第5話 空洞
朝。事務所。
角田は机の上に佐伯の封筒の中身を広げた。農地転用許可申請書の控え。温泉利用許可承継申請書の控え。委任状の写し。佐伯のメモ。
委任状に辰雄の住所が記載されている。静岡県伊豆市筏場。二十六年前の住所。
角田は職務上請求書を取り出した。行政書士が住民票や戸籍を請求する時に使う用紙。請求の理由欄に書いた。「農地転用許可申請に関する権利義務関係の確認のため、申請人横山辰雄の住民票の写しを請求する」。
書き終えた。封筒に入れた。切手を貼った。
伊豆市役所宛。筏場の住所での住民票除票を請求する。除票が出れば、転出先が分かる。転出先から辿れば、現住所に届く。
角田はもう一通書いた。転出先が判明した後に、転出先の自治体に再請求するための予備。二通目の宛先は空欄にした。転出先が分かってから書く。
二通の封筒を鞄に入れた。事務所を出た。ポストに一通目を入れた。
*
四日後。
伊豆市役所から返送が届いた。住民票除票。横山辰雄。筏場の住所から転出。転出先——東京都墨田区。
角田は紙を持ったまま、手を止めた。
墨田区。
角田は二通目の請求書の宛先に「墨田区役所」と書いた。今度はポストではなく、歩いて持って行ける。角田の事務所は本所にある。本所は墨田区だ。
区役所の窓口で請求書を出した。番号を呼ばれるまで待った。プラスチックの椅子に座って、手帳を開いた。
二十分後。窓口で受け取った。
横山辰雄。現住所。墨田区業平。
角田の事務所から、歩いて十五分の場所だった。
*
業平のアパート。三階建て。外階段。二階の角部屋。表札はなかった。
角田はインターホンを押した。しばらく待った。もう一度押した。
ドアが開いた。
男が立っていた。六十代前半。痩せている。白髪が多い。作業着。胸に刺繍で「東和ビルサービス」とある。今から仕事に出るところだったのか、帰ってきたところだったのか。
「横山辰雄さんですか」
「……はい」
「角田と申します。行政書士です」
名刺を出した。辰雄は名刺を受け取った。眉をひそめた。
「行政書士? 何の用ですか」
「お父様の横山源蔵さんの件で、お話を伺いたいのですが」
辰雄の顔が動いた。眉が上がり、すぐに戻った。
「……親父の」
「少しだけお時間をいただけますか」
辰雄はしばらく角田を見ていた。それから半歩下がって、ドアを広く開けた。
部屋は六畳一間。台所が奥にある。物が少なかった。テーブルと座椅子と小さなテレビ。壁にカレンダーが一枚。窓から業平の路地が見えた。
辰雄は座椅子に座った。角田はテーブルの向かいに正座した。鞄から封筒を出した。
「これを、ご覧ください」
申請書の控え。委任状の写し。角田はテーブルの上に並べた。
辰雄は申請書を手に取った。読んだ。
「農地転用……温泉利用許可承継……」
委任状を見た。
「……これ、俺の名前ですね」
「はい。辰雄さんの名前で、農地転用許可と温泉利用許可の承継が申請されています。二〇〇〇年に伊豆市の農業委員会に提出されています」
「二〇〇〇年」
「二十六年前です」
辰雄は委任状を見た。署名欄。「横山辰雄」の文字。その下の印影。
「……この字は俺じゃない」
「辰雄さんの署名ではない」
「俺はこんな字を書かない。これは——」辰雄は印影に目を落とした。「この判子は親父のだ。俺のじゃない」
角田の手が止まった。
「辰雄さん。この委任状を書いた覚えはありますか」
「ない」
「この申請のことを、ご存じでしたか」
「知らない。初めて見た」
辰雄はテーブルの上の書類を見下ろした。自分の名前が書かれた委任状。自分の知らない申請書。自分の知らない行政書士が作った書類。
「……親父が出したんですか」
「そう考えています」
「なんで俺の名前で」
「源蔵さんが、辰雄さんの名前で申請を出そうとしました。温泉権の承継と農地の転用許可です。辰雄さんに承継させる形で」
辰雄は首を振った。
「俺はそんなもの頼んでない。温泉なんか要らない。あんなもの」
辰雄の声が低くなった。
「あんなもの、金がかかるだけだ。配管の修理。排水の処理。年に何十万もかかる。親父はそれを全部一人でやってた。俺に手伝えとも言わなかった。温泉だけは自分のもんだと思ってた」
「辰雄さんが伊豆を出たのは」
「……十五年くらい前だ。もっと前か。はっきり覚えてない。親父と暮らしてても仕方がなかった。温泉の話しかしない。わさび田の水が変だと隣が怒鳴り込んでくる。金がない。俺の仕事もない。東京に出るって言ったら、親父は何も言わなかった」
「何も」
「止めなかった。行けとも言わなかった。俺が出て行く日に、玄関で一回だけ——」
辰雄は言葉を切った。
「温泉の面倒は見なくていい、って。それだけ言った」
角田は手帳にペンを置いたまま、辰雄を見ていた。
「面倒は見なくていい。つまり、俺にはもう関係ないってことだ。そう思った。親父が勝手にやるんだと。だから俺は出た。それっきりだ」
「源蔵さんとは、その後」
「連絡してない。向こうからも来ない。電話番号は変えてない。かかってこないだけだ」
角田は手帳を閉じなかった。最後の質問を聞いた。
「辰雄さん。固定資産税の引き落としが、辰雄さん名義の口座から続いています。ご存じでしたか」
「口座? 伊豆の農協のか」
「はい」
「あれは出る時にそのままにした。残高があったはずだ。親父が入れてたんだろう。俺は触ってない」
「二〇〇〇年から二〇〇八年まで、年に一回、固定資産税と同じ額が振り込まれていました。佐伯誠一という人の名前で」
「佐伯?」辰雄は首をかしげた。「知らない。誰だ」
「お父様が依頼した行政書士です」
「……知らない」
辰雄は本当に知らなかった。申請も。委任状も。佐伯も。固定資産税が払われていたことも。何もかも知らなかった。
角田は鞄に書類を戻した。
「辰雄さん。最後にひとつだけ。源蔵さんは、温泉にどうしてそこまで」
「分からない」辰雄はすぐに答えた。「聞いたことがある。なんであんなもんに金かけるんだって。親父は答えなかった。一回だけ——あの湯が出てる間はここにいられる、って。そんなことを言った気がする」
「ここにいられる」
「意味は分からない。分からないまま俺は出た」
角田は頭を下げた。
「お時間をいただきありがとうございます。また確認させていただくことがあるかもしれません」
「……好きにしてくれ。俺には関係ない話だ」
辰雄はドアを開けた。角田は靴を履いて外に出た。
業平の路地。午後の光が外階段の鉄柵に当たっていた。歩いて十五分で事務所に着く。二十六年間、この距離に辰雄がいた。
*
長谷川の暖簾をくぐった。
「かけ」
三百八十円。
蕎麦が来た。湯気が立っている。箸を取った。啜った。噛んだ。飲み込んだ。
丼を置いた。汁を、半分だけ飲んだ。
勘定を払った。
事務所に戻った。机に座った。手帳を開いた。
辰雄のページに書いた。
——委任状は本人の署名・印鑑ではない。申請の事実を知らない。温泉権の承継を依頼していない。
赤ペンに持ち替えた。申請書の控えを開いた。受理番号の横に、小さく書いた。
——無権代理。本人追認なし。
赤ペンの蓋を閉めた。
壁際のスチール棚。「進行中」のインデックスがついた横山家のファイル。角田はファイルを開き、辰雄の住民票の写しと、今日の手帳のメモのコピーを綴じた。
ファイルが厚くなった。
引き出しを閉めた。いつもの金属音。
角田は机に戻った。赤ペンを手に取った。申請書の控えを、もう一度、最初から読んだ。




