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第三話 救う変態 その7

「それで、君は何か勝算があるのかい?」

 志摩は二階から三階へ続く螺旋階段を一歩一歩昇っていると、隣からやや荒い呼吸に交じって問われた。

 彼女の表情は平然としているようで、顔色の悪さを隠しきれていない。

 それは志摩も同じことであったが、意地でも彼女より先には音を上げないと心に誓う。

「そんなもん、十階まで行ってあいつらをぶっ飛ばすだけですよ」

 志摩は上を睨んで、力強く答えた。

 今、階段を上っているのは志摩と空亜だけである。結局詩哉とゐるには下で待機させることとし、代わりに志摩信者ーズと風紀警察への指揮を頼んだ。このビルに通がいない場合に備え、通がいそうな場所を探させるのだ。

「ノープランじゃないか。このままでは十階にたどり着く前に力尽きてしまうよ」

 空亜が不満げに言ったところで、ちょうど三階へ到達。すぐに四階への階段を上り始めた。

「ふむ……。では空亜先輩、通ちゃんのためなら死ねますか?」

「言わんとしていることはわかる。死ぬことができるのならば、この程度の恐怖には耐えられると言いたいのだろう? もちろん通のために死ぬことなどわけないが、しかし、死を最上級に捉える風潮は好きじゃないね」

「通ちゃんは最上級でしょう?」

「最上だよ。級なんて生ぬるい」

「なら何も問題ないですよね」

「理論上はね」

 肩をすまして、一段一段確かめるように踏みしめる。

 それから二人は気を紛らすように、会話を交わしながら登り続けた。そしてついに、四階へたどり着いた。

「さて、ここからが本番、か」

 こめかみに流れる汗。気づかないふりをして、志摩は五階へと続く階段に足を踏み出した。

 一歩。一歩。ゆっくりと、逸る気持ちと逃げ帰りたい感情が混ざり、足の進みを遅くする。

 三段。四段。一つ上るごとに、確かに感じる地上からの距離。

 高さを意識してはいけない。とっさに自身を戒めるその言葉は、かえって意識を強める。足がしびれ、棒きれのようになる感覚。

 霧が必要だ。自分の足の下を全て隠すような、そんな霧が。

「空亜先輩、大丈夫ですか?」

 後ろをふりかえって尋ねる。意識をそらしたい。その一心だった。

 それが失敗だった。

 空亜の奥――下が見える。

 その瞬間、志摩の肉体は大地を忘れた。

 身体が虚空に浮き、落ちる感覚。

 体温が一瞬で奪われる。身体の奥底から這い上がってくるソレに、叫び声すら出ない。

 ぐらりと身体が揺れる。

「四季志摩君、大丈夫かい? 顔色が悪いけれど」

 心配そうに見上げる空亜の声。彼女の顔色も優れないことに、自身は気付いていない。

 その声に少しだけ正気を取り戻した。志摩は手すりを力いっぱい握りしめて、震える足でこらえる。

「大丈夫ですよ。この程度の階段でへばるようなへっぽこじゃないです。まぁ空亜先輩みたいなお年寄りにはちょっと辛いかもしれないですけどね。求心ありますよ?」

 ぎこちなく笑って、軽口で返す。

 空亜は少しだけ嬉しそうに笑むと、口元に手をやって、あくどく目を光らせた。

「ふむ。たしかに私ももう年だからな。では肉体の疲労から気を紛らすため、君の背中へチクチクと嫌がらせでもしようか」

「申し訳ありませんでした!」

 反射的に、その場で土下座をする。階段であるため非常に苦しい体勢であるが、そんなことに構っている場合ではない。

「ふむ、そろそろ君の土下座にも飽きてきたねえ。それにこうも連発されると土下座という行為自体ずいぶん軽くなってしまうし、そろそろ新しい謝罪の仕方をしてほしいものだね」

 生き生きと目を輝かせながら、ぎゅむっと志摩の頭を踏みつける。

「やませ。空亜先輩。土下座ついでにお願いがあります」

「大体予想がつく上に、君は私の話を聞く気が全くないようだね」

「まあまあそう言わないで、お代官様。その長いスカートをぺろっとめくるだけですから。それにめくる作業は俺がやるんで、手間は取らせませんよ」

 階段にキスをしたまま「へっへっへ」と手揉みする。

「つーか真面目な話、空亜先輩のパンツを見られればそのパワーであと三階分くらいは上がれると思うんですよ」

「ならば七階まで行ってからもう一度提案したまえ。いいからはやく起きなさい。悠長にしている時間はない。十分に気も紛れただろう?」

 空亜はそう言って足を離し、志摩の隣に立って手を差し伸べる。

「そうですね。先を急ぎましょう」

 空亜の手を取って、よっこいせと立ちあがる。

「それと、作戦というほどではないですけれど、これから階段を上って行くうえでのルールを決めましょう」

「あるのかい?」

「一応」

 高所恐怖症の人の最大の敵は、高さそのものではない。高いところから落ちる時の、浮き上がる感覚である。

 そしてその感覚は、経験をもとに脳が勝手に再現してしまうのだ。

 そこで、志摩は脳の再現を封じる手段を提案した。

 下を見ると高さを意識してしまうため、これからは絶対に横に並んで歩くこと。手すりが取れた場合、床が抜けた場合に備えて、『手すりをしっかり握りつつ体重はかけない』状態で上り続けること。『意識してはいけない』と考えると泥沼にはまるため、これから先は必ず雑談を絶やさないようにすること。高さを意識してしまう罠はどこにでも潜んでいるため、お互いにお互いの顔を凝視し続けること。

 空亜の目をまっすぐに見つめながら、一つ一つ案を述べる。

「ふむ。しかし、意識しないように自然な雑談を心がけるのにずっとお互いの顔を見つめ続けるのは不自然なんじゃないかい?」

「いえ。たしかにそうとも言えますが、こういうことは徹底的にやらないとだめです。俺たちは高所恐怖症の中でもかなり重症な方ですから、完璧にやり続けなければすぐに穴が開きます。そして小さな穴は、壁の強度を大きく下げます」

「そ、そうか」

 真面目に語る志摩に、空亜は少しだけ頬を朱に染めて視線を外した。

「だから目をそらしちゃだめですって」

 志摩は呆れたように言うと、空亜の顔をむんずと掴んで向き直らせる。

 しかし空亜は、なされるがままになりながらも、赤面して目をきょろきょろと外す。

 はっはーん。そこでようやく、志摩にもピンと来た。

 ニヤニヤといやらしく笑いながら、空亜の頬を指でつっつく。

「ひょっとして空亜先輩、照れてますね?」

 志摩の指摘に、空亜はさらに顔を赤くする。

「この間は欧米的だのなんだのって恥ずかしいこと言い放題だった癖に、案外ウブあだだだだだ折れる外れる飛んでく!」

 プププと口元を抑えて笑う志摩のつんつんする指を、空亜は思いっきり握りしめた。ギブギブとタップする志摩の苦悶の顔に、空亜は満面の笑みを向ける。

「よし、手もつないだことだし、いい加減行こうか。まだまだ先は長いし、通も助けを求めている」

「手を繋いだっつーか指を掴まれた構図ですけど! 俺の助けの求めにも応じてもらえませんかねえ!」

 脂汗をにじませて必死に訴える。しかしそんな彼の苦痛にゆがむ表情は、空亜の嗜虐心をより刺激するのみであった。

 結果的に、志摩の意図しない形で二人はビルの高さから意識を外すことに成功したのだった。



 しかしそれも、長くは続かない。

 八階までたどり着くと、ふう、と息をついて、どちらからともなく腰を下ろした。

 ここは、二人にとって未知の世界である。

「空亜先輩、俺そろそろ心臓がヤバイです」

「ドキドキしちゃう?」

「指の感覚がなくなってきて、ぽろっと取れてしまわないかドキドキです」

 ニッコリと笑いかける空亜に、志摩は軽口と、ぎこちない笑みを返す。手を繋ぎ、お互いの顔を見つめ合うその状況は、傍から見ればそう言うことなのかと勘違いしそうになるが、実際は全くそんなことなかった。会話の内容はロマンチシズムのカケラもないものであるし、それすら作り物であることがわかるほどに、二人の顔色は青白い。

 どれだけ嗜虐の陶酔に浸っても、指の痛みに苦しんでいても、それは無力だ。高さという圧倒的な恐怖は静かに、しかし確実に心を侵食してゆく。

 一段昇るごとに積みあがっていったそれは、ついに彼らの身体をも蝕みはじめた。

 志摩は立ちあがろうとして、筋肉に力が入らないことに気が付いた。

 身体が、この先へ行くことを無意識に拒絶をしているのだ。

 少しだけ浮かせた腰が、尻から床へ落ちる。

 その衝撃に床が抜け落ちるのではないかと、二人は無用な心配にビクンと身体を震わせた。

 もちろん、ビルはただそこにあるだけ。何も起こらない。彼らは同時に、ほっと息をついた。

 彼らがいるのはヒビが至る所に入った廃ビルとはいえ、取り壊しになっていない時点で崩れ落ちないことなど明白である。ましてや尻餅をつく程度で崩れるのであれば、最初から自壊している。

 しかし、高所恐怖症の人にとって、高いところはあらゆる妄想を掻き立てる魔窟である。

 ジェットコースターや観覧車は言わずもがな。ビルやマンションにいるだけで、彼らの妄想は次々と掻き立てられる。

 ビルが突然崩れたら。あまり衝撃を与えたら本当に崩れるのでは。壁がぼろっと落ちたら。地震が起きて飛ばされたら。強風が吹いたら。窓枠にいるところで、誰かに突き飛ばされたら。錯乱して自分から窓枠を乗り越えたら。それはそれで、意外と平気なんじゃないか。いや平気なわけがないだろう。

 瞬間、全身を駆け抜ける、落下時の浮遊感。ぞわっと、身体の内側の水分が吸い出される。身体中の筋肉が硬直し、反対に足はしびれて力が入らない。尻の穴がきゅっと閉まる。気味の悪い虫が一斉に向かってくるような、そんな怖気が自分を支配する。

 嫌だ嫌だと言う心とは別の何かが、勝手に想像を掻き立てる。

 ざああ、という耳鳴りと、黒く塗りつぶされる視界。

 このままでは、落ちる。

 その強い危機感に、志摩は無意識にポケットからパンツを取り出した。

 そして、それに顔をうずめる。

 深呼吸。顔に触れるパンツの感触と、肺一杯に吸い込むパンツのにおい。

「……ふぅ」

 少しだけ、脳が冷えた。

「空亜先輩はどうです? 行けますか?」

 隣で、焦点の定まらない瞳を虚空に投げ出している空亜。志摩は彼女を現実に引き戻そうと、駄目もとで問いかけてみた。

「私は……」

 空亜の力ない、濁った言葉。それが何よりの答えであることを、志摩はすぐに察した。

 休憩を挟まないで一気に上りきるべきだったか。そんな後悔に苛まれる。先までは無理にでも笑顔を作り、茶化すだけの力があった。それがたとえ薬物的な、一時的な錯乱の産物であったとしても。

 今の空亜は、自身の精神を守るためにただ放心している。

 そして自分も、さしたる差はない。

 どうしたものか。

 顎に手をやり、じっと考えこむ。

 志摩たちの目標は、ただ十階にたどり着くだけではない。十階へ行き、通を救わなければならないのだ。選択肢としては、三つ。通だけをかっさらっていくか、男たちを倒すか、説得するか。

 現実的にみて、説得するのは難しいだろう。志摩にはどうしても彼らに言いたいことがあるが、それが彼らを改心させられるかと言えば微妙なところである。かえって刺激させることにもなりかねない。

 また、通だけをかっさらっていくのも難しい話である。彼らの通の扱いがわからないが、少なくとも通のみを放置していることはないと断言できる。となると、彼らとの接触、戦闘はまず避けられないと言えるだろう。

 詩哉達には大きく見栄を張ってきたが、実際は志摩も空亜も瀕死状態だ。

 いくら喧嘩慣れをしているとはいえ、もしも今彼らのうちの一人がこの場に降りてきたら、勝てる見込みは限りなく薄い。もしかしたら敵を見れば空亜は全てを忘れて殺害することに全力を注げるようになるかもしれないが、それも確実ではない。今のうちに発奮させておく必要があるだろう。

 では、彼女を発奮させるには何が有効か。真っ先に思いあたるのは、通である。通の声が聞こえれば、姿が見られれば、空亜は間違いなく平常運転に戻るだろう。

 しかし、最初、上る前にビルの下から空亜は大きな声を出したが、通の声は返って来なかった。

 ただ単に通の声が小さくて聞こえなかったという可能性もあるが、空亜ほどの能力、通愛をもってして聞こえなかったのである。より悪い方向に考えてしかるべきだろう。

 すなわち、通が声を出せない状況に置かれているか、あるいはそもそもこのビルにはいないか。

 後者に関しては、そもそも彼らは「ここに通がいる」とは一言も言っていない。しかし、風紀警察や信者ーズ達からの連絡もない。どちらとも確定できない状況であり、いずれにせよ、今考慮するべき事柄ではないだろう。

 となると、とりあえず『通は上にいるから、自分たちの手で救わなければならない』という前提で話を考えるべきだ。

 つまり、『通を救うためには自分と空亜をまともに動ける状況にしなければならない。しかし空亜の最大の発奮材料であり、今の志摩にとってのそれでもある通の声は期待できない』というのが、現在の志摩たちの状況なのだ。

 ここまで整理して、志摩は再び壁にぶち当たった。

 通以外の、空亜を動かす材料を探さなければならない。

 そして、ただ動かすだけでなく、動いた空亜を通を救う方向に持っていかなければならない。

 ……。

 いや、志摩には既に、その答えがわかっていた。

 ただし、成功確率が極めて低い。

 そして失敗すれば、おそらく通を救うことは不可能となるだろう。

「……」

 項垂れる。

 その低い可能性にかけるべきなのか、別のもっと確実な手段を模索するべきなのか。

 志摩は掌を開き、じっと見つめた。

 可能性が一%でもあれば挑戦するべきなのは物語の主人公であって、自分ではない。

 低い確率に賭けるのはただの博打であり、勇敢ではなく無謀と言うのだ。

 とはいえ、物語の主人公同様、今の志摩に悠長にしている時間はない。時間をかければかけるほど、通の辛い思いは増大してゆくのだ。

 通を助けるためには早急に手を打たなければならない。しかし、はたして通を救うために博打を打って良いものなのか。もう少し考えれば代案が出てくるのではないか。いやしかし出てこなかったとしたら、無駄に時間を浪費するだけだ。

 思考が頭の中でぐるぐるにからまる。

 と、そうして頭を抱えそうになったところで、視界の端に、空亜の顔が映った。

 未だ魂の抜けた、空亜の呆けた表情。そこに、通を見た。幼い、満面の笑顔。そして、脳裏に通との思い出が次々とよみがえり始めた。

 パンツマンから逃げ惑うときの悲鳴。

 遊園地での歓声。

『お兄ちゃん大好き』の声。

 そして――公園で見た純白のパンツ。

 ガッ。

 コンクリートの床に、思いっきりおでこをぶつけた。力いっぱいの土下座。

 遊園地以来の懐かしい痛みが、志摩の心を起こした。

「俺は、パンツマン。主人公だ」

 もう迷わない。拳を握りしめ、力強く立ち上がる。足は未だ震えているが、そんなことはもうどうでもよかった。

「待ってろ。パンツマンのお兄ちゃんが、絶対に助けてあげるからな」

 小さく呟き、その場を離れた。

 主人公は、死んでも一%をもぎ取る。強い決意とともに、志摩は作戦の準備を始めた。



「空亜先輩」

「……」

 防衛本能が、通を助けるという命題を覆い隠してしまったのだろうか。

 志摩が準備をしている間も、空亜はずっと心ここに非ずといった様子で膝を抱えていた。

 それは今も変わらず、準備を終えた志摩が横から名前を呼んでも、空亜は反応を示さない。ただそこに在るだけ。

 あるいは、心が壊れてしまったのだろうか。

 ピクリとも動かない彼女の様子に、志摩は顔をしかめる。

 作戦の第一段階として、まず彼女に刺激を与え、脳を揺り動かさなければならない。

 少しずつ彼女に近づきつつ、視界に入るようじりじりとその立ち位置を変化させる。

 ――自分のこの姿を知覚さえすれば、空亜は間違いなく目を覚ます。そして全てを忘れて自分を追うだろう。

 ほくそ笑む志摩のこめかみを、汗がつたう。

 少しずつ近づく足と、大きく近づこうとはやる心。ぐちゃぐちゃになりそうな内側を、深呼吸してすべて吐き出した。

 バクバクと激しく打ち鳴らされる心臓の音に、鼓膜が大きく振動する。血液が全身を流れる感触がする。

 一歩。一歩。

 近づく。光の消えた空亜の瞳に、自分の姿を映すために。

 一歩。

 彼女の斜め前に立ち、未だ反応を見せない彼女に焦れる。

 まだか。まだ見えないか。見ようとしていないのか。

 ――それはそうだ。彼女はあまりの恐怖に、現実から目をそらしているのだから。

「おい! 風紀警察長官、藤空亜!!」

 そのことに気付いた瞬間、志摩は彼女の名前を呼び、全速力で上へ続く階段に向かって走り出した。

「失望したぞ!!」

 喉が痛くなるほどに声を張り上げる。

 どんな言葉を口にしたら彼女の心を起こすことができるのか。今の志摩に、そんなことはわからなかった。

 ただ、自然と心の底から湧き上がってくる声を、言葉にする。

「お前のやり方は絶対に認めないが、その誇り高い信念を俺は尊敬していた!! 信念を実現する実力は俺の憧れだった!!」

 階段を前にして振り向き、叫ぶ。自分の心を、空亜の心に届くように。

「俺が追い求めてやまないものを、お前はすでに持っていた! 自分を信じきる強靭な心も、目標を達成するための闘う力も、その圧倒的なカリスマ性も! 憧れだけじゃないさ! 嫉妬もした! だが、それでもアンタに惹かれてやまなかった!!」

 なぜか涙が出そうになる。嗚咽が混ざり、喉が締まる。

 それでも、志摩は絞り出すように、大きな声を響かせた。

「俺は!! アンタみたいになりたかったんだ!!」

 脳が酸欠を訴える。しかし志摩は、次々に浮かんでくる言葉を止める術を持たなかった。それは、彼女に言わなければならないことだから。

 遠目には彼女がどういう状態であるか分からない。先から微動だにしていないが、きっと届いているはずだ。

 そう信じて、志摩は再び走り出した。階段にたどり着いたところで振り向きざま叫ぶ。

「俺はこれから、全世界規模で風紀を乱す!! 止めたければせいぜい追いついてみやがれ!!」

 そして足をかけ、一気に駆け上がる。

 はずだった。

 そこで、志摩の喉奥を無数の虫が駆け上がってきた。

 錯覚。

 脳みそを無数のゴキブリが駆け回り、内臓を百萬のムカデが這い、足が億兆の蛆虫に食いつくされてぼろりと崩れ落ちる。

 そんな怖気が、一瞬で志摩の全身を襲った。

 ギギギ。脂汗によってサビてしまったのか、ぎこちない動きで首を後ろへひねる。

 ふらふらと、壊れた人形のように。空亜が顔を伏せて立っていた。

 長くしなだれた黒髪の間から顔が覗き、呪い殺しそうな無邪気な笑顔が垣間見えた。

 ひぃっと顔を青白くする志摩とは対照的に、空亜はあくまで静かに尋ねる。

「四季志摩君。問おう。いくら廃ビルとはいえ、公共の場で全裸になって何をしようと言うんだい?」

 全裸。

 そう。志摩は今全裸になっていた。

 局部まですべて晒した姿で、立っていた。

「ああ」

 死んだか。一瞬にして悟った数秒後の自分の姿に、思わず納得してしまった。

 そして即座に首を振って、その未来を否定する。

 ここで死ぬわけにはいかない。

 志摩はぎこちなく口端を釣り上げ、挑発するように笑って見せた。

「パンツを穿いていてはインパクトが足りないですからね。世界中の風紀を乱すためには、これくらいしないと。屋上まで行って全世界に配信してやりま――」

 瞬間。轟音とともに空亜の姿を見失った。

 同時に、志摩は階段を駆け上がる。

 さあ、ここからが本番だ。

 志摩は全身を粟立たせ、震える足を懸命に動かす。

 空亜に追いつかせてはいけない。追いつかれれば倒され、粛清され、そこで彼女は力尽きる。

 なんとしてでも十階まで耐えなければならないのだ。

 っていうか、単純に空亜が怖いから逃げたい。追いつかれたら、粛清されたら、今度こそ死ぬ。多分散々拷問された後ビルから突き落とされる。

 バクバクとうるさい心臓。早くも痛くなる横っ腹を拳で殴りつける。歯を食いしばって重くなる足を必死に動かし、昇る。

 先まであんなに怖かった高所が、般若と化した空亜と比べたら可愛いものに思えた。

「四季志摩ああああああああああああ粛清だあああああああああああああ!!」

「嫌あああああああああああ助けてえええええええええ!!」

 空亜の呪詛の叫び声に、志摩は涙と鼻水がぼたぼたと零れ落ちることも気にしないで悲鳴を上げた。

 九階。ここまで追いつかれなかったということは、やはり彼女も本調子ではないのだろう。ギリギリ希望が見えてきたことに、志摩の頬が少しだけ緩む。

 とはいえ、振り返っている余裕はない。いくら本調子でなくとも、もともとの空亜の身体能力は志摩を遥かに凌駕しているのだ。それに、本調子じゃないのは志摩も同じこと。下着姿ですらないため、興奮によるパワーアップもない。

 空亜により強い衝撃を与える為とはいえ、全裸という選択はミスだったか。いや、仕方なかった。事実、パンツ一丁程度だったら起きそうにないほど彼女の目は暗かった。

 間違っていなかった。志摩は自分に言い聞かせ、手すりを最大限利用しながら、最短距離を駆けあがった。

 一段飛ばしに駆ける。半分ほど登ったところで、背中に彼女の爪がかする感触。

「チッ。ハア、ハア」

 空亜の、荒い呼吸。思わず振り返ると、振り乱した長い黒髪の中から、ギラギラと光る眼光が見えた。すでに一種のホラーだ。

 クソ。このままではたどり着く前に捕まる。

 あと少しなのに。ここまで来たのに。ふざけるな。

 このまま、通を助けられずに力尽きるのか。

 そんなのは、絶対に許さない。

 志摩は鉛のように重くなった太ももを必死に引き上げ、強く階段に叩きつけた。

 捕まるくらいなら、ぶっ壊れてしまえ。

 空亜が一瞬、ビクンと動きを止める。

 風紀警察長官になり切っても高所恐怖症が抜けないとは、やはり本調子ではないようだ。志摩はニヤリとほくそ笑むと、その隙に最後の力を振り絞って駆け抜けた。

 ついに、倒れ込むように十階へ到達した。

 酷使しすぎた筋肉は呼吸をすることすら拒絶する。苦しみに喘ぎながら、暗くなり始めた視界を巡らせる。

 全てうまく行った。残った賭けは、ここだけだ。

 さあどうか、いてくれ。

 祈るように見る。

 そして志摩は、一%を掴みとったことと、自身の血が沸騰するという感覚を理解した。

 ――仮面をつけ、全裸で立ち尽くす男四人。その真ん中で、身体を小さく椅子に座り、静かに泣きじゃくる通。

 反射的に怒鳴り散らそうとせりあがってくる言葉を、かろうじて飲みこむ。

 先までもう二度と動かないのではないかと思えた身体が、動きだす。

 あらゆる感情を飲みこんで、志摩は手早くパンツを股間と頭に装着した。

 重い身体。力の入らない筋肉でそれを支え、震える足でその場に立った。

 そのあまりに情けない自分の姿が、なぜか笑えた。

 ポーズをとり、通の涙を吹き飛ばすよう、叫ぶ。

「正義のヒーロー、パンツマン参上!! 通ちゃん、助けにきたよ!!」

 瞬間、一斉に男たちと通が志摩を見た。


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