第9話 最後の手掛かり
四月十四日。角田は東京法務局の窓口に立った。
厚みのあるクリアファイル。上申書、佐伯の陳述書、韓国除籍謄本とその翻訳文、外国人登録原票記載事項証明書、帰化許可申請書控え、現行戸籍謄本、生年月日対照表、旧暦・陽暦換算表。七点の添付書類と上申書の本体。
猪瀬が受け取った。受領印を押す前に、全てのページに目を通した。一枚ずつ、表と裏を確認し、添付書類の番号と上申書の記載を照合していく。端から端まで、飛ばさない。
「お預かりします」
猪瀬が書類を揃え、クリアファイルに戻した。
「本省へ送ります。回答までの期間は申し上げられません。法務大臣の帰化許可に関わる記載の訂正ですので、通常の戸籍訂正より審査が重くなります」
「目安は」
「ありません。前例が極めて少ない案件です」
角田は頭を下げた。
窓口を離れる時、猪瀬はすでに次の番号札を呼び出していた。一日のうちに処理する何十件もの事務の一つ。角田は鉄男の人生をその何十分の一に預けて、法務局を出た。
*
それから、手帳の空白が増えた。
本所の事務所に戻れば、他の依頼が待っている。建設業許可の更新書類を三件。古い家屋の相続放棄の相談が一件。車庫証明の作成が二件。角田は赤ペンを持ち、書類を読み、判を押し、封筒に入れ、郵便局に持って行った。
手帳の四月のページ。他の案件には進捗の記号がついている。丸、三角、二重丸。金子鉄男の欄だけが空白のまま残っていた。角田が書けるのは「本省審査中」の四文字だけで、それ以上何も書き足せなかった。
提出から五日目。夕方、本所の工場に寄った。
シャッターは上がっていた。旋盤の音は聞こえない。鉄男は作業台の横の丸椅子に座っていた。油の染みた作業着のまま、旋盤のハンドルに手を置いている。回してはいなかった。
「鉄男さん」
「先生か」
鉄男の声が掠れていた。頬の肉が落ち、作業着の首元が大きく余っている。前回より、もう一段、体が縮んでいた。
「出しました。法務局から本省に。今は返事を待っています」
「そうか」
鉄男はハンドルから手を離さなかった。
「もう回せねえんだよ。力が入らなくて。でも、ここに座ってると落ち着く」
角田は何も言えなかった。旋盤の前に座ること。それが鉄男にとっての、自分が自分であることの証明だった。戸籍の日付ではなく。旋盤と油の匂いが、鉄男を鉄男にしていた。
「美香さんは」
「朝と晩に来る。飯を持ってきてくれる。あいつは器用だよ。俺が死んだら、工場を閉めて、好きなことをやればいい」
「工場のことは、書類が整えば引き継げます」
「……先生。間に合うかい」
角田は鉄男の目を見た。
「間に合わせます」
言い切った。根拠はなかった。法務省がいつ答えるかは猪瀬にも分からない。だが角田は言い切った。行政書士として言ったのではない。角田という人間として言った。
鉄男は少しだけ笑った。唇の端が上がっただけの、小さな笑い。
「任せたよ。先生に任せた」
佐伯に言ったのと同じ言葉だった。
*
提出から十二日目。
事務所の電話が鳴った。
「角田先生。法務局の猪瀬です。本省から照会がありました」
角田は手帳を開いた。
「照会、ですか」
「はい。佐伯先生の陳述書の内容に関して、補強資料の提出を求めています」
「具体的には」
「陳述書の第二項で、申請者の就労記録が一九五八年基準で積み上がっていたと記載されています。健康保険、雇用保険、所得税申告。この記載を裏付ける客観的な資料を提示してほしい、と」
「四十年前の就労記録ですか」
「はい」
「保存期間を過ぎています。健康保険の記録は事業所の解散とともに廃棄されているはずです。所得税の申告書も、法定保存は七年です」
「承知しています。しかし本省は、行政書士の記憶に基づく陳述だけでは、法務大臣の決定を覆す根拠として十分でないと判断したようです」
角田は黙った。
「角田先生。照会に対して期限は設けられていませんが、回答がなければ上申は棚上げになります。事実上の不受理です」
「分かりました。探します」
電話を切った。
四十年前の就労記録。鉄男の父・金大植が勤めていた工場の記録。金大植はすでに死んでいる。勤務先の工場も、おそらく存在しない。健康保険組合も雇用保険事務組合も、四十年前の個人の記録を保管しているとは思えない。
角田は事務所の中を見回した。
壁際のスチール棚。佐伯が使っていた棚。佐伯が「二つの仕事をしていた」「詰め込みすぎた」と言った棚。角田が夜中に引き出して、反り返った背表紙の奥に司法書士のファイルを見つけた棚。
あの時、角田は司法書士のファイルを見つけて、そこで手を止めた。佐伯が行政書士と司法書士の二つの仕事を一つの棚に詰め込んでいたことを知り、それ以上は調べなかった。
だが棚の奥には、まだ何かあるかもしれない。
角田は棚の前に立った。最下段の引き出しを引いた。重い。ファイルが詰まっている。一つずつ引き出した。古い登記の控え、閉鎖された法人の定款、土地の公図のコピー。どれも佐伯の仕事の残骸だった。
引き出しの奥まで手を突っ込んだ。指先に紙の束が当たった。引き出しの底板と背板の隙間に挟まっている。力を入れて引いたが動かない。引き出し自体を棚から外した。金属が軋む音が夜の事務所に響いた。
引き出しの裏側。底板と背板の継ぎ目に、茶封筒が一枚、折れ曲がって挟まっていた。埃で白くなっている。封筒の表に、佐伯の字で「金子鉄男 登記関係」と書かれていた。
角田は封筒を開けた。
中には、数枚の書類のコピーが入っていた。佐伯が司法書士として鉄男の工場の不動産登記を行った際の、添付書類の控え。登記原因証明情報の写し。そしてその中に、一枚だけ、別の紙が挟まっていた。
手書きの表。罫線の引かれた帳面の一ページをコピーしたもの。上部に「賃金台帳」と印刷されている。
従業員の名前が縦に並んでいる。三行目。金哲男。その横に、手書きで生年月日が記されている。
——昭和三十三年二月二十九日。
一九五八年。存在しない日付。佐伯が帰化申請で書いた日付と同じ。
この賃金台帳は、鉄男が帰化した後の工場のものだ。帰化後の名前ではなく帰化前の名前「金哲男」で記載されている——つまり、帰化申請と同時期か、それ以前の記録。就労記録が一九五八年基準で作られていたことの、物理的な証拠。
佐伯はこれを持っていた。登記の際に本人確認書類として使い、そのコピーを控えとして保管していた。他の書類と一緒に棚の奥に押し込んだまま、十八年間。佐伯がこの棚を角田に残した時、この封筒のことを覚えていたかどうかは分からない。
角田は賃金台帳のコピーを机の上に置いた。
佐伯の棚が、また一つ、証拠を吐き出した。
*
翌朝。法務局に電話した。
「猪瀬さん。照会に対する補強資料が見つかりました」
「……何ですか」
「昭和六十年当時の賃金台帳のコピーです。鉄男さんの生年月日が昭和三十三年二月二十九日と記載されています。就労記録が一九五八年基準で作成されていたことの裏付けになります」
猪瀬が少し黙った。
「どこで見つけたのですか」
「佐伯先生が残した書類の中です。登記の添付書類の控えに紛れていました」
「……原本ですか」
「コピーです。原本の所在は不明です」
「コピーでは証拠能力が弱い、と本省が判断する可能性はあります」
「分かっています。ですが、佐伯先生の陳述書の内容を裏付ける客観的な資料として、これ以上のものは四十年前の記録には望めません」
猪瀬はまた黙った。紙をめくる音がした。
「角田先生。その賃金台帳のコピーと、佐伯先生の陳述書、そして先日の添付書類一式を合わせれば、本省に対する回答としては、出せる限りのものは出した、ということになります」
「はい」
「明日、持ってきてください。本省への回答書に添付します」
電話を切った。
角田は手帳を開いた。四月のページ。金子鉄男の欄に、初めて文字を書き足した。
——補強資料提出。あとは本省の判断を待つ。
*
それからまた、待った。
四月が終わった。五月に入った。大型連休を挟んで、法務省は動かない。角田は日常の業務を続けた。建設業許可の現場確認に立ち会い、遺産分割協議書の文案を練り、市役所の窓口で戸籍の附票を取った。
五月の第二週。美香から電話が来た。
「角田先生。父が入院しました」
「……容態は」
「意識はあります。でも先生、もう工場には行けないと思います。旋盤の前に座る体力がないと、自分で言いました」
角田は受話器を握りしめた。
「どちらの病院ですか」
「墨田区の都立病院です。本所の」
「分かりました。法務省からの連絡があり次第、すぐにお伝えします」
電話を切った。角田は手帳を開いた。五月のページ。金子鉄男の欄に書いた。
——入院。旋盤を離れた。
旋盤が止まった。佐伯が二度聞いた「旋盤を回しているか」。角田が二度答えた「回しています」。もう回していない。回せない。
角田は法務局に電話した。猪瀬は不在だった。伝言を残した。「金子鉄男が入院した。本省の回答を急いでほしい」。
*
五月十五日。
事務所の電話が鳴った。
「角田先生。猪瀬です」
角田は立ち上がった。
「本省から回答がありました。帰化許可時の生年月日の記載に誤りがあったと認め、法務大臣の修正決定が出ました。この決定に基づき、法務局長から管轄の区市町村長に対して戸籍訂正の通知を発出します」
角田は息を吐いた。手帳を持つ手が震えていた。
「いつ、訂正されますか」
「法務局長の通知が区役所に届き、戸籍の記載が訂正されるまで、事務手続きとして数日かかります。ただし、法務大臣の修正決定は既に出ています。訂正は確定しています」
「確定している、ということですか」
「はい。金子鉄男の生年月日は、昭和三十三年二月二十九日から昭和三十五年二月二十九日に訂正されます」
角田は受話器を耳に押し当てたまま、目を閉じた。
「……想定よりかなり早い判断でしたね」
「角田先生からの伝言は、本省にも伝えました。それと、書類が揃っていた。本省が動いたのは、書類が揃っていたからです。私は受け取って送っただけです」
電話が切れた。
角田は手帳に書いた。
——五月十五日。訂正許可。昭和三十五年二月二十九日。
*
角田は鞄を掴んで事務所を出た。
本所の都立病院まで歩いた。十五分。春の終わりの夕暮れ。隅田川の方から風が来た。
病室は四人部屋の窓際だった。鉄男はベッドの上に起き上がっていた。パイプ椅子に美香が座っている。角田が入ると、二人とも顔を上げた。
「鉄男さん」
「先生。わざわざ来てくれたのか」
鉄男の声は工場で聞いた時より細かった。点滴のチューブが腕に繋がっている。だが目は開いていた。
「法務省から許可が下りました」
鉄男が動きを止めた。
「鉄男さんの生年月日が訂正されます。昭和三十五年二月二十九日。一九六〇年。お父さんが役所で届けた日付です」
美香が口元を手で押さえた。
鉄男はしばらく黙っていた。点滴の管が揺れている。鉄男の腕が震えていた。
「……先生。俺の誕生日は、二月二十九日か」
「はい。二月二十九日です」
「四年に一度しか来ない誕生日だな」
鉄男の目の端に光るものがあった。笑おうとしていた。
「次は、いつだ」
角田は答えた。「次の閏年です」
鉄男は笑った。声を出して笑った。病室に笑い声が響いた。隣のベッドの患者がカーテン越しに振り返った。
「何年後だ」
「二年後です」
「二年後か。……長いな」
美香が泣いていた。声を出さず、手で口を押さえたまま、涙を流していた。
「美香。泣くな。誕生日ができたんだ。めでたい話だろう」
「……はい」
「先生。ありがとう。佐伯先生にも、伝えてくれ」
「伝えます」
角田は頭を下げた。
病室を出た。廊下で足を止めた。壁にもたれて、天井を見上げた。蛍光灯が白く光っていた。
鉄男は聞いた。声で聞いた。紙ではなく。六十六年前に父が役所の窓口で「二月二十九日」と声で伝えた。六十六年後に角田が病室で「二月二十九日」と声で伝えた。始まりが声で、終わりも声だった。
書類は後から届く。
*
夜。長谷川に寄った。
「かけ。卵」
四百二十円。蕎麦を啜った。出汁が温かかった。卵を崩して汁に溶かした。黄身が出汁に広がって、琥珀色が少しだけ濁った。
丼の汁を、底まで飲んだ。
長谷川を出た。夜風が頬に当たった。五月の風。もう冷たくない。
事務所に戻った。机の上に賃金台帳のコピーが置いてある。佐伯の棚から出てきた最後の証拠。角田はそれをクリアファイルに入れ、棚の中段に戻した。
引き出しの横に、真鍮の朱肉池が置いてある。佐伯が「あんたが使え」と言った朱肉池。角田は朱肉池の蓋を開けた。新しい朱肉の赤が、蛍光灯の下で鮮やかだった。
蓋を閉じた。
明日は、佐伯のところに行く。旋盤が止まったことを、伝えなければならない。




