第3話 動かぬ者たち
伊豆シャボテン動物公園。平日の朝。客はまばらだった。
駐車場から大室山が見えた。芝に覆われた椀型の山。二月の山焼きから二ヶ月。黒い地肌の上に、薄い緑が産毛のように生え始めていた。
黒田は山を見なかった。入口のゲートを抜けるなり、園内マップの「カピバラ露天風呂」の文字を見つけて足を速めた。角田はマップの反対側、「園内施設のご案内」の掲示板を読んでいた。
「角田、こっちだ」
「先に行っていてください」
「付き合えよ。お前のためにルート変えてやったんだぞ」
「温泉の確認です」
黒田は鼻を鳴らして先に行った。角田は掲示板のテナント情報と施設概要を読み終えてから、ゆっくり後を追った。
カピバラのエリアに着いた。
岩風呂があった。湯は張られていなかった。乾いた岩肌。排水口に落ち葉が溜まっている。風呂の脇に看板が立っていた。
「カピバラ露天風呂は四月上旬をもちまして今シーズンの営業を終了いたしました」
黒田が看板の前で止まった。
「……終わってる」
「そうですね」
「終わってるだろ」
「はい」
「お前、知ってたのか」
「調べてません」
黒田は看板を睨んだ。カピバラたちは風呂の外の草地に横たわっていた。五頭。動かない。目を細めて、朝の日差しを浴びている。
黒田はカピバラの前にしゃがんだ。しばらく眺めていた。
「……似てるな」
「何がですか」
「お前だよ。こいつら、お前にそっくりだ。動かねえ。何考えてるか分からねえ。ただそこに居る」
角田は答えなかった。カピバラの向こうにある岩風呂の給湯設備を見ていた。
給湯口はステンレス製。配管が岩の裏を通って、地下の泉源に繋がっている。排水溝は風呂の底と縁の二カ所。縁の方にはオーバーフロー防止の金網が付いている。
角田はしゃがんで排水溝を覗いた。
「何やってんだ」
「排水処理を見ています」
「動物園で排水を見てる行政書士は初めてだぞ」
「ここは温泉を引いて、管理して、使い終わったら処理して流しています。当たり前のことを当たり前にやっている。許可を取り、設備を維持し、シーズンが終われば止める」
「それが」
「横山家は、それが二十六年間止まっています」
黒田は立ち上がった。カピバラが一頭、黒田の方をちらっと見て、また目を閉じた。
「こいつらは管理されてるから、湯がなくても同じ場所にいるわけだ」
「そうです」
「横山の温泉は管理されてねえ。だから勝手に流れて、わさびを殺してる」
「はい」
黒田はポケットからボトル缶のコーヒーを出した。いつ買ったのか。ラベルを少し剥がして、一口飲んだ。
「管理する奴がいなくなったら、温泉は止まらない。止められる人間だけがいなくなる」
角田は黒田を見た。黒田はカピバラを見ていた。
カピバラのエリアを離れ、園内を歩いた。角田が足を止めたのは温室の入口だった。入口の壁面に、額に入った掲示があった。
温泉法第十八条に基づく温泉の成分分析表。
角田は上から順に読んだ。泉質。ナトリウム・カルシウム―塩化物・硫酸塩泉。適応症。禁忌症。泉温、湧出量、pH値、主要な陰イオンと陽イオンの含有量。掲示物の日付は三年前。
角田は手帳を出してメモした。赤ペンではない。鉛筆。他人の施設に赤ペンは入れない。
掲示物の下に小さな注記があった。「本施設の温泉は、静岡県知事による温泉利用許可に基づき利用しています。排水は伊東市の下水道条例に従い処理しています」
角田はその注記もメモした。泉質より、こちらの方が長くメモした。
許可がある。管理がある。排水処理がある。三つ揃って、初めて温泉は「使える」。
横山家の温泉は、許可の名義人が消えた。管理する人間が消えた。排水処理は誰もしていない。三つとも欠けている。温泉だけが出続けている。
園を出た。
駐車場に戻ると、大室山の薄緑の斜面が午前の日差しで光っていた。リフトの支柱が山腹に一列並んでいる。黒田は見向きもせず車に乗った。
伊豆高原の駅方面に下りた。昼時だった。黒田が道沿いの蕎麦屋の看板を見つけて車を寄せた。
「入るか」
手打ち。天城のわさび付き。自分ですりおろすタイプ。
黒田は天ぷらそばを頼んだ。角田はもりそばを頼んだ。わさびは小さなすりおろし器と一緒に出てきた。天城の本わさび。
角田はわさびをすりおろした。鮫皮のおろし器。円を描くようにゆっくり。青い香りが立った。
「お前、手つきが妙に慣れてるな」
「初めてです」
「初めてでその回し方はおかしい」
角田はすりおろしたわさびを蕎麦猪口の縁に置いた。つゆに溶かさない。蕎麦をつゆにつけ、わさびを少しだけ箸で取って蕎麦に載せる。別々に食べる。
「……うまいですね」
「蕎麦だからな。お前は蕎麦なら何でもうまいだろ」
角田は何も言わなかった。蕎麦を食べた。
蕎麦を食べ終わった後、角田は鞄から佐伯の封筒を出した。
メモの裏を、もう一度読んだ。
「源蔵の死亡を辰雄が届け出ない理由——相続ができない。相続ができないのではなく、相続をしたくない。温泉権の承継を拒んでいる? なぜ」
角田は手帳を開いた。今日見たものを並べた。
シャボテン公園。温泉利用許可。排水処理。管理費用。配管の維持。温泉法に基づく義務。
温泉は資産か。
管理できる温泉は資産だ。管理できない温泉は——義務だけが残る。配管の維持費。排水処理の責任。源泉の温度管理。周辺への影響の監視。温泉利用許可の名義人には、これらの義務が課される。
辰雄は温泉権を承継したかった。申請書にはそう書いてある。
しかし佐伯は「承継を拒んでいる」と書いた。
矛盾。
承継「したい」と言いながら、相続を進めない。源蔵の死亡届を出さない。
角田は鉛筆を止めた。
もし辰雄が、申請の時点で既に分かっていたらどうか。温泉を管理する費用が、この土地の価値を超えること。温泉が止められないこと。配管が老朽化して、隣のわさび田に排水が漏れること。全部分かっていて、それでも形だけ申請を出した。
誰かに「やっている」と見せるために。
角田は手帳を閉じた。
推測だ。書類に書けない推測。
角田は推測しない。だが、佐伯も同じ推測に辿り着いた。メモの裏にだけ書いた。表には書かなかった。
宿に向かう途中だった。角田の携帯が鳴った。画面に「伊豆市役所」と表示された。
「角田先生ですか。農林課の宮内です。昨日はありがとうございました」
「お世話になっています」
「一点、お伝えしたいことがあります。固定資産税の件で、税務課に確認を取りました」
角田は立ち止まった。黒田も止まった。
「辰雄さんの口座への入金記録です。十五年前から辰雄さん本人の入金はありません。口座の残高だけで引き落としが続いていました。ただ——」
宮内の声が一拍止まった。
「二〇〇〇年から二〇〇八年まで、年に一回、定額の振り込みがあります。固定資産税の年額とほぼ同額です」
「振込人は」
「佐伯誠一、となっています」
角田の手が止まった。
佐伯。
佐伯誠一。あの佐伯が、辰雄の口座に、八年間、固定資産税の額を振り込んでいた。
「角田先生?」
「……ありがとうございます。確認します」
角田は電話を切った。
黒田が角田の横に立っていた。
「どうした」
「佐伯さんが、横山辰雄の口座に金を振り込んでいました。二〇〇〇年から二〇〇八年まで。固定資産税の額と同じ金額を」
黒田は何も言わなかった。
角田は佐伯の封筒を見た。茶色い封筒。黄ばんだ粘着テープ。棚の裏に貼ってあった。
佐伯は案件を隠した。
しかし金は払い続けた。
八年間。二〇〇〇年から二〇〇八年。佐伯が廃業した年まで。
「……二〇〇八年に振り込みが止まっている。佐伯さんが廃業した年です」
「つまり佐伯は、この案件を止めた後も、八年間、横山家の税金を肩代わりしてたってことか」
「そういうことになります」
黒田はボトル缶のラベルを剥がした。
「なんでだ」
角田は答えなかった。
佐伯のメモの裏。「温泉権の承継を拒んでいる? なぜ」。佐伯はその「なぜ」を突き止められなかった。突き止められなかったまま、封筒を棚の裏に貼った。案件を止めた。
だが税金を止めなかった。
税金を止めれば、固定資産税が滞納になる。滞納が続けば、市が差し押さえる。差し押さえれば、土地が動く。土地が動けば、温泉の問題が表に出る。
佐伯はそれを避けた。
何を守っていたのか。横山家か。温泉権か。それとも——佐伯自身が見つけられなかった「なぜ」の答えが、表に出ることを避けていたのか。
「黒田さん」
「何だ」
「帰りに佐伯さんに会いに行きます」
「松戸のケアセンターか」
「はい」
黒田はボトル缶を飲み干した。
「……暇だ」
「ありがとうございます」
「だから礼を言うな」




