第10話 書類の影
五月十七日の朝五時に、美香から電話が来た。
「角田先生。父が、今朝の三時に」
声は落ち着いていた。泣いた後の声だった。
「今から行きます」
角田は電話を切り、顔を洗い、ネクタイを締めた。事務所を出た。夜明け前の本所の路地を歩いた。隅田川の方角が白んでいた。空気が湿っていた。五月の朝。
都立病院の病室は、すでに片づけが始まっていた。鉄男の体には白い布がかけられている。美香がベッドの横に座っていた。
「先生。父は、昨日の夜まで話していました」
「何を話していましたか」
「二月二十九日の話。何度も繰り返していました。四年に一回しか来ないけど、誕生日は誕生日だ、って。それと、おやじが役所で言ったんだって。二月二十九日って」
鉄男は最後まで、声の話をしていた。父の声。角田の声。二つの声で届いた日付。
「美香さん。死亡届は七日以内に届出先の墨田区役所に提出します。ただし、戸籍の訂正が区役所の記載に反映されるまで数日かかります。反映を確認してから届け出れば確実です。間に合いました」
「はい」
美香が顔を上げた。
「間に合った、んですか」
「はい。訂正の決定は五月十五日に出ています。鉄男さんが亡くなったのは五月十七日です。決定は十五日に確定していますから、死亡届は正しい生年月日で処理されます」
美香は唇を噛んだ。泣きそうな顔をして、泣かなかった。
「父が聞いた日に、決まっていたんですね」
「そうです」
角田は鉄男の体に向かって頭を下げた。白い布の下に、旋盤のハンドルを握り続けた手がある。もう動かない手。その手の持ち主の誕生日が、書類の上で正しくなった。
*
五月二十日。事務所のポストに法務局からの封筒が届いた。戸籍訂正完了の通知書。
角田はその足で墨田区役所に行き、金子鉄男の戸籍謄本を請求した。窓口で待ち、番号を呼ばれ、受け取った。
真新しい紙。
金子鉄男の欄。生年月日の箇所。
——昭和三十五年二月二十九日。
従前の記載「昭和三十三年二月二十九日」は訂正され、訂正事項として法務局長からの通知に基づく旨が付記されている。
角田は戸籍謄本を見た。紙一枚。四百五十円。ここに至るまでに、韓国の除籍謄本を取り寄せ、外国人登録原票を開示請求し、旧暦の換算表を作り、佐伯の陳述書を取り、上申書を書き、賃金台帳のコピーを掘り出した。
紙は、鉄男が死んだ三日後に届いた。
角田は戸籍謄本をクリアファイルに入れ、鞄にしまった。
*
本所の工場。
シャッターは閉まっていた。美香が中から開けた。工場の中は暗かった。旋盤の上に布がかけてあった。油の匂いだけが残っている。
美香は鉄男が座っていた丸椅子に座っていた。角田は鞄から戸籍謄本を出し、作業台の上に置いた。
「鉄男さんの戸籍です。生年月日が訂正されています」
美香は謄本を手に取った。紙の上の文字を指でなぞった。
「……昭和三十五年。直ってる」
「これで、相続の手続きが進められます。工場の登記。鉄男さん名義の不動産と動産。銀行口座の凍結解除。全て、この戸籍で通ります。同一人性の証明は、もう要りません」
美香は謄本を膝の上に置いた。
「先生。工場、どうしたらいいですか」
「決めるのは美香さんです。続けるなら、設備と取引先の引き継ぎを整理します。畳むなら、清算の手続きをします。どちらでも、書類は私が作ります」
「……少し、考えます。父の機械に触ってから、決めます」
角田は頷いた。
「急ぎません。書類はいつでも作れます」
工場を出た。シャッターの前で振り返った。布をかけられた旋盤の影が、暗い工場の奥に見えた。
*
翌日。角田は松戸のケアセンターに行った。
佐伯は車椅子に座っていた。前回より少し顔色が良い。窓際で、外の木を見ていた。
「佐伯先生」
「角田さんか。座れ」
角田はパイプ椅子を引いて座った。鞄から戸籍謄本のコピーを出し、佐伯の前に置いた。
「鉄男さんの戸籍です。昭和三十五年二月二十九日。訂正が完了しました」
佐伯は眼鏡をかけ、紙を凝視した。長い間、紙を見ていた。
「……直ったか」
「はい」
「鉄男は」
「五月十七日に亡くなりました」
佐伯の手が止まった。紙を持ったまま、動かなくなった。
「……間に合ったのか」
「訂正の決定は十五日です。鉄男さんは病室でそれを聞きました。笑っていたそうです。四年に一度の誕生日だな、と」
佐伯は紙を膝の上に置いた。眼鏡を外した。目を閉じた。
「旋盤は」
「止まりました」
佐伯は何も言わなかった。目を閉じたまま、長い息を吐いた。
角田は待った。
「……あの男は、旋盤を回すために生きてた。誕生日なんか気にしたこともなかっただろう。だがな、角田さん」
「はい」
「旋盤を回すには、名前がいる。名前には戸籍がいる。戸籍には日付がいる。書類がなければ、あの男はあの旋盤の前に立てなかった。私が間違えた日付で、あの男は四十年間立っていた。それが——」
佐伯は言葉を切った。
「それが、私の宿題だった」
角田は黙って聞いた。
「朱肉池は使っているか」
「はい。使っています」
「そうか。あんたが使え。私はもう判を押す仕事はない」
角田は頭を下げた。
帰り際、佐伯が背中に言った。
「角田さん。棚、まだあるか」
「あります」
「あの棚の中に、私がやり残した仕事がまだあるかもしれん。見つけたら、頼む」
「……はい」
「あんたならやれる。端から端まで読む男だからな」
角田は振り返らなかった。頷いて、ケアセンターを出た。
*
夜。本所の事務所。
角田は金子鉄男のファイルを整理した。上申書の控え、佐伯の陳述書の写し、添付書類一式、法務局からの通知書のコピー、訂正後の戸籍謄本のコピー。全てをファイルに綴じた。
壁際のスチール棚。中段の引き出しを開けた。「完了」のインデックスが付いた仕切りの後ろに、ファイルを差し込んだ。引き出しを閉めた。
いつもの、重い金属音がした。建付けは変わっていない。
角田は机に戻った。明日の仕事がある。建設業許可の現場写真の整理。遺産分割協議書の修正。新規の相談が一件。
机の端に、真鍮の朱肉池がある。角田は蓋を開けた。新しい朱肉の赤。建設業許可の申請書に、事務所の職印を押した。朱肉池の朱肉が、紙に移った。赤い丸。
蓋を閉じた。
手帳を開いた。五月のページ。金子鉄男の欄の最後に書いた。
——完了。
*
長谷川の暖簾をくぐった。
「かけ。卵」
四百二十円。
蕎麦が来た。湯気が立っている。卵を落とした。箸で割ると、黄身が汁に広がった。
啜った。噛んだ。飲み込んだ。
丼の汁を、底まで飲んだ。
勘定を払い、暖簾を出た。
五月の夜。本所の路地は静かだった。事務所までの道を歩いた。工場の前を通った。シャッターが閉まっている。旋盤の音はしない。油の匂いが、まだ少しだけ、シャッターの隙間から漏れていた。
角田は立ち止まらなかった。
事務所に戻り、明かりをつけ、椅子に座った。赤ペンを手に取った。明日の書類を開いた。
壁際の棚が、暗い部屋の中で、いつものように軋んだ。




