第7話 不在の証明
朝。事務所。
角田は机の上に申請書の控えを広げていた。三度目の通読。赤ペンを手に持っていたが、ペンは動かなかった。
読むものは読んだ。佐伯のメモ。委任状。申請書。辰雄の住民票。手帳に転記した三人の証言。全部ある。全部読んだ。何度読んでも同じだった。
申請書は二十六年前に書かれたままの申請書だった。新しいものは何も出てこない。
角田は赤ペンを置いた。
手帳を開いた。最後のページに書いたメモを見た。
——源蔵。住民票:筏場。異動なし。死亡届なし。転出届なし。2002年夏以降、所在不明。
書類の上には源蔵がいる。筏場に住んでいて、温泉利用許可の名義人で、土地の所有者。書類の上では生きている。
書類の外には源蔵がいない。二十六年間、誰も姿を見ていない。
赤ペンを拾い上げた。また置いた。書くことがなかった。
*
十時過ぎ。事務所のドアが開いた。
「おう」
黒田だった。ボトル缶の蓋を開けながら入ってきた。二日ぶりだった。
「伊豆、どうだった」
角田は黒田が座るのを待たず、話し始めた。吉川の証言。源蔵が消えた時期。洗濯物が干してあったこと。戸締まりがなかったこと。消える一ヶ月前に「もうすぐ終わる」と言ったこと。
黒田はコーヒーのラベルを剥がしながら聞いていた。剥がし終わった。丸めた。灰皿に入れた。
「それで」
「前の男もそう言ったよ、と言われました」
「前の男」
「佐伯さんのことです。吉川さんに、確認するからと言って帰った。それっきりだったと」
「お前もそう言ったのか」
「言いました」
黒田はコーヒーを一口飲んだ。
「で、どうする」
角田は答えなかった。机の上の申請書を見ていた。
黒田が立ち上がった。壁際のスチール棚に歩いて行った。「進行中」のインデックスがついた横山家のファイルを見た。触りはしなかった。
「角田」
「はい」
「書類に載ってない人間を、書類で探せるのか」
角田は黙った。
「源蔵は書類の上じゃ筏場にいるんだろう。住民票がそうなってるんだろう。だが誰も会ってない。二十六年。書類は嘘ついてないのか」
「嘘ではありません。届出がないだけです」
「届出がなけりゃ、書類の上じゃ生きてて筏場にいる。実際はどこにもいない。書類と現実が合ってない。お前はどっちを動かすんだ」
角田は赤ペンを見た。机の上の申請書を見た。手帳を見た。
「……書類を動かします」
「どうやって。源蔵がいないのに」
角田は答えなかった。
黒田は窓際に戻った。コーヒーを飲み終えた。空のボトル缶を灰皿の横に置いた。
沈黙があった。
角田は手帳を閉じた。閉じてから、開いた。最初のページ。佐伯のメモの転記。
——源蔵。住民票:筏場。異動なし。
角田は赤ペンを持った。
手帳の余白に、小さく書いた。
——不在。
書いてから、手が止まった。止まったまま、もう一行書いた。
——不在者財産管理人。民法25条。
角田は顔を上げた。
「黒田さん」
「何だ」
「源蔵さんを探すのは、やめます」
黒田は振り向かなかった。窓の外を見ていた。
「探さない。源蔵さんがいないことを、書類にします」
黒田は振り向いた。
「不在者財産管理人の選任です。いない人間の財産を、家庭裁判所が選んだ管理人に預ける。申立人は吉川さん。排水被害を受けている利害関係人です」
「お前が書くのか」
「申立書は書けません。家裁への書類は行政書士の範囲外です」
「じゃあ何をする」
「添付書類を揃えます」
角田は手帳に赤ペンでリストを書き始めた。
源蔵の戸籍謄本と戸籍附票。住民票。二十六年間異動がない事実の証明。固定資産税の納税記録。吉川の陳述書。温泉利用許可の原簿——静岡県に情報公開請求。登記事項証明書。
赤ペンの蓋を閉めた。
「佐伯さんは、いないから動かせないと止めた。私は逆をやります」
黒田は角田を見ていた。長い間、見ていた。
「蕎麦でも食うか」
*
長谷川。
黒田が暖簾をくぐるのを、角田は半歩後ろから見ていた。黒田が長谷川に入るのは初めてだった。
カウンターに並んで座った。角田はいつもの席より一つ右にずれた。
「何にします」
「天ぷらそば」
「かけ。卵」
蕎麦が来た。黒田の天ぷらそばは大きな海老天が丼からはみ出していた。黒田は海老天を箸で二つに折って、半分を汁に沈めた。
角田の蕎麦には卵が落としてある。四百二十円。湯気の中で白身が薄く広がっている。
黒田が先に箸をつけた。啜った。
「うまいな。安いし」
角田は卵を崩さずに蕎麦を啜った。卵の黄身が揺れた。
黒田が海老天の残り半分を齧った。衣が汁を吸って、しんなりしていた。
「角田」
「はい」
「吉川ってのは、お前の話を聞くか」
「分かりません」
「前の男と同じだと思ってるだろう。吉川は」
「思っていると思います」
「どうする」
角田は蕎麦を飲み込んだ。
「書類を持って行きます。陳述書の下書きと、手続きの説明と。吉川さんに読んでもらいます。読んでもらって、署名をもらいます」
「読めば分かると」
「書類は嘘をつきません。何ができて何ができないか。どこまで進んでどこから先は別の人間に引き継ぐか。全部書いてあります。吉川さんに読んでもらって、判断してもらいます」
黒田は天ぷらそばの汁を飲んだ。底まで飲んだ。丼を置いた。
「お前らしいな」
角田は丼を持ち上げた。汁を飲んだ。半分。丼を置いた。
「ごちそうさまでした」
勘定を払った。角田が二人分出そうとしたら、黒田が自分の分を置いた。
「おごられる趣味はない」
暖簾を出た。四月の昼。本所の路地に日が射していた。
「静岡にはいつ出すんだ」黒田が聞いた。
「明日、情報公開請求を郵送します。温泉利用許可の原簿。佐伯さんのメモに許可番号がありますが、原簿を見ないと名義の現状が分かりません。佐伯さんも確認していなかった」
「県が出すか」
「情報公開条例に基づく請求です。温泉利用許可は行政文書ですから、出ます。ただし個人情報の部分は墨消しの可能性があります」
「名前は出るか」
「名義人は許可の公的情報です。出るはずです」
黒田は鼻を鳴らした。
「吉川のところにはまた行くんだろう」
「陳述書の署名をもらいに行きます。原簿が届いてからです」
「暇だったら付き合うぞ」
「署名をもらうだけですから。一人で行きます」
黒田は何も言わずに歩き出した。角田はその背中を見てから、反対方向に歩いた。
角田は事務所に戻った。机に座った。手帳を開いた。
赤ペンでリストの一行目に丸をつけた。
——源蔵の住民票。伊豆市。
取得先の横に、日付を書いた。明日。
壁際のスチール棚。「進行中」のインデックス。横山家のファイル。角田はファイルを開いて、手帳のリストのコピーを挟んだ。
ファイルの一番上に、赤ペンで書いた。
——不在者財産管理人選任申立て 添付書類一覧
蓋を閉めた。ファイルを棚に戻した。
棚は軋まなかった。




