第6話 棚の主
三月の終わり。松戸市から戸籍の附票が届いた。
佐伯誠一。現住所は松戸市内の住所だった。番地の後に施設名が続いている。ケアセンターまつど。角田はその住所を手帳に書き写した。
朝八時に事務所を出た。鞄には四つの日付の対照表、韓国の除籍謄本の翻訳文、帰化申請書の控えのコピー。それと、真鍮の朱肉池。
北千住で常磐線に乗り換えた。各停で二十分。松戸の駅前は再開発の途中で、古い商店街と新しいマンションが隣り合っている。バスに乗り、十五分。住宅街の中に、三階建てのケアセンターがあった。
受付で名乗った。行政書士の角田です。佐伯誠一さんに面会したい。業務上の確認事項がある。
「ご家族にはご連絡済みですか」
「いいえ。佐伯さんご本人に確認したいことがあります」
受付の女性は少し考えてから、内線で誰かに確認を取った。
「佐伯さんは今日は調子がいい方です。談話室でお待ちください。ただ、耳が遠いので、ゆっくり大きな声でお話しください」
*
談話室は二階にあった。窓が大きく、午前の光が入っている。テーブルが四つ。そのうちの一つに、車椅子の老人が座っていた。
痩せた男だった。白髪が薄く、頬がこけている。しかし背筋は曲がっていない。膝の上に両手を置いて、窓の外を見ていた。
角田は向かいの椅子に座った。
「佐伯先生。初めまして。角田と申します。墨田区本所で行政書士をしています。先生の事務所を引き継いだ者です」
佐伯はゆっくりと角田の方を向いた。目が細い。眉が濃い。顔に深い皺が刻まれている。
「……本所」
「はい。あの事務所を七年前に借りました。先生が出られた後です」
佐伯は角田の顔を見た。しばらく黙っていた。
「管理会社から聞いたのか」
「はい」
「棚はまだあるか」
「あります。建付けが悪くて、引き出しが軋みます」
佐伯の口元が僅かに緩んだ。笑いではない。何かを思い出したような顔だった。
「あの棚は重い。書類を入れすぎた」
角田は鞄から朱肉池を取り出し、テーブルの上に置いた。
佐伯の目が朱肉池に落ちた。動かなかった。三秒、五秒。
右手が膝から離れた。震えている。指先が朱肉池の蓋に触れた。
「……これは」
「引き出しの奥にありました。蓋の裏に『佐伯』と刻んであります」
佐伯は朱肉池を持ち上げなかった。指先を蓋の上に置いたまま、目を閉じた。
「七年か」
「はい」
「よく持ってきてくれた」
佐伯は目を開けた。角田を見た。対照表を出す前に、佐伯の方から言った。
「用件は」
「金子鉄男さんの件です」
「……金子」
「帰化前の名前は金哲男。済州島出身。一九八五年に先生が帰化申請を代理されています」
佐伯は窓の外に視線を戻した。しばらく黙った。角田は待った。
「何人も扱った。名前だけでは思い出せない」
角田は対照表をテーブルに置いた。
「生年月日が四つあります。韓国の除籍謄本では一九六〇年二月二十九日。外国人登録でも一九六〇年二月二十九日。先生が帰化申請書に書いたのは一九五八年二月二十九日。お母様の記憶は三月一日」
佐伯は対照表を見た。老眼で見えにくいのだろう、紙に顔を近づけた。
「……ああ」
声の調子が変わった。
「二月二十九日の男か」
「覚えていますか」
「覚えている」
佐伯は対照表から目を上げた。
「なぜ年を変えたか。それを聞きに来たんだろう」
「はい」
佐伯は右手を朱肉池の上に戻した。
「角田さん。あんたは行政書士だな」
「はい」
「私は行政書士と司法書士の両方を持っていた」
角田の手が止まった。赤ペンを手帳の上に載せたまま、動かなかった。
「本所では二つの仕事をしていた。行政書士として帰化をやり、司法書士として帰化した人間の不動産登記をやった」
角田の手が止まった。赤ペンを手帳の上に載せたまま、動かなかった。
「鉄男さんの帰化が通った後、不動産の取得もやった。工場の土地建物。登記には正確な生年月日がいる。戸籍と登記の日付が一致しなければ、将来、相続の時に止まる。分かっていた」
「分かっていて、一九五八年と書いた」
「ああ」
「なぜですか」
佐伯は窓の外を見た。ケアセンターの庭に、桜の木が一本ある。まだ蕾だった。
「あの男の親父が来た時のことは覚えている。金大植。字が書けない男だった。息子の書類を全部持ってきた。紙袋に入れて。中身は滅茶苦茶だ。外国人登録、保険証、工場の契約書、全部ばらばらに突っ込んである」
佐伯は少し咳をした。乾いた咳だった。
「外国人登録は一九六〇年の二月二十九日になっていた。韓国の書類も取り寄せた。同じ日付だ。だが母親に確認したら三月一日だと言った。旧暦か陽暦か分からない。出生証明書はない。親父の記憶だけだ」
「それでも一九六〇年二月二十九日なら、閏年ですから存在する日付です。そのまま書けば——」
「そうはいかなかった」
佐伯が遮った。
「紙袋の中身を整理して分かったことがある。鉄男の健康保険証、工場の雇用記録、税金の申告。全部、一九五八年生まれになっていた。親父が最初に届けた年齢のまま、生活の書類が積み上がっていた」
角田は赤ペンを握った。
「外国人登録だけが一九六〇年だった。後から登録を更新した時に、韓国の書類に合わせて直したんだろう。だが保険も税金も雇用記録も、古い方のまま残っていた。一九五八年のまま」
「法務局がそこを突いた」
「ああ。帰化審査で、申請者の生年月日の一貫性を求められた。外国人登録は一九六〇年。就労記録は一九五八年。どっちが正しいんだと聞かれた。出生証明書がない。どちらが正しいか証明できない」
佐伯はまた咳をした。角田は待った。
「一九六〇年で出せば、鉄男の就労記録と二年ずれる。二十年分の保険と税金が全部矛盾する。一九五八年で出せば、就労記録と一致する。外国人登録と二年ずれるが、外国人登録の方は『親父の申告が後から修正された結果』だと説明できる」
「就労記録に合わせた」
「書類の辻褄を合わせるには、そうするしかなかった」
「鉄男という男は、旋盤を回すことしか知らない男だった。書類のことは何も分からない。親父も同じだ。二人とも黙って私に任せた。任された以上、通さなければならない」
佐伯は窓の外を見た。しばらく黙った。角田は待った。
「一九五八年にすれば就労記録と合う。それは分かった。だが一九五八年は閏年じゃない。二月二十九日がない」
角田は赤ペンを止めた。
「三月一日にすれば存在する日付になる。本国の書類にも三月一日の記録がある。母親も三月一日と言った。一九五八年三月一日。それが一番安全だった」
佐伯が言葉を切った。長い間があった。
「——だが、二月二十九日を残したかった」
「なぜですか」
「母親が二月の終わりに生まれたと言った。外国人登録も二月二十九日だった。年が正しいかどうかは分からない。だが月日だけは——」
佐伯の声が小さくなった。
「親が覚えていた。二月の終わりだ。それだけは動かしたくなかった」
「だから、閏年ではない一九五八年の二月二十九日を書いた」
「ああ。存在しない日付だと分かっていた」
「将来、問題になると」
「なる。なるが、その時は私が直すつもりだった。帰化が通れば、後から生年月日の更正はできる。錯誤として家庭裁判所に申し立てればいい。帰化を通すことが先だった。通さなければ、あの男は——」
角田は手帳に書かなかった。佐伯は家庭裁判所の申立てで直せると考えていた。だが帰化による戸籍の訂正は、通常の錯誤訂正とは手続きが違う。法務省への上申が必要になる。佐伯が体を壊さなかったとしても、簡単に直せたかどうかは分からない。
佐伯は言葉を止めた。窓の外を見た。
「通さなければ、工場を自分の名義にできない。銀行から金を借りられない。旋盤は親父の名義のままだ。親父が死んだら全部なくなる」
「帰化を通すために、存在しない日付を選んだ」
「選んだ。あの日、事務所に戻って申請書を書いた。一九五八年と書いた。朱肉を押した。あの朱肉池で」
佐伯の指が朱肉池の蓋をなぞった。
「後で直すつもりだった。だが帰化が通った後、登記の仕事が立て込んだ。鉄男の不動産登記もやった。一九五八年の日付のまま登記した。更正を後回しにした。そのうちに——」
「千住を出た」
「体を壊した。事務所を畳んだ。息子に松戸の家を買ってもらって、引っ越した。棚の書類は全部置いていった。朱肉池も」
佐伯は朱肉池から手を離した。
「角田さん。あんたに聞きたいことがある」
「はい」
「あの棚に、あんたは何を入れている」
「依頼人のファイルです」
「建付けは直したか」
「直していません。毎日軋みます」
佐伯はまた口元を緩めた。
「私が詰め込みすぎたんだ」
角田は手帳を閉じた。
「先生。鉄男さんの戸籍を訂正する手続きを進めています。法務省に上申します。先生の陳述書が必要です」
「陳述書」
「先生がなぜ一九五八年と書いたか。今お話しいただいた内容を、書面にまとめます。先生に署名捺印をいただきたい」
佐伯はしばらく黙った。
「あの朱肉池で押せるか」
「朱肉が乾いています。新しいものを入れて、次回お持ちします」
「……頼む」
角田は立ち上がった。
「陳述書の草案を作って、改めてお持ちします」
「角田さん」
佐伯が角田を呼び止めた。
「鉄男は元気か」
角田は一瞬、黙った。
「旋盤を回しています」
佐伯は頷いた。それ以上は聞かなかった。
*
帰りの常磐線で、角田は窓の外を見ていた。松戸を出て、北千住を過ぎ、荒川の鉄橋を渡った。
佐伯は存在しない日付を知っていて書いた。後で直すつもりだった。直せなかった。体を壊し、事務所を畳み、朱肉池を置いていった。
佐伯の選択が正しかったのかどうか、角田には分からない。
*
夜。事務所に戻った。
壁際のスチール棚の前に立った。引き出しを開けた。依頼人のファイルが並んでいる。その奥に、角田が触ったことのない古いファイルが数冊ある。建付けの歪みに押されて、日焼けした背表紙が一冊だけ突き出していた。
角田はそのファイルを引き出した。
登記申請書の控えだった。佐伯の字で、不動産の表示、所有権移転登記、抵当権設定登記。帰化した人間が日本名で不動産を取得する手続き。日付は二十年以上前。
司法書士の仕事だ。
角田は棚の奥を見た。同じ背表紙のファイルが、まだ何冊も並んでいた。行政書士の帰化ファイルの間に、司法書士の登記ファイルが混じっている。一つの棚に、二つの仕事が押し込んである。
七年間。毎日開けていた棚だ。建付けが悪いのは書類が多すぎるからだと思っていた。多すぎたのではない。二人分だったのだ。
角田はファイルを棚に戻した。引き出しを閉めた。建付けの悪い金属音が、いつもより重く聞こえた。
机に座った。手帳を開いた。
——佐伯誠一。行政書士・司法書士。Wライセンス。
——1958年の理由:就労記録(保険・税・雇用)が1958年前提。外国人登録の1960年と不一致。法務局に指摘され、就労記録に合わせた。
——月日(2/29)は親の記憶。動かさなかった。結果、存在しない日付。
——「後で直すつもりだった」。直さなかった。
——陳述書の草案を作成する。朱肉池に新しい朱肉を入れる。
角田は赤ペンを置いた。
長谷川はとうに閉まっている。流しで水を汲んで飲んだ。




