第2話 不審な納税者
別室というほどのものではなかった。農林課の奥、パーテーションで仕切られた打ち合わせスペース。パイプ椅子と折りたたみの長机。壁に農業委員会の日程表が貼ってある。
上席の男性は名刺を出した。農林課主査、宮内。四十代半ば。日に焼けた顔。農林課の人間は外に出る仕事が多い。
角田も名刺を出した。
「行政書士の角田です。佐伯誠一から案件を引き継ぎました」
宮内は名刺を見て、それから角田を見た。
「佐伯先生を、ご存知なんですか」
「前任者です。私の事務所は、佐伯さんの事務所を引き継いだものです」
「そうですか」
宮内はパイプ椅子に座り直した。
「横山源蔵さんのことですが——」
一拍、間があった。
「書類上は、生きています」
角田は赤ペンを持ったまま動かなかった。
「住民票は筏場の住所に残っています。死亡届は出ていません。転出届も出ていません。書類上は、今もあの家に住んでいることになっています」
「実際は」
「二十六年間、誰も姿を見ていません」
角田はメモを取った。
「二〇〇〇年に、息子の辰雄さんがこの窓口に来ました。農地転用の件で。その時、父親の住民票が必要だと言われて——辰雄さんは『父は遠方の親戚のところに行っている』と答えました」
「転出届は」
「出ていません。辰雄さんに届出を促しましたが、『すぐ戻るから』と」
「戻らなかった」
「はい。佐伯先生にも同じことを言っていたようです。佐伯先生から問い合わせがありました。源蔵さんの住民票の件で。こちらからは『届出がない以上、住所は筏場のまま』としか答えられませんでした」
角田は赤ペンでメモの脇に線を引いた。
「辰雄さんが連絡不能になったのは」
「十五年ほど前です。二〇一一年頃。それまでは年に一度くらい、農業委員会の更新案内に対して電話がありました。『もう少し待ってくれ』と。それが途絶えました」
「辰雄さんの連絡先は」
「農業委員会への届出先は筏場のままです。更新されていません。住民票の方は、うちでは確認が取れていません」
「届出上は、二人ともあの家にいる」
「そういうことになります」
角田はペンを止めた。
「固定資産税は」
宮内の目が動いた。
「……払われています」
「二十六年間」
「はい。辰雄さんの口座から自動引き落としです。一度も滞納がありません」
角田は何も言わなかった。ペンの先を紙に当てたまま、三秒ほど止まった。
「税務課に確認されましたか」
「税務課としましては、税金が払われている以上、こちらから能動的に調査する立場にはありません」
「そうですね」
角田の声は平坦だった。
「ただ、農地転用許可申請が二十六年間保留のまま残っています。申請者と連絡が取れない。申請者の父の所在も確認できない。この状態を、農業委員会としてはどうお考えですか」
宮内は黙った。
「……正直に申し上げますと、手を付けられなかったんです」
「手を付けられなかった」
「源蔵さんの土地は、温泉権が絡んでいます。温泉利用許可は県の管轄です。農地転用はうち。住民票は市民課。固定資産税は税務課。全部管轄が違う。そして全部、横山家の問題が片付かないと動けない。誰かが最初の一手を打たないと、全部止まったままなんです」
「その最初の一手を、佐伯さんが打とうとした」
「そうだと思います。しかし佐伯先生も——途中で」
「止まった」
「はい」
角田は立ち上がった。
「現地を見せていただけますか。筏場の横山家の土地を」
「案内は……すみません、こちらからは」
「結構です。住所は分かっています」
角田は鞄を閉じた。宮内が立ち上がりかけて、口を開いた。
「角田先生」
「はい」
「近隣の方から、苦情が出ています。温泉の排水がわさび田に流れ込んでいると。もう五年以上前からです。うちとしても対応したいのですが、横山家に連絡が取れない以上——」
「分かりました」
角田はそれだけ言って、別室を出た。
役所の正面玄関を出ると、黒田が駐在と向かい合って立っていた。
駐在は自転車を停めたまま、手帳を開いている。黒田は両手をジャケットのポケットに入れて、かなり不機嫌な顔をしていた。
「——だから、警視庁の者だと言ってるだろう」
「はい。お名刺を拝見しましたが、最近は精巧な偽物もございまして」
「偽物って——おい」
「念のため、所轄に確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「好きにしろ」
角田が近づいた。
「すみません、私の同行者です。行政書士の角田と申します。市役所の農林課で打ち合わせがありまして」
角田が名刺を出すと、駐在は名刺と角田の顔を見比べ、それから黒田を見た。
「……失礼しました」
駐在は手帳を閉じかけて、角田の方を向いた。
「行政書士さん。農林課に用事ということは——筏場の方ですか」
「横山家の土地を確認に行きます」
駐在の表情が変わった。帽子の庇に手をやった。
「横山さんの……。あそこは温泉が出すぎてるんですよ。横山のじいさんの代からずっと。近所のわさび田の方からも何度か相談を受けてますが、管理する人がいないもんで」
「温泉の排水ですか」
「排水というか、もう勝手に流れてるんです。昔はじいさんが自分で配管いじってたらしいですけど」
黒田がポケットから手を出した。
「その横山のじいさんってのは、いつ頃の話だ」
「さあ……前の駐在から聞いた話ですが、もう三十年近く前にはあの家に人がいなかったそうです。私が来た時にはもう、温泉だけが勝手に流れてる状態でした」
駐在は自転車のハンドルを握った。
「お気をつけて。あの辺、道が狭いですから」
駐在が自転車で去っていった。黒田は肩を落とした。
「秋葉原の中華鍋はスルーで、俺が捕まるのかよ」
「職質されてたんですか」
「煙草吸ってただけだ。役所の前で」
「不審だったんでしょう」
「お前が言うな」
角田は駐車場の方を見た。
「筏場に行きます」
「飯は」
「帰りに」
「……了解」
黒田が車を出した。山に入っていく。
道が狭くなった。杉林の間を縫うように進む。途中で視界が開け、段々になったわさび田が見えた。
澄んだ水が、上の段から下の段へ流れている。わさびの葉が水面に揺れている。石を組んだ畦が整然と並び、水路が田のあいだを走っている。
美しかった。角田は窓の外を見た。
細い坂道を上ったところで、黒田が車を停めた。
「ここから先は無理だな」
角田と黒田は降りた。
坂道を上ると、わさび田の端に出た。
空気が変わった。湿気が濃い。そして温かい。四月の伊豆は東京より緑が濃いが、それとは違う温かさだった。地面から熱が上がっている。
わさび田の水路の先に、木造の家があった。
二階建て。屋根の一部が崩れている。壁板が反り返って、隙間から中が見えた。庭に雑草が生い茂り、敷地の境界が分からなくなっている。
家の周囲に湯気が立っていた。
朝の山気と地中の温泉水がぶつかって、白い靄が低く漂っている。硫黄の匂いはほとんどない。無色透明の単純泉。しかし温度がある。この靄の下には、管理されていない温泉の配管が走っている。
角田は鞄から佐伯の申請書の控えを出した。地番を確認した。
「ここです」
「人が住んでる気配はないな」
「十五年、誰も住んでいません。その前も、源蔵さんがいなくなってからは辰雄さんが一人で——」
「おい!」
声がした。
わさび田の方から、長靴を履いた老人が上がってきた。防水のヤッケ。日焼けした顔。七十代。
「お前ら、横山の関係か」
「行政書士です。この土地の——」
「またか! 前にも来ただろう、書類の人間が。何年前だ。何も変わらなかったじゃないか」
角田は動かなかった。
「前に来た方というのは」
「名前は忘れた。東京から来た。書類を持って。何か調べて帰っていった。それっきりだ」
佐伯だ。角田は確信した。
「あなたは」
「隣のわさび田だ。吉川。四十年やってる」
「吉川さん。お話を聞かせていただけますか」
吉川は角田を睨んだ。それから黒田を見た。
「あんた、刑事か」
黒田が少し笑った。
「分かりますか」
「目つきで分かる。うちの駐在より余程鋭い目してるよ」
黒田は何も言わなかった。
「話を聞くだけなら、好きにしろ。でも、また何もしないで帰るなら、二度と来るな」
吉川はわさび田の方に顎をしゃくった。
「見ろ。上の段、去年の秋から全滅だ。水温が上がってる。横山の家から温泉の排水が流れ込んでるんだ。配管が腐って、あちこちから漏れてる。誰に文句を言えばいい? 横山はいない。役所に言ったら『土地の所有者と連絡が取れません』だ。県に言ったら『温泉利用許可の名義人と連絡が取れません』だ」
角田はわさび田を見た。上の段の数列が茶色く変色している。わさびの葉が萎れて、水面に倒れている。
「温泉利用許可は横山源蔵さんの名義のままですか」
「知らんよ。役所の書類のことは。俺が知ってるのは、水がぬるくなって、わさびが死んでるってことだ」
角田は吉川の顔を見た。
「吉川さん。私が来たのは、この土地の農地転用許可申請が二十六年間止まっているからです。止まっている書類を動かすのが私の仕事です。温泉の配管の問題は、書類が動けば対処できます」
「書類が動けば」
「はい。温泉利用許可の名義人が確定すれば、管理責任が生じます。名義人がいなければ、許可は失効します。失効すれば、県が原状回復を命じることができる」
吉川は黙って角田を見た。
「……本当にやるのか」
「書類を動かすだけです」
吉川は鼻を鳴らした。
「前の男もそう言ったよ」
角田は何も言わなかった。
横山家の周囲を確認した。
家には近づけなかった。敷地の境界が不明瞭で、倒壊の危険がある。角田は公図のコピーと現地の地形を照らし合わせ、メモを取った。
黒田は家の周囲を一回りして戻ってきた。
「郵便受けに新聞とチラシが溜まってる。最後の日付は——読めない。十年以上前だな。電気のメーターは止まってる。ガスのメーターも。水道は——分からん。温泉の水が全部の配管に回ってる可能性がある」
「ありがとうございます」
「礼はいい。飯にしろ」
伊豆高原の駅前に戻った。
夕方になっていた。昼の食堂は閉まっていた。駅前の小さな居酒屋に入った。
黒田は刺身の盛り合わせと生ビールを頼んだ。角田はわさびの茎の三升漬けと白飯を頼んだ。
「また、それか」
「美味いですよ」
三升漬け。わさびの茎を醤油と酒と塩で漬けたもの。ピリッとした辛さ。白飯に載せると、わさび丼とは違う、発酵した旨味がある。
角田は飯を食べながら、佐伯の封筒の中身をもう一度広げた。
農地転用許可申請書。温泉利用許可の承継届の下書き。メモ。
三枚。それだけだったはずだ。
角田はメモの裏を見た。
裏にも文字があった。鉛筆。薄い。佐伯の字。
「源蔵の死亡を辰雄が届け出ない理由——相続ができない。相続ができないのではなく、相続をしたくない。温泉権の承継を拒んでいる? なぜ」
そこで止まっていた。
角田は赤ペンを置いた。
辰雄は温泉権を承継したかった。農地転用と温泉権の承継を同時に進めようとしていた。佐伯の申請書がそれを証明している。
しかし佐伯のメモの裏には、正反対のことが書いてある。辰雄が相続を拒んでいる。温泉権の承継を拒んでいる。
申請書の表と、メモの裏。佐伯が到達した結論は、依頼者の言葉と矛盾していた。
角田は白飯を一口食べた。三升漬けの辛さが舌に残った。
「黒田さん」
「何だ」
「明日、シャボテン公園に行きませんか」
黒田の箸が止まった。
「……今、何つった」
「カピバラが温泉に入っているそうです。この辺りの温泉の性質を確認したい」
「お前が動物園に行きたいって言ったのか」
「温泉の確認です」
「嘘つけ」
角田は飯を食べ続けた。黒田はビールを飲んで、刺身を一切れ口に入れた。
「……まあ、暇だしな」
「ありがとうございます」
「だから礼を言うな」




