第8話 台帳
事務所。
机の上に書類が並んでいた。角田が一枚ずつ揃えたもの。赤ペンのリストに丸がついている。
源蔵の戸籍謄本。戸籍附票。住民票の写し。筏場の住所。二十六年間、異動なし。転出届なし。死亡届なし。書類上は筏場にいる。
土地・建物の登記事項証明書。法務局で取得した。名義は横山源蔵。昭和五十六年、相続による所有権移転。前所有者は横山喜三郎。
固定資産税の納税証明。宮内を通じて税務課から取得した。課税は続いている。名義人不在のまま、税だけが積み上がっている。
三つの丸。リストの半分。
角田は黒のボールペンを持っていた。陳述書の下書き。吉川の名前で出す書類。
赤ペンではなく黒。他人の名前で出す書類は赤ペンで書かない。
陳述書の文面を書いていた。
——陳述人は、静岡県伊豆市筏場において、わさび栽培を営む農業者である。隣接地の土地所有者である横山源蔵は、二十六年以上にわたり所在不明であり——
角田は書きかけの文面を読み返した。ペンを置いた。窓の外を見た。見てから、手帳を開いた。リストの残りを確認した。
温泉利用許可の原簿の写し。静岡県に情報公開請求を郵送済み。十日前。返送待ち。
これが届けば、リストが一つ進む。残るのは吉川の署名だけ。
*
三日後。郵便が届いた。
茶色い角二封筒。差出人は静岡県くらし・環境部環境局。角田は封筒を机の上に置いて、ペーパーナイフで開けた。
情報公開決定通知書。一枚。開示の決定。一部不開示。理由は個人情報。
台帳の写し。A4、四枚。
角田は一枚目から読んだ。
許可番号。
許可年月日。昭和四十三年八月十二日。
角田は手帳を開いた。鉛筆でメモした。一九六八年。半世紀以上前。角田が想定していたより古い。
名義人。横山源蔵。
その下に、承継の記録。
原名義人。横山喜三郎。
角田の手が止まった。喜三郎。登記事項証明書にあった名前。源蔵の前の所有者。父親。
昭和四十三年に喜三郎が取得。昭和五十六年に源蔵が承継。承継の理由は墨消しされていたが、登記と同じ年。相続。喜三郎が亡くなり、源蔵が温泉を継いだ。
二代。父から子へ。
角田は次の項目を読んだ。
用途。農業用・その他。
泉源の所在地。伊豆市筏場。住所の番地まで記載。
許可条件。
——温泉の利用にあたっては適切な維持管理を行うこと。排水は関係法令に従い適切に処理すること。
角田は鉛筆で許可条件を転記した。排水は関係法令に従い適切に処理すること。二十六年間、この条件は守られていない。吉川のわさび田に温泉の排水が流れ込んでいる。
角田は二枚目をめくった。三枚目。
承継の記録欄。
一件目。昭和五十六年。横山喜三郎から横山源蔵への承継。届出受理。日付。受理番号。記載あり。
二件目。
角田は台帳の記載を読んだ。一行ずつ。端から端まで。
二件目はなかった。
承継の記録は一件だけ。喜三郎から源蔵。それ以降、承継の届出はない。
角田は四枚目を見た。備考欄。空白。変更届の記録。なし。廃止届の記録。なし。
角田は台帳の写しを最初に戻して、もう一度読んだ。一枚目から四枚目まで。端から端まで。
なかった。
源蔵から辰雄への承継の記録が、どこにもなかった。
角田は情報公開決定通知書を手に取った。開示の対象を確認した。「横山源蔵名義の温泉利用許可に関する一切の行政文書」。承継の申請書が提出されていれば、受理簿なり進達簿なりに記録が残る。不受理でも記録は残る。受付すらされていなければ、記録はない。
記録がない。
佐伯は県に承継申請を出していなかった。
角田は台帳の写しを机に置いた。手帳を開いた。赤ペンを持った。
手帳の佐伯の欄。以前転記したメモ。
——農地転用:農業委員会に申請。受理。
その下に、角田は書いた。
——温泉承継:県に未提出。
農地転用は出した。温泉の承継は出さなかった。片方だけ。
角田は赤ペンを置いた。
佐伯のメモの裏。「温泉権の承継を拒んでいる?」。
佐伯は辰雄が承継を拒んでいると思った。委任状がある。源蔵が持ってきた。だが辰雄の意思は確認できていない。農地転用は出せた——委任状がある以上、形式的には出せる。だが温泉の承継は、佐伯の中で止まった。辰雄が本当に望んでいるか。委任状は本物か。
佐伯は全部を止めなかった。農地転用だけ出して、温泉は止めた。全部止めれば「案件を断った」で終わる。片方だけ止めたのは、佐伯が何かに引っかかっていた証拠。
角田は手帳を閉じた。
閉じてから、台帳の写しをもう一度見た。一枚目。許可年月日。昭和四十三年。
喜三郎が掘った温泉。源蔵が継いだ温泉。源蔵が辰雄に継がせようとした温泉。辰雄は知らなかった。
——あの温泉だけは、止めないでくれ。
源蔵が佐伯に言った言葉。あの温泉。源蔵のものではなかった。父のものだった。
角田は台帳の写しをファイルに挟んだ。リストの「温泉利用許可の原簿」に赤ペンで丸をつけた。
*
黒田が来たのは昼過ぎだった。ボトル缶のコーヒー。ラベルを剥がしながら座った。
「届いたか」
「届きました」
角田は台帳の写しを黒田に見せた。黒田は一枚目を見た。墨消しの黒い帯が何本か走っている。
「のり弁か」
「個人情報の部分だけです。名義人と許可条件は出ています」
黒田は二枚目をめくって、三枚目で手を止めた。
「承継の記録が一件しかない」
「はい。喜三郎から源蔵への承継だけです。源蔵から辰雄への承継は記録がありません」
「佐伯が出さなかったのか」
「出していません。農業委員会には農地転用を出しています。温泉の承継だけ、県に出していない」
黒田はラベルを丸めた。灰皿に入れた。
「なんで片方だけ止めた」
角田は答えなかった。手帳を開いて、佐伯のメモの転記を黒田に見せた。
——温泉権の承継を拒んでいる?
黒田はメモを読んだ。
「佐伯は疑ってたのか。委任状を」
「分かりません。ただ、農地転用は出して温泉は止めた。全部止めなかった。全部出しもしなかった」
「片方だけ止めるってのは、何かに引っかかってたってことだ」
「そう思います」
黒田はコーヒーを飲んだ。
「もう一つ。台帳に許可条件があります」
角田は台帳の写しの該当箇所を指した。
——排水は関係法令に従い適切に処理すること。
「二十六年間、この条件は守られていません。吉川さんのわさび田に排水が流れ込んでいる。名義人が不在で、誰もこの条件を履行できない状態が続いています」
「陳述書に使えるか」
「使います。吉川さんの陳述書に加筆します。許可条件の不履行。名義人不在による義務の不能。これで申立ての理由が強くなります」
黒田は台帳の一枚目に視線を戻した。
「昭和四十三年。源蔵の親父が取った許可か」
「はい。横山喜三郎。源蔵は昭和五十六年に承継しています。登記も同じ年に移転しています。相続です」
「二代目か」
「二代目です」
黒田は台帳を角田に返した。
「源蔵は三代目を作ろうとしたのか」
角田は答えなかった。台帳をファイルに戻した。
*
黒田が帰った後、角田は陳述書の下書きを開いた。
ボールペンを置いた。赤ペンを持った。
下書きの余白に、加筆を始めた。
——なお、当該温泉利用許可には、排水を関係法令に従い適切に処理すべき旨の条件が付されている。名義人の不在により当該条件の履行が不能となり、温泉排水が陳述人の農地に継続的に流入し、わさび栽培に重大な被害を生じている。
赤ペンで書いた。下書きの修正は赤ペン。
書き終えた。読み返した。
リストを見た。丸がついていないのは一つ。
——吉川の陳述書。署名。
角田は手帳を閉じた。
壁際のスチール棚。「進行中」のインデックス。横山家のファイル。前より厚くなっている。台帳の写しが加わった。陳述書の下書きが加わった。一枚ずつ、書類が増えている。
角田はファイルを棚に戻さなかった。机の上に置いたままにした。明日も開く。




