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書類は嘘をつかない  作者: 青柳 玲夜(れーやん)
棚の奥の伊豆

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第6話 前の男

 踊り子号。二時間半。


 角田は窓側の席で手帳を開いていた。車窓は見なかった。


 手帳に転記してあるメモを、最初から読み返した。佐伯の証言。辰雄の証言。申請書控えの要点。委任状の記載内容。宮内から聞いた入金記録。温泉法の条文番号。


 全部ある。全部読んだ。


 足りないのは、源蔵を隣で見ていた人間の言葉だった。



        *



 筏場。


 バス停から歩いた。四月の伊豆。山の空気が湿っていた。前に来た時と同じ道。左手にわさび田。右手に横山家の土地。温泉の排水が、小さな溝を伝って流れている。前と変わらない。何も変わっていない。


 わさび田の奥に、人影があった。


 吉川だった。長靴を履いて、水路の石を並べ直していた。角田の足音に顔を上げた。


「……また来たのか」


「お時間をいただけますか」


 吉川は手を止めなかった。石を一つ持ち上げ、位置を直し、水の流れを確認した。それから角田を見た。


「何人目だ」


「二回目です。私は」


「お前は二回目だろう。全部で何人目だって聞いてんだ。市役所の奴が来た。県の奴も来た。佐伯って行政書士も来た。宮内が何回も来た。で、お前が来た。何人来ても同じだ。温泉は止まらない。わさびは枯れる」


 角田は黙って立っていた。


 吉川は水路から上がった。長靴の泥を地面で落とした。


「聞きたいことがあるなら聞け。立ち話なら付き合う」



 わさび田の畦に、二人で立った。吉川は腕を組んでいた。角田は手帳を出さなかった。


「源蔵さんのことを聞かせてください」


「源蔵。あいつか」吉川は目を細めた。「あいつのことなら、おれが一番知ってるだろうよ。隣だ。毎日見てた」


「どんな暮らしでしたか」


「一人だった。辰雄が出てってからはずっと一人。畑はやめた。農地はほったらかし。温泉だけいじってた。配管を直して、湯量を見て、朝と晩に源泉のところに行って。それだけだ。あの男の一日は温泉で始まって温泉で終わった」


「排水の件は」


「何度言ったか分からない」吉川の声が硬くなった。「おれのわさび田に温泉の排水が入ってる。直してくれ。毎年言った。源蔵は毎年謝った。すまんな、って。すまんなって言って、何も直さなかった」


「理由は」


「金がないって言ってた。配管を直す金がない。業者を呼ぶ金がない。おれは言ったんだ。金がないなら温泉を止めろって。止めれば排水は止まる。配管なんか直さなくていい」


「源蔵さんは」


「黙った。いつもそうだ。温泉を止めろって言うと黙る。すまんなとも言わない。黙って、そのまま帰る。次の日にはまた源泉を見に行ってる」


 角田は吉川の横顔を見た。吉川はわさび田を見ていた。枯れた株。茶色くなった茎。水は流れている。だが温度が高い。わさびが育たない温度。


「吉川さん。源蔵さんが姿を見せなくなったのは、いつ頃ですか」


「二十年以上前だ。はっきり覚えてない。だが——夏だった。夏のある日から、家に明かりがつかなくなった。あの年の夏だ」


「二〇〇二年頃ですか」


「そのくらいだろう。おれは日付を覚えてない。ただ、七月か八月だった。暑い時期だ。急にいなくなった。引っ越しの気配もなかった。家はそのまま。戸締まりもしてなかった。洗濯物が干してあった」


「洗濯物が」


「干したまま出て行った。取り込んでない。あれを見て思ったんだ。帰るつもりだったか、帰れなくなったか。どっちかだ」


 角田は何も言わなかった。


「最初は二、三日で戻るかと思った。戻らなかった。一週間経っても戻らない。洗濯物が雨に濡れて、そのまま乾いて、また濡れて。おれは取り込んでやろうかとも思ったが、他人の家だ。触らなかった」


「市役所には」


「言った。宮内に言った。横山が消えた。温泉が出っぱなしだ。何とかしてくれ。宮内は来た。だが何もできなかった。管轄がどうの、届出がどうの。おれに言われても分からない。分かるのは、わさびが枯れてることだけだ」


 吉川は黙った。それからゆっくり言った。


「源蔵が消える前の話をするか」


「お願いします」


「消える少し前——ひと月か、もっと前か。源蔵がおれの田んぼの脇に来た。いつもは源泉の方にしか行かない男だ。おれの田んぼなんか見に来ない。珍しいと思った」


「何を」


「何も。来て、わさび田を見てた。枯れたわさびを見てた。おれが気づいて出て行ったら、源蔵は言ったんだ」


 吉川は腕を組み直した。


「——すまんな。もうすぐ終わるから」


 角田は動かなかった。


「終わる、と」


「おれは聞き返した。何が終わるんだって。温泉を止めるのかって。源蔵は首を振った。止めるとは言わなかった。ただ、もうすぐ終わるから、って。それだけ言って帰った。そのひと月後くらいに消えた」


「『もうすぐ終わる』」


「おれはてっきり、温泉を止めてくれるんだと思った。やっと止めるのかと。それで待った。待ったが終わらなかった。源蔵は消えた。温泉は出続けた。何も終わらなかった。二十年以上、何も」


 吉川はわさび田に目を落とした。


「おれのわさびだけが終わった」



        *



 角田は吉川の隣に立ったまま、しばらく黙っていた。


 もうすぐ終わる。止めないでくれ。ここにいられる。


「吉川さん」


「何だ」


「確認しなければならないことが、まだあります」


 吉川は角田を見た。長い間、見ていた。


「前の男も最後にそう言ったよ。確認するって。それっきりだった」


 角田は答えられなかった。


 角田は頭を下げた。


「すみません。また来ます」


 吉川は何も言わなかった。わさび田に戻って、水路の石を並べ直し始めた。


 角田は畦道を歩いて、バス停に向かった。振り返らなかった。



        *



 踊り子号。帰り。


 角田は手帳を開かなかった。膝の上に鞄を置いて、窓の外を見ていた。


 熱海を過ぎた。小田原を過ぎた。相模湾が見えた。車窓の向こうで、海が光っていた。


 角田は海を見なかった。窓に映った自分の顔を見ていた。



        *



 本所。夜。


 長谷川の暖簾の前で、角田は一拍止まった。


 入った。


「かけ」


 三百八十円。


 蕎麦が来た。湯気が立っている。箸を取った。啜った。噛んだ。飲み込んだ。


 丼を置いた。


 汁は飲まなかった。


 勘定を払い、暖簾を出た。事務所に戻った。


 壁際のスチール棚。「進行中」のインデックス。角田はファイルを開いた。吉川の証言を手帳に書いた。日付。場所。内容。源蔵が消えた時期。洗濯物。「もうすぐ終わる」。


 手帳のページが増えた。ファイルが厚くなった。


 だが源蔵は見つからない。書類上は筏場にいる。実際はどこにもいない。


 角田は赤ペンを持った。申請書の控えをもう一度開いた。


 読んだ。最初から。端から端まで。


 何かを見落としていないか。佐伯が見つけられなかったものを、角田が見つけられるか。


 同じ書類を、二十六年の時差で、二人の行政書士が読んでいる。


 棚が軋んだ。

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