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書類は嘘をつかない  作者: 青柳 玲夜(れーやん)
存在しない誕生日

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第7話 届かない署名

 陳述書を書くのに、三日かかった。


 角田は机に向かい、佐伯の言葉を書面に変換する作業をしていた。佐伯が話した内容は明快だった。就労記録が一九五八年前提で積み上がっていた。外国人登録は一九六〇年。法務局が一貫性を求めた。就労記録に合わせて一九五八年を選んだ。二月二十九日は親の記憶だから残した。一九五八年は閏年ではないから二月二十九日は存在しない。分かっていた。後で直すつもりだった。


 問題は、これをどう書くかだった。


 佐伯が意図的に存在しない日付を書いたことを、法務省への上申書の添付書類として提出する。佐伯は自分の行為を認めている。だが陳述書の文面が「私は虚偽の日付を故意に記載しました」では、佐伯の職業的名誉に関わる。


 角田は赤ペンを置いた。流しで水を汲んで飲んだ。


 佐伯を守りたいのか。鉄男を守りたいのか。角田はどちらも守りたいのだが、陳述書の文面は一つしか書けない。


 佐伯はすでに廃業し、行政書士の登録も抹消されている。懲戒処分は及ばない。刑事の時効も成立している。だが法務省に提出する公文書に、佐伯自身が「存在しない日付を選んだ」と認める文言を残すことの重さは、時効で消えない。


 机の上に丸めた下書きが溜まっていった。「申請者の就労記録との整合性を確保するために、生年月日の出生年を調整した」。調整。嘘だ。調整ではない。操作だ。だが「操作」と書けば佐伯の名が傷つく。赤ペンで線を引いた。丸めた。


 翌日も書き直した。「代理人の判断により、就労実態と整合する一九五八年を出生年として申請書を作成した」。事実に近い。だが「代理人の判断により」が曲者だ。代理人が依頼者の同意なく生年月日を変更する権限はない。佐伯は鉄男に説明していたのか。していなかったはずだ。「全部任せた」と鉄男は言っていた。また丸めた。


 三日目の朝、冷え切った湯呑みの底に茶渋が輪を作っていた。角田は手帳を開き、佐伯の言葉を読み返した。


 「任された以上、通さなければならない」。


 角田は新しい便箋を取り出した。



        *



 最終的に角田が書いた陳述書は、以下の構成だった。


 第一項。陳述者の経歴。佐伯誠一。行政書士登録番号、登録年月日、廃業届出年月日。


 第二項。当時の状況。一九八五年、金子鉄男(帰化前の姓名:金哲男)の帰化許可申請を代理。申請者の本国除籍謄本および外国人登録原票の生年月日は一九六〇年二月二十九日。一方、申請者の就労記録(健康保険、雇用保険、所得税申告)は全て一九五八年を基準として記録されていた。申請者の父が渡日時に年齢を実際より高く申告していたことが原因と推測される。出生証明書は取得できず、正確な出生年を客観的に証明する手段がなかった。


 第三項。申請書における生年月日の記載。帰化許可申請書には、就労記録と整合する一九五八年を出生年として記載した。月日については、本国書類および外国人登録の記載である二月二十九日をそのまま使用した。一九五八年は閏年ではなく、同年二月二十九日は暦上存在しないが、当時の代理人の判断として、申請者の生活実態に即した出生年と、本国記録に基づく月日を組み合わせた。


 第四項。意図。虚偽の日付を作出する意図ではなく、複数の公的記録間に存在する不一致を、申請者の実態に即して整合させる目的であった。更正手続きを後日行う意思があったが、代理人の健康上の理由により実施できなかった。


 第五項。現在の認識。上記の判断が結果として申請者の戸籍に瑕疵を生じさせたことを認め、速やかな訂正を求める。


 署名欄。住所、氏名、押印。


 角田は陳述書を読み返した。三回読んだ。


 「本国記録に基づく月日を使用した」。陳述書にはそう書いてある。佐伯が三月一日という安全な日付を捨てて二月二十九日を残したこと——その理由は書いていない。


 角田は赤ペンを置いた。



        *



 翌日。本所の工場を訪ねた。


 旋盤の音が聞こえない。シャッターは上がっていたが、機械は動いていなかった。鉄男は作業台の横の丸椅子に座っていた。


「角田先生」


「佐伯先生に会ってきました」


 鉄男は丸椅子の上で体を起こした。前回会った時より、さらに痩せていた。作業着の襟元が余っている。


「生きてたか」


「松戸のケアセンターにいます。車椅子ですが、話はできました」


「……そうか」


「佐伯先生が一九五八年と書いた理由が分かりました」


 角田は手帳を見ずに話した。鉄男の就労記録が一九五八年を基準に積み上がっていたこと。外国人登録だけが一九六〇年だったこと。法務局に不一致を指摘されたこと。就労記録に合わせるために一九五八年を選んだこと。


「親父が年をごまかしてたって話か」


「はい。渡日時に二歳上に届けていたそうです」


 鉄男は旋盤のハンドルを見た。


「知らなかった。親父は何も言わなかった」


「もう一つ。佐伯先生は、月日は変えませんでした。一九五八年の三月一日にすれば存在する日付になった。でも二月二十九日のままにした」


「なんでだ」


「お父さんとお母さんが覚えていた日付だから、と」


 鉄男はハンドルに手を置いた。何も言わなかった。しばらくして、手を離した。


「で、俺の誕生日は結局いつなんだ」


「正確なところは、まだ分かりません。出生証明書がない以上、証明する手段がない」


「……親父の記憶が全部か」


「はい」


 鉄男は丸椅子から立ち上がった。旋盤の電源を入れた。低い唸りが工場に響いた。


「角田先生。俺は二月二十九日でいい。親父がそう言ったなら、それでいい」


 角田は手帳に書いた。


 ——鉄男の意思:二月二十九日を希望。


「佐伯先生の陳述書を取りに、来週もう一度松戸に行きます」


「頼む。あと、佐伯先生に——」


 鉄男は言葉を探していた。


「ありがとうございましたって、伝えてくれ」


「伝えます」


 角田が工場を出る時、旋盤の音が背中に当たった。前より回転が遅い。



        *



 翌週。角田は常磐線に乗った。鞄に陳述書と朱肉池。朱肉は新しいものに入れ替えてある。


 ケアセンターまつどの受付で名乗った。受付の女性は角田の名前を覚えていた。


「佐伯さん、今日は少し調子が悪くて。お部屋にお連れします」


 個室だった。ベッドの上に佐伯が横になっていた。前回より顔色が悪い。だが角田が入ると、体を起こした。


「来たか」


「陳述書をお持ちしました」


 角田はベッドの横のテーブルに陳述書を置いた。佐伯は紙に顔を近づけて読んだ。時間がかかった。角田は椅子に座って待った。


 佐伯が第四項で止まった。


「『虚偽の日付を作出する意図ではなく』」


「はい」


「……うまく書いたな」


 角田は何も言わなかった。


「嘘だろう。私は虚偽だと分かっていた」


「先生の主観的意図は、虚偽の作出ではなく、複数の記録間の不一致の整合です。結果として存在しない日付が生まれましたが、それは判断の帰結であって、目的ではない」


「屁理屈だ」


「陳述書の文言です」


 佐伯は角田を見た。それから陳述書に目を落とした。第五項まで読んだ。署名欄を見た。


「印鑑がいるな」


「先生の認印をお持ちですか」


「息子が管理している」


 角田は携帯電話を出した。佐伯が番号を言った。角田がかけた。


 三回の呼び出しで出た。


「佐伯正人さんのお電話でしょうか。行政書士の角田と申します。お父様のケアセンターにおります。陳述書への署名捺印のため、お父様の認印をお持ちいただけないでしょうか」


 相手がしばらく黙った。


「角田さん。その陳述書を出したら、父に何か不利益がありますか」


「佐伯先生はすでに行政書士の登録を抹消されています。懲戒処分の対象にはなりません。この陳述書は、先生が代理された方の戸籍を訂正するための資料です」


「……父は、自分で署名できる状態ですか」


「今、お話しして内容を確認いただいています」


 受話器の向こうで息をつく音がした。


「今日中に届けます。一時間ほどかかりますが」


「お待ちしています」


 電話が切れた。角田は佐伯に伝えた。


「一時間で届けてくださるそうです」


 佐伯は頷いた。目を閉じた。


 角田は窓の外を見た。桜が五分咲きだった。佐伯は目を閉じたまま、何か考えているようだった。角田は手帳を開かなかった。赤ペンを出さなかった。


 五十分後、息子が来た。五十代後半。作業着姿。手に小さな布袋を持っている。


「認印です」


「ありがとうございます」


 息子は佐伯のベッドの横に立った。


「親父。大丈夫か」


「大丈夫だ」


 角田は陳述書の署名欄を佐伯の前に置いた。ペンを渡した。


 佐伯は右手でペンを取った。手が震えていた。名前を書くのに時間がかかった。一画ずつ。佐伯誠一。


 角田は認印を受け取り、朱肉池の蓋を開けた。新しい朱肉に印鑑を押しつけた。陳述書の署名欄に押した。


 赤い円が紙の上に残った。


 佐伯は印影を見た。


「この朱肉池を使ったのは、何年ぶりだ」


「先生が事務所を出られてからですから、二十年になります」


「……そうか」


 佐伯はベッドに体を戻した。角田は陳述書を封筒に入れた。


「先生。鉄男さんが、ありがとうございましたと」


 佐伯は天井を見ていた。


「あの男は旋盤を回しているか」


「回しています」


「なら、いい」


 角田は立ち上がった。


「先生。朱肉池はお返しします」


「いらない。あんたが使え」


 角田は朱肉池をテーブルの上に置いたまま、少し黙った。


「では、お預かりします」


 朱肉池を鞄に入れた。


 廊下で、息子が待っていた。


「角田さん。あの書類で、その依頼人の戸籍は直るんですか」


「これから法務省に上申します。時間はかかりますが、訂正は可能だと考えています」


「……父が書いた書類のせいで困っている人がいるなら、直した方がいい」


「はい」


「親父は昔からそうなんです。家でも書類ばかり見てた。家族の顔より、他人の名前の方をよく覚えてる人でね」


 息子は会釈して、佐伯の部屋に戻った。



        *



 帰りの常磐線。角田は鞄の中を確認した。陳述書。朱肉池。


 手帳を開いた。


 ——陳述書:佐伯署名捺印済み。

 ——上申書の提出先:東京法務局(法務局から法務省へ上申)。

 ——添付書類一覧:陳述書、韓国除籍謄本(原本+翻訳文)、外国人登録原票記載事項証明書、帰化許可申請書控え、鉄男の現行戸籍謄本、日付対照表。

 ——外国人登録原票の開示請求(法務省):未着。催促する。

 ——銀行への説明書面:完成済み。明日発送。

 ——訂正先の日付:未定。


 訂正先の日付が決まらない。


 一九六〇年二月二十九日。外国人登録と本国除籍謄本が一致する。鉄男も「二月二十九日でいい」と言った。だが出生証明書がない。金大植の口頭申告だけが根拠。母は三月一日と言った。


 角田は手帳を閉じた。荒川の鉄橋を渡った。


 事務所に戻った。



        *



 長谷川に寄った。


「かけ」


 三百八十円。卵は入れなかった。


 蕎麦を啜った。陳述書は取れた。だが上申書の核——「正しい日付は何か」——が決まらない。


 丼の汁は半分残した。

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