。
「書類を持ってきました。読んでいただけますか」
角田は鞄から書類を出した。陳述書の下書きと、手続きの説明書。
吉川は受け取った。立ったまま読み始めた。わさび田の畦で。角田は隣に立って待った。
吉川の目が紙の上を動いていた。ゆっくり読んでいた。角田は口を挟まなかった。
吉川の指が止まった。
——隣接地の土地所有者である横山源蔵は、二十六年以上にわたり所在不明であり——
顔を上げなかった。読み続けた。
——温泉利用許可の条件として排水の適切な処理が定められているが、名義人の不在により当該条件の履行が不能となり、温泉排水が陳述人の農地に継続的に流入し——
吉川の指がわずかに震えた。読み続けた。
——陳述人は、上記事実に基づき、横山源蔵について不在者財産管理人の選任を申し立てるにあたり、利害関係人としてこれを陳述する。
吉川が顔を上げた。角田を見た。
「これで温泉は止まるのか」
「直接は止まりません」
角田は吉川の目を見て答えた。
「この申立てで家庭裁判所が財産管理人を選任します。管理人が選ばれれば、管理人の判断で排水の対策ができます。温泉を止めるかどうかも管理人が判断します。私が止められるわけではありません」
吉川は黙った。
「ただ、二十六年間、誰も動かせなかった書類が動きます。動けば、次の手が打てます」
吉川はわさび田を見た。枯れた株。茶色い茎。水路を流れる温泉の排水。二十六年。
吉川は手続きの説明書に目を落とした。読んだ。角田がどこまで何をして、どこから先が別の人間の仕事か。全部書いてあった。
角田は待った。
風が吹いた。四月の伊豆の、温かい風だった。わさび田の水面が揺れた。
「ペンはあるか」
角田は鞄からボールペンを出した。ノックして、吉川に渡した。
吉川はペンを受け取った。陳述書を畦の上に置いた。膝をついた。署名欄に、名前を書いた。
ゆっくり書いた。一画ずつ。農作業で太くなった指が、ペンを不器用に握っていた。
書き終えた。ペンを角田に返した。
角田はペンを受け取った。陳述書を確認した。署名欄。吉川の名前。畦の土で紙の裏が少し湿っていた。角田は書類を持ち上げて、風に当てた。
吉川が立ち上がった。膝の土を払った。
わさび田に目を戻した。
「前の男は書類を持ってこなかった」
角田は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はいい」吉川はわさび田に向き直った。「温泉が止まったら礼を言え」
角田は陳述書を鞄にしまった。乾いていた。
畦道を歩いて、バス停に向かった。振り返らなかった。
*
修善寺。駅前の蕎麦屋。
「かけそば」
温かい蕎麦を頼んだ。わさびは載せなかった。
蕎麦が来た。湯気が立った。箸を取った。啜った。
温かかった。
丼を持ち上げた。汁を飲んだ。底まで飲んだ。丼を置いた。
空になった丼の底に、汁の跡が薄く残っていた。
「ごちそうさまでした」
勘定を払って、駅に戻った。
*
踊り子号。帰り。
角田は手帳を開いていた。赤ペンのリスト。
最後の行。「吉川の陳述書。署名」。赤ペンで丸をつけた。全項目に丸がついた。
手帳を閉じた。
窓の外を見た。海が光っていた。四月の相模湾。行きは車窓を見なかった。帰りは見えた。
*
本所。夜。
事務所に戻った。鞄から陳述書を出した。署名入り。吉川の名前。裏にうっすら畦の土の跡が残っていた。
机の上のファイル。横山家。昨日から置いたままだった。
角田はファイルを開いた。陳述書を挟んだ。添付書類の一覧をもう一度確認した。全項目にチェック。
ファイルの表紙に、赤ペンで追記した。
——司法書士引継ぎ予定。申立書作成依頼。管轄:静岡家裁沼津支部。
赤ペンの蓋を閉めた。
壁際のスチール棚。「進行中」のインデックス。角田はファイルを棚に戻した。
棚が軋んだ。前より重い音だった。書類が増えた分だけ、棚が鳴った。
角田は長谷川に行かなかった。伊豆で蕎麦を食べた。汁を飲み干した。今日はもう食べなくていい。
机に座った。手帳を開いた。明日の予定を書いた。
——司法書士に連絡。書類一式を渡す。
赤ペンの蓋を閉めた。
事務所の電気を消した。




