第4話 生きている書類
ケアセンター松戸。
角田は受付で面会票を書いた。黒田は入口の自動販売機でコーヒーを買っていた。
「佐伯先生のお部屋は二階です。今日は調子が良いと聞いています」
エレベーターで二階に上がった。廊下を歩いた。リノリウムの床。消毒液の匂い。窓から松戸の住宅街が見えた。
居室のドアが開いていた。佐伯は車椅子に座っていた。窓際。前回と同じ場所。外の欅を見ていた。新緑が出始めていた。
「佐伯先生。角田です」
「……ああ。来たか」
佐伯が顔を上げた。眼鏡をかけ直した。角田の後ろに立っている黒田を見た。
「誰だ」
「黒田です。警視庁の——」
「警察か」
「元です」黒田が言った。「今は暇な男です」
佐伯は黒田を三秒ほど見た。それから角田に視線を戻した。
「座れ」
パイプ椅子が二脚あった。角田が一脚を佐伯の正面に置き、黒田がもう一脚を少し離れた場所に置いた。黒田は座らなかった。窓際に立って、ボトル缶を開けた。
角田は鞄から封筒を出した。茶色い封筒。黄ばんだ粘着テープ。佐伯の棚の裏に貼ってあったもの。
佐伯は封筒を見た。
長い間、見ていた。
「……それか」
「先生の棚の裏に貼ってありました」
「知ってる」
「伊豆に行きました。筏場の横山家。農林課の宮内という人に会いました。現地も見ました。わさび田が温泉の排水で枯れています」
佐伯は何も言わなかった。
「もう一つ。二〇〇〇年から二〇〇八年まで、横山辰雄の口座に、固定資産税の年額と同じ金額が振り込まれていました。振込人は佐伯誠一です」
佐伯の手が膝の上で動いた。指が布地を掴んだ。
「宮内が言ったのか」
「はい」
「……あの男はまだいるか」
「農林課の主査です」
佐伯は目を閉じた。しばらく黙っていた。窓の外で鳥が鳴いた。
「角田さん」
「はい」
「あの申請書は、辰雄が持ってきたんじゃない」
角田の手が止まった。
「源蔵が来た」
「源蔵さんが」
「二〇〇〇年の春だ。事務所に来た。本所の事務所に。私は会ったことがなかった。紹介もなかった。ふらっと来た。七十過ぎの男だ。農地転用許可と温泉利用許可の承継をやってくれ、と。息子の辰雄の名前で出してくれ、と」
「辰雄さんの名前で」
「そうだ。源蔵は依頼人ではなかった。申請人は辰雄だった。だが辰雄はいなかった。源蔵だけが来た。委任状を持っていた。辰雄の署名と印鑑がある委任状。本物か偽物か、私には分からなかった」
角田はメモの裏を思い出した。「相続をしたくない。温泉権の承継を拒んでいる?」。
「佐伯先生。辰雄さんは、この申請のことを知っていたんですか」
佐伯は目を開けた。角田を見た。
「分からない。確認しようとした。辰雄に連絡を取ろうとした。源蔵が止めた。自分が話をつけるから待ってくれ、と」
「待ったんですか」
「待った。三回会った。源蔵は三回来た。二〇〇〇年の四月。五月。六月。三回目に——」
佐伯は言葉を切った。指が膝の布地を離した。
「三回目に源蔵は言った。辰雄はもう伊豆にいない。東京のどこかにいるが連絡が取れなくなった。申請は進めてくれ。金は自分が出す、と」
「金は自分が出す」
「固定資産税を払い続けなければ、あの土地が動く。土地が動けば温泉の問題が出る。源蔵はそう言った。源蔵が金を出した。私はそれを辰雄の口座に振り込んだ」
黒田が窓際で動いた。初めて口を開いた。
「佐伯先生。金は源蔵が出したと言ったな。なら、あんたは振り込みの代行をしただけか」
佐伯は黒田を見た。
「最初の三年は源蔵の金だった。源蔵が現金を持ってきて、私が辰雄の口座に振り込んだ」
「最初の三年」
「二〇〇〇年。二〇〇一年。二〇〇二年。三年目の夏を最後に、源蔵は来なくなった」
部屋が静かになった。
「来なくなったのに、振り込みは二〇〇八年まで続いている」と黒田が言った。
「そうだ」
「残りの六年は」
「私の金だ」
佐伯の声が低くなった。
「源蔵が来なくなった。連絡が取れなくなった。辰雄にも連絡が取れない。源蔵にも取れない。申請書は書いた。委任状がある。だが依頼人は消え、依頼人の親も消えた。書類だけが残った」
「それで六年間、自分の金を」
「税金を止めるわけにはいかなかった。止めたら終わりだ。差し押さえが始まる。始まったら、あの土地の登記が動く。登記が動けば、源蔵の住民票にぶつかる。住民票が筏場にあって、二十六年間異動がない。死亡届もない。転出届もない。そこに役所が気づく」
「気づかれたくなかったんですか」
佐伯は角田を見た。
「……源蔵が何をしたか、私には分からない。分からないまま、書類を動かすわけにはいかなかった。動かせば何かが出る。何が出るか分からない。分からないものを出すわけにはいかなかった」
角田は黙った。
佐伯は自分で「なぜ」の答えを見つけられなかった。だから書類を止めた。止めた上で、止めた状態が崩れないように金を払い続けた。六年間。自分の金で。
佐伯は答えなかったのではなかった。答えが分からなかったのだった。そして分からないまま動かすことを、行政書士として拒んだ。
「佐伯先生」
「何だ」
「源蔵さんは、最後に来た時、何か言っていましたか」
佐伯はしばらく黙っていた。
「一つだけ。最後に帰る時に、玄関で言った」
「何と」
「——あの温泉だけは、止めないでくれ」
角田はペンを持ったまま動かなかった。
温泉を止めないでくれ。管理する人間がいなくなっても。書類の名義人がいなくなっても。あの温泉だけは止めないでくれ。
源蔵はそう言い残して消えた。
「先生。最後にひとつ。源蔵さんは、本所の事務所にどうやって来たんですか。紹介がなかったと言いましたね」
「ああ」
「なぜ、先生のところに」
佐伯は首を振った。
「分からない。聞いたが、源蔵は答えなかった。ただ一度だけ、——知り合いに聞いた、とだけ言った」
角田は手帳を閉じた。
*
ケアセンターを出た。
松戸の駅に向かって歩いた。四月の午後。風が温かった。
黒田が先に口を開いた。
「佐伯は嘘をついてないな」
「はい」
「だが全部は話してない」
「はい」
「源蔵は二〇〇二年の夏に消えた。それまでに三回来た。七十過ぎの男が本所まで。伊豆から電車で三時間以上かかるだろう」
「踊り子で二時間半。乗り換えを入れれば三時間です」
「年寄りが三回来た。金を持って。息子の名前で書類を出してくれと。息子は知らない。委任状だけがある。——どう思う」
「書類の上では成立しています。委任状がある以上、受任は有効です」
「書類の話をしてるんじゃない」
角田は歩きながら黒田を見た。黒田はボトル缶を持ったまま、前を向いていた。
「源蔵は何かを始末しようとしてた。温泉か、土地か、もっと別の何かを。息子の名前を使って。息子に知らせずに」
角田は何も言わなかった。
「あの温泉だけは止めないでくれ。——温泉が大事なのか。温泉が何かを隠してるのか」
「分かりません」
「分からないか」
「はい。佐伯先生と同じです。分からないまま動かせない」
黒田は鼻を鳴らした。
「お前は佐伯と違うだろ。佐伯は止めた。お前は?」
角田は少し歩いてから答えた。
「動かします。書類を動かします。ただし、佐伯さんが止めた場所からです」
*
本所に戻ったのは夕方だった。
長谷川の暖簾をくぐった。
「かけ」
三百八十円。
黒田は蕎麦屋には入らなかった。「明日また来る」と言って錦糸町の方へ歩いていった。
蕎麦が来た。湯気が立っている。角田は箸を取った。
啜った。噛んだ。飲み込んだ。
伊豆のわさびはなかった。天城の手打ちでもなかった。いつもの長谷川。いつもの出汁。いつもの麺。
丼を置いた。汁は飲まなかった。
勘定を払い、事務所に戻った。
壁際のスチール棚を開けた。佐伯が残したファイルの列。角田は端から順に指を這わせた。一件ずつ、背表紙のラベルを読んだ。
横山家の封筒を、棚の表に戻した。裏ではなく、表に。ファイルの列の中に、一枚のインデックスをつけて差し込んだ。
——進行中。




