第三話 救う変態 その3
休日。駅前。午前九時。
「うーむ……見せパン具合よし。パンポジは少しずれているかな……よし、これで完璧だ」
志摩はホームの外。マジックミラーを前に、頭に被るパンツのポジションを確認していた。丁寧に整え、満足げに一つうなずく。
彼はビシッと両腕を広げ、身体をひねり、派手にポーズをとった。今日も格好よく決まっていることに満足げな笑みを浮かべる。なお、周囲とマジックミラーの向こうから奇異の視線を向けられていることには、一切気づく様子がない。
「パンツマンのお兄ちゃーん!」
「しっ、見ちゃいけません!」
と、後ろから、聞き覚えのある元気な声が届いた。
やはり第一印象が大切だよな、という信念に基づき、ポーズ新たにキラッという擬態語が似合う爽やかな笑顔で振り返る。
駆け寄ってこようとする通と、そんな彼女の目をふさぎながら近づけないように引き留める空亜がいた。
「空亜先輩、おはようございます! 爽やかな朝ですね!」
「せっかくの爽やかな朝を台無しにしてるのはどこの誰だ!! そのポーズやめなさい気持ち悪い!」
元気なあいさつをしたら、怒声が返ってきた。
「HAHAHA冗談きついですね! イケているでしょう! このパンツ! そしてこのポーズ!」
「頭がイッちゃっているの間違いだろう! いいから今すぐやめないとペナルティするぞ!」
通の目をふさぎながら怒る空亜。志摩は「えー」と不満げな声を出しつつも、ペナルティされるのは勘弁してほしいということで、素直にポーズをといた。
ちなみに志摩はあれからすでに四ペナルティをこなしており、すでに一ギルティ=一ペナルティの域に到達しているのである。
通常のポーズになったところでようやく、通の目が封印から解き放たれた。
「パンツマンのお兄ちゃん!」
元気に駆け寄り、志摩の胸へダイブする。
「そら! パンツマンだぞおおおおお!」
「きゃあああああ」
勢いのまま両手をがっくんがっくん上下させ、くるくるその場で回りだすと、通は明るい歓声を上げる。
そんな二人を、空亜は腕を組んで、柔らかいまなざしで見つめる。
「通は本当に四季志摩君が好きだねぇ」
「好きー!」
無邪気に好意を示す彼女に、志摩はどっきゅーんと心打たれる。通の満面の笑顔を正面に、志摩はわっしょいと胴上げの要領で上へ投げ、抱きとめる。
「うおおおおお通ちゃああああん俺も好きだぞおおおおおお!」
胸板に力いっぱい抱きしめ、髪の毛をわしゃわしゃとする。そのまるで子犬のような扱いに、通は「きゃー!」と黄色い悲鳴を上げた。
「……いや、仲が良いのはとても嬉しいことだけれど、とりあえず二人とも落ち着きなよ」
朝からテンションマックスの二人に、空亜は呆れたような苦笑を浮かべる。しかし彼女の言葉は二人の耳に届く前に霧散して、風に乗って飛んで行った。
南知多ビーチランドなう。
「って、今日は休日パトロールだったんじゃないんですか?」
電車に揺られて二十分ほど。三人は遊園地の前に立っていた。
風紀警察の活動の一環として休日パトロールを行う、ということで呼ばれていたのだが、現在地は遊園地という、パトロールという言葉の響きとは繋がりそうにない場所。無垢に笑いながら駆け回る通を眺めつつ尋ねると、空亜は腕を組んで「うむ、当初はその予定だったのだけれどな」とそれを肯定した。
「今日君とパトロールすることをたまたま通が知ってしまって、一緒に行きたいと言うものでな。まあ遊園地の中をパトロールしてはいけないという決まりもないし、こういうのもいいかと思ったのだよ」
「思ったのだよって……この人、心のないアンドロイドだろうと思ってたけど、通ちゃんにだけはデレデレなんだな。無駄な人間味設定つけやがって、どんだけ高性能なんだよ」
「ギルティ!」
「しょんげ!」
空亜のチョップが炸裂。志摩は相変わらずよくわからない声とともに、思わず膝を折り曲げた。しゅううと煙立つ頭をさすり、痛みに耐える。
「まったく、君の口の悪さは全く改善される見込みがないようだね」
「正直者って言ってくださいよ……」
涙目で立ち上がり、抗議する。
「口に出すことばかりが正直ではないことを知りなさい。それはそうと、今回は特別に遊園地に来たけれど、そもそも本来、休日パトロールとはそれほど重いものではないんだよ」
未だ眉尻に涙をためる志摩に、空亜は淡々と言葉を紡ぐ。
「通常の休日パトロールはどんな感じなんですか?」
「一言で言うと、休日パトロールは『遊ぶついでにパトロールをする』んだ。この間の放課後パトロールではクレープを買い食いしただろう? あれをグレードアップさせた感じだと思ってくれればよい」
予想をはるかに超えた遊び色の強いパトロールに、志摩は思わず目を丸くした。
「私は風紀を守ることが生きがいではあるが、風紀を守ること以外をしないわけではないからね。これでも女子高生だから、人並みにそういったことへの興味はあるんだよ」
照れた風もなく、悠然と腕を組んで告白をする。
「なんというか、意外ですね。空亜先輩って基本的に世紀末のラオウ的ポジションだと思っていたんですが」
「ふむ……ところで君、私、この間素晴らしい拷問を思いついたのだけれど、ちょっと試してみてもいいかな? 具体的には、まずこのピーラーで君の全身の皮を剥いてだね――」
「大変申し訳ありませんでした!!!」
無垢でありながら邪気たっぷりの幼い笑顔でピーラーを構える空亜に、志摩は考えるより先にスライディング土下座をした。アスファルトに膝がこすれてものすごく痛かったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
「大丈夫だって。少しスースーするだけだから。まだそんなに痛くないよ。それで全身の皮を剥いたらだね、次に――」
「本っっっっっっっっっっっっっっっっっっ当に申し訳ありませんでした!!!」
周囲から『ママー、あの人どげざしてるー』『そういう選択もあるのよ』という家族連れの楽しげな声が聞こえてくる中、志摩は全身をマッサージ機のように震えさせて土下座する。
そんな異様な空気の中、空亜は気にすることなく彼の頭を踏みつけた。
「あべしっ。ちょっと空亜先輩、俺のファーストキスがアスファルトになっちゃったじゃないですか。責任とって遊園地の中ではブラジャーを頭に被ってください。ほら、某ネズミーランドで売っている某ネズミの耳を模したカチューシャっぽい形してるじゃないですか。先輩おっぱい大きいですから、結構立派な耳になりますよ」
「すっかり忘れていたよ。君はパンツマンだけれど、その実パンツを含め下着全般が好きなのだという設定」
「設定って言うな。この時期はパンツが一番見やすいってだけですよ。もっと暑くなれば透けブラやブラチラが……ぐへへへへ」
「……本当に気持ち悪いね」
頭を踏みつけられたまま気色悪い笑い声を上げる志摩に、空亜はブルッと身を震わした。両腕で自身の身体を抱きしめ、やや血の気の引いた顔で見下ろす。
「先輩はおっぱい大きいですから、制服の前ボタンがはじけ飛んでブラがあらわになるイベント期待していいですよね」
「その前に君の命をはじけ飛ばすぞ」
ゴリッと再び志摩の顔をアスファルトにめり込ませる。
「うへへへ地面あったけー。これが大地のぬくもりってやつかー」
ゴリゴリという骨の叫ぶ悲鳴とともに、うつろな声でつぶやく。
心が壊れてしまったのだろうか。空亜の胸の中に少しだけそんな心配がよぎったところで、通が「おねーちゃーん、パンツマーン、そろそろ入ろうよー!」と元気な声とともに駆け寄ってきた。
「ああ、そうしようか、通」
先まで志摩に向けていた冷徹な瞳を穏やかに、ニッコリと柔らかく微笑んで足を頭から離す。
そして通と手を繋ぐと、志摩を置いて歩き出した。
「はー、散々な目に遭った」
「そんな君に自業自得という言葉を贈ろう」
園内。通を真ん中に、手をつないで三人は歩いていた。
あれから空亜の荒療治によってすぐさま意識を取り戻された志摩は、彼女と通に連れられて入園ゲートを通った。
ちょうど親子連れは安くなるキャンペーン中だったのだが、『いえ、決して全くこれっぽっちも親子などではありません』という二人の迫真顔により、三人は本来の価格で入園することとなった。
志摩は少しだけ空洞の多い財布に悲しみを覚えつつ、決して自分が間違った選択をしなかったことを誇った。
空亜と夫婦であると思われるくらいならば、財布を空にした方がマシ。
「ふむ。ところで今更だけれど、四季志摩君。君、意外とおしゃれなんだね。パンツが見えるほどずり下がったズボンは少しだらしないけれど。あまりおしゃれに気を使うタイプだと思っていなかったから、正直驚いたよ」
早くも疲れ切って項垂れる志摩の全身を眺めつつ、感心した風にうんうんとうなずく。
そんな彼女の言葉を受け、志摩は当然、褒められたら褒め返さねばと彼女を観察し出す。
「……そういう空亜先輩も、なかなかオシャンティな姿じゃないですか。特にその短くてフリフリの可愛らしいスカートとか、素晴らしいと思いますよ。あ、階段とかエスカレーターとか上る時、空亜先輩お先にどうぞ。ほら、バランス崩して落ちたりしたら危ないんで、その時は俺が盾になりますよ」
営業スマイルで彼女の服装を褒め、さらに男らしさのアピールも忘れない。志摩は自分の手際の良さに、我がことながら思わず感心してしまった。
一方、褒められた空亜は嬉しそうにニッコリと微笑むと、「ありがとう」と素直に例を述べた。
「それで、本音は?」
「パンツが見えそうで素晴らしいと思います」
「……」
「……」
「ギルティ☆」
「ぱぴこ!」
しゅー。
痛みにしゃがみこみ、頭をさする。人間の身体はあまりにも痛いとかゆみに代わるのだが、空亜の力加減は絶妙に痛みのみを感じるものだった。志摩は身体の痛みに加え、慈悲のなき粛清に心を痛めていた。
と、志摩が独り痛みに苦しんでいると、通の手が頭に伸びてきた。そしてよしよしと、煙の出ている部分をさする。
いつぶりだろうか、まっすぐに向けられる優しさは。最近空亜から一方的に殴られるだけの毎日だったこともあり、すさんでいた心をぐっと掴まれる。
「通ちゃんいい子! バンザイ!」
ぶわっと流れそうになる涙をごまかすように、志摩は力いっぱい通を抱きしめた。
「ばんじゃーい!」
抱きしめられきゃっきゃと笑う通に、志摩は再び心を掴まれた。
ああ、この子は天使か。下着とかもうどうでもいいから娘にしたい。そしてこの子のパンツとか数年後つけるであろうスポブラを洗濯してあげたい。
「それに引き替え、なんだあの『ククク奴がやられたか』『だが奴は我ら四天王の中でも最強』『あまりに強すぎて気まずかったからいなくなってせいせいした』的なポジションに立ってそうな悪魔は」
「怒ればいいのか君のセンスの無さに絶望すればいいのか、どちらなのだろうね」
「やめて! そんな目で見ないで!!」
慣れない哀れみの目に、志摩は顔を通の胸にうずめた。
「あー! あれ乗りたい!」
と、そんなやりとりをする二人の間で、通はマイペースに無邪気な声を上げ、あさっての方向を指さした。
その指の先へ顔を向けた二人の目に映ったのは、「きゃあああああ」と悲鳴を上げて爆走するマシン。ジェットコースター。
「あー……」
志摩の口から、声帯によって震える空気が漏れる。
「あの、何のためにこの世に存在しているのか全くわからない存在か。そもそも俺たちは立派な足を二本も持ってんだから、わざわざ宙へ向かって登り、落ちる必要はないんだよな。神様だってお怒りだぞ。『ワシはお前たちに大地をしっかりと踏みしめてもらいたくて、わざわざ足を作ってやったんだぞ』って。全く、近頃の人間の神様冒涜っぷりは目に余る。昔は百メートルそこらの塔を建てるだけで神様に近づきすぎたと言われていたのに、六三四メートルとかいう中途半端な数字の塔をちょちょいんと立てていやがる。そんなに高いところが好きだったら山登れ山。んで落下して死んで来い。とにかく、俺はふわふわと宙に揺られるような人間にはなりたくないんだ。一歩一歩自分の存在を踏みしめる生き方をしたいんだ。つまり高いとこ爆発しろ」
「四季志摩君。ぜひ乗ろうじゃないか」
キラキラとかつてないほどの輝きを放つ、満面の笑顔。
「人の話を――」
「ああ楽しみだね!」
空亜は笑顔のまま志摩の口元を鷲掴みにし、声をかぶせる。
そのあまりの横暴に、さすがの志摩もプツンと来た。
ドSであることは、いじめ方に分別がないことの言い訳にはならない。
今回の自分は、ただ高所恐怖症であるがゆえに絶対に乗りたくないだけなのだ。そこに他意はなく、非もない。
非のない人間をいじめるのは、ドSではなくただのクズだ。
「空亜先輩、いい加減にしてくださ――」
鷲掴みにする手を払いのけ、表情を険しくして口を開いた。
しかしその言葉は、空亜の目配せによって途切れる。
悲しげな表情で自分を見上げる、通。
志摩はそこでようやく、やらかしてしまったことに気付いた。
なんて浅はかだったのだろう。
幼い通の目の前で、彼女の欲したものを百の言葉を使って否定したのだ。
その意味は理解できずとも、思いは伝わる。
「おにいちゃん、じぇっとこーすたー、いや?」
今にも泣きだしそうな、か細い声。とぎれとぎれに紡ぐ言葉が、自分の瞳に涙をしたためだす。
志摩と一緒に遊べることが、本当に嬉しいのだろう。
今日という日を、心の底から楽しみにしていたのだろう。
志摩と空亜と手をつないで歩くことが、何よりも幸せだったのだろう。
だからこそ、志摩に自分の好きを否定されたことが、涙がこぼれそうなほど悲しいのだろう。
……。
ガンッ
土下座。アスファルトの地面に、勢いよくおでこをぶつける。
痛い。ものすごく痛い。
でも、目が覚めた。
顔を上げる。驚きに目を見開き、その拍子にしたためた涙を一滴落とす通。その後ろに、悠然と微笑む空亜。
志摩はじんじんと痛むおでこをさすりながら、通の前にしゃがみ、ニカっと笑った。
「もちろんパンツマンはジェットコースターが大好きだよ! 通ちゃんはジェットコースター好き?」
元気な声で、明るく言う。通の瞳に、光を取り戻すために。通の心へ届くように。
と、数瞬の戸惑い。そして、笑った。
「……うん!」
花が咲いたような笑顔。パァっと一瞬で咲いたそれは、志摩の心を優しく包み込んだ。
「そっかあ、パンツマンも好きだから、一緒だね。仲良し!」
「なかよし!」
よしよしと頭を撫でて言うと、通はえへへと笑い、元気にバンザイした。
「通ちゃんはジェットコースターのどんなところが好き?」
「んー、じぇんぶ!」
「そっかー、じぇんぶかー。そうだね、ジェットコースターはじぇんぶいいよね」
「じぇんぶいい!」
あははと笑いながら立ち上がり、「それじゃあいこっか」とユウーコの右手を握る。
じぇんぶじぇんぶと元気に握り返す通。志摩ははっとその向こうから、通並みの幼い、しかし邪気たっぷりの笑顔を感じた。
「いやあ通、ジェットコースター楽しみだね。通は一番前が好きなんだよねー」
「すきー!」
「うんうん、それじゃあお姉ちゃんが一番前に乗せてあげよう。隣は、今日はパンツマンのお兄ちゃんにしようか」
「やったー!」
「ちょっと空亜先輩」
明らかに私欲の含まれた言葉に、思わず口を挟む。しかし空亜は聞こえなかったのか聞く気がないのか、返事をすることなくがさごそと鞄の中をあさりだした。
「よし、そうときまれば。……風紀警察ナンバーDからMへ業務連絡。今からジェットコースターへ移動するように。適度に並んで、通と四季志摩君が一番前になるように調整をしなさい。オーバー」
「アンタ風紀を守る組織をなんてことに使ってんだよ!」
無線機を取り出して連絡する空亜に、突っ込まずにはいられなかった。しかし空亜は「まあまあ」となだめるように笑うと、通の手を握り直し、歩き出してしまった。
「うへぇ、本当にいるし。俺たちの前にぴったり十人風紀警察員が並んでるし」
ジェットコースターの入り口のところへ到着した志摩は、辟易とした声を上げた。
風紀警察の活動を通じて知り合った風紀警察員たちが、まるで友達と遊びに来たかのように雑談を交わしながら並んでいる。カモフラージュのためであるのはわかったが、彼らが会話しているところすら見たことのない志摩には、かえって異様な光景として映った。
「つーかなんで風紀警察員が十人もこの遊園地にいるんですか」
「遊園地は開放的でありながら人が多く集まる、かなりの危険地帯だからね。通を連れて来るのであれば、十人程度は配備しておくのが当然と言えるだろう」
「遊園地をなんだと思ってんだよ。つーか過保護すぎ。子供は転んで怪我して泣いて育つもんだろ。植物だって寒空にさらしてこそ強く育つんだから」
「私は一生温室栽培する覚悟で育てているぞ」
「駄目な保護者だ!」
彼女のあまりにずれた価値観に、驚愕を隠さないではいられなかった。
ドSに加えて、ドシスコンという属性が発覚した瞬間であった。
「きゃー!」
「ぎゃあああああああああああああ!」
結局ジェットコースターでは、風紀警察の陰謀により志摩と通はきっちり一番前に座ることとなった。通の後ろに空亜を座らせて、マシンは黄色い悲鳴とともに猛烈な速度で滑走した。
処刑台を昇るさなか、ふと後ろから強い視線を感じ振り向くと、空亜がきゃっきゃと楽しげな通を穴が開きそうなほど凝視していたことが最も印象に残った。というか、それ以外の記憶は全て志摩の防衛本能が消し去っていた。あんた通ちゃん好きすぎるだろうその視線マジこええよ、という小さな呟きは、ガコンと下降を始めた車体と悲鳴に置き去りにされていった。
「……つーか、係員の人もやけに手際よく俺を一番前にしていたような気がするんだが。ひょっとして風紀警察の勢力って……」
「さてね、なんのことだか」
青白い顔でじとーっと目を向ける志摩とは対照的に、愉快そうに笑って素知らぬふりを決め込む空亜。
「つぎあれのりたい!」
そんな二人の手を引いて、通はニコニコと次のアトラクションへ駈け出す。
彼女の向かおうとした先に構えるものを見て、青白い志摩の顔からさらに血の気が引く。
高くそびえるそれの名前は知らなかったが、どういうものかはよく知っている。ただ高いところまで昇って、一気に落ちるだけの何が楽しいのかさっぱりわからないアトラクション。
子供のころのトラウマが、走馬灯のように鮮明によみがえった。
「……よーし、それじゃあ競争だ! 先に着いた方が勝ちな! よーいドン!」
「あー、ずるいぞ! ふらいんぐだ!」
ヤケクソである。うおおおおおおおと駆けだす志摩を、通が「はんそくだー!」と怒りながら追いかける。
「へっへーん、悔しかったら追い抜いてみろー! おらあああああああああ!」
「おとなげねー!」
スプリンターとして理想的なフォームで、込み合った園内を疾走する志摩。その瞳の端から、涙がキラキラと光って宙に舞って行った。
と、間もなくアトラクションへ着くというところで、彼の真横に既視感のある何かが張り付いた。
反射的に顔を向けると、満面の笑顔が二つあった。
「へへーん、おねーちゃんの方がはやいもんねーだ!」
空亜の胸にお姫様抱っこされた通の、勝ち誇った笑顔。
「四季志摩君、残念ながら君には、幸せも勝利もくれてはやらん。それではごきげんよう。HAHAHAHAHA」
愉悦に歪んだ笑みでそれだけ言うと、空亜は通をお姫様抱っこしたまま、さらに加速。一瞬で抜き去り、笑い声だけを残してアトラクションへ向かっていってしまった。
「大人気ねえええええええええええ!」
志摩は近くの家族連れのぎょっとした目を一身に受けながら、心の底から突っ込んだ。
通は、とにかく絶叫系が好きだった。もっと言えば、高いところが好きだった。それはもう、前世は飛行機だったのではないかと思うほどに。
昼食を間に挟み、三人はひたすらジェットコースターやその類のアトラクションを回った。
志摩は血の気がどんどん引いてゆくのを実感しつつも、通の無邪気な笑顔を見ると心が満たされることも確かに感じていた。
この子の笑顔を奪ってはいけない。
「あー、イルカさんだー!」
きゃっきゃと嬉しそうに指差す通の姿に、改めて誓った。
ところで、ここ南知多ビーチランドは、海沿いの立地ということもあって、通常の遊園地とは一味違う。その最たるものが、イルカショーの存在である。
三人はまもなく始まるイルカショーを、最前列でクレープを食べながら待っていた。
「始まるまであと十分くらいか。すみません、ちょっとトイレ行ってきます。通ちゃん、これ食べちゃっていいよ」
志摩は腕時計で時間を確認すると、通に半分ほど残ったクレープを手渡した。
いいの? と怪訝そうに見上げる通に、志摩はニッコリと笑いかける。
「くれぐれも隣で小便をする人のパンツを凝視したりしないようにね」
「安心してください。勃つと小便が出づらくなるし、出てもあらぬ方向へ飛んでいくから不便なんですよ」
「……いや、この話題を振った私が悪かった。さっさと行きなさい」
昼過ぎの遊園地で平然と下ネタを口にする志摩に、空亜は頭の痛そうな表情で通の耳をふさぎながら謝った。
きょとんとした目を向ける通に笑顔で手を振って、志摩はトイレへ向かった。
休日で込み合った園内は、トイレも例外ではなかったようだ。女子トイレの前に並ぶ女性たちを横目に、男子トイレへ入る。
手を洗って外へ出ると、心なしか先より騒がしくなっている気がした。
早く戻らないと始まっちまうな。少し早歩きに人ごみを避けて空亜たちの元へ向かう。
と、そこでようやく気付いた。周囲の人々の視線が、自分の目指している方向と一致していることに。そこには嫌悪感の含まれた視線も少なくはない。
「空亜先輩、また何かやらかしてんのか?」
志摩は自分のことを棚に上げて、ため息を吐く。さらに足を速める。
しかし、やらかしているのは空亜ではなかった。
「……命知らずな」
空亜の前でへらへらとしゃべる、いかにもなチャラ男が三人。
いわゆるナンパというやつである。
量産型DQNのその三人は、『ねーいいでしょ?』『俺たちと遊びに行こうよ。おごるからさぁ』と口々に空亜を誘いだそうとしていた。
耳に障る声の数々に志摩は顔をしかめつつ、彼らを哀れんだ。
ああ、彼らもまた、自分と同じ末路を下るのか。
手を合わせ、せめて成仏できることを祈った。
――空亜の行為を、志摩は自己の欲望が第一であると断じている。そこに正義はあるのかもしれないが、一番ではないし、そもそも正義にしてはやり過ぎである。
そういった考えから、普段の志摩であれば彼らを助けることもやぶさかではない。
しかし、今の彼は疲弊しきっており、心も身体も動かない。
「つーかこいつら、男三人で遊園地に来るとか精神力強靭すぎるだろ」
だからこそ空亜をナンパなどというキチガイじみたことができるのか。一人納得する志摩の視線の先で、DQNたちはなおも言いつのる
『ほら、イルカショーみたいな子供っぽいものじゃなくて、もっとアバンギャルドなことしようよ』
空亜の右手を掴み、引っ張る。手を叩き下卑た笑い声を上げる。その合間にボディタッチをする。
そんな彼らを、空亜はキッと睨み付けた。
『……黙れ、今すぐ消えろ。潰すぞ』
ドスの利いた声で、脅しをかける。
後ろの席に座る幼女がビクっと身体を震わせた。
しかし、何故だろう。その声は、志摩の身体には響かなかった。
「(普段より、威圧感が少ない? つーか空亜先輩、こいつらなんてさっさと殴って水槽の中にぶん投げてイルカに食わせりゃいいのに、何してんだ)」
首を傾げつつ、四人を眺める。
『おー、ねーちゃん怖いねぇ。ちょっとちびっちゃったよ』
『でもまたそんなとこも可愛いじゃん』
『……チッ』
威圧感は、DQNたちにも通じていないようである。へらへらと笑って茶化す彼らに、空亜はあからさまな舌打ちをした。
「――ん、四人?」
そこで、ようやく気付く。
『ほら、そっちの妹ちゃんは心配ないからさー。ね、いいでしょ?』
通が、空亜の隣から離れて、男と手をつないで歩いていた。
すでに遠くにいる為よく声は聞こえないが、通は嬉しそうに両手を上げている。
DQNは四人いたのだ。
『お前たち、通をどうする気だ』
威圧感に焦燥を混ぜて尋ねる。しかしDQNは、「やだなー」と手を振ってなだめた。
『別にどうもしないって。俺らねーちゃんと遊びたいから、その間、妹ちゃんは俺らのツレと遊んでてもらうってだけ。あいつああ見えて子供好きだから、心配しなくていいよ』
その言葉通り、たしかに通と手をつないだ男は、扱いがうまかった。見た目はチャラチャラとしているが、その実、言葉選び、対話の仕方、歩き方などをしっかりとわきまえている。
しかし、だからと言って彼らを信じられるはずもないし、そもそもそういう問題でもない。
『いいから、今すぐ通を返せ。そして消えろ』
通が絡んだからだろう。空亜は先より嫌悪感をあからさまにし、立ち上がった。
しかし、やはり彼女から発せられる威圧感はいつもの半分もない。
何故さっさと倒してしまわないのか。歯がゆい思いで見つめながら、志摩は一つの可能性に思い至った。
『ね、いーじゃんちょっと付き合ってよ』
『うわっ、ちょっ』
いきなり手を引かれ、つんのめる空亜。
「(そうか。それなら、俺がするべきは)」
志摩は一つの決心とともに、ずいと一歩踏み出した。
手を引っ張るDQNと抵抗する空亜の間に、大きく呼びかける。
「お待たせ空亜ー。ショー間に合った?」
にこやかに、片手を上げて走り寄る。
「空亜!?」
爽やかな笑顔で自身の名を呼ぶ志摩に、空亜は驚愕の声を上げた。
一方のDQNたちは、途端に白けた表情になる。ああ、ツレがいたのか。それなら最初から言えよ。そんな目つきである。
そんな彼らへ、志摩は表面上にこやかな笑顔を向ける。
「あれ、どちら様でしょうか。うちの嫁に何か御用で?」
「嫁!?」
横でまたも驚愕の声を上げる空亜はとりあえず放置。
志摩はDQNたちをニコニコと、笑ってない瞳で見つめて尋ねた。
「ああ、いえ、なんもないっす」
「俺たちただの通りすがりなんで」
一方のDQNたちは、目を合わせずに気だるげな様子でかわす。
「そうですか。ではさっさとうちの娘を返してどっか行きやがれクソ共」
「娘!?」
いちいち驚愕する空亜。志摩は彼女の頭にぽんと手を乗せ、DQNたちを睨み付けた。
志摩のその姿は、嫁と娘をたぶらかされて怒り狂った父親に見えたのだろう。DQNたちはへーいと面倒くさそうに返事をして、通と手をつなぐ男の元へ一斉に駆けて行ったのだった。
「大丈夫ですか? 空亜先輩」
「……ふむ。四季志摩君。まずは助けてくれてありがとう」
先の驚愕から、平静を取り戻したのだろう。男たちを見送る志摩の背中を、空亜の落ち着いた声が叩く。
振り向くと、やや青白い顔を悠然と微笑ませて、頭を下げる空亜の姿があった。
「しかし、わざわざ夫婦設定にする必要はなかったように思うのだけれどね」
「デートに妹を連れて行くというのも変な話ですから、夫婦設定にした方が自然かと思いまして。つーかあなた、血の気が引くほど嫌でしたか。あんまりツンが過ぎるとツンデレキャラとして認識してもらえなくなりますよ」
「ツンデレは、ツンツンしている姿こそがデレであると私は考えているよ。ツンこそがツンデレの愛情が最もこめられたところだからね」
「つまり粛清中はデレデレであると」
「常にデレデレであるとも言えるね」
椅子に腰かけ、概念を捻じ曲げる空亜。
「しかしデレデレの空亜先輩、正直意外でしたよ」
「何がだい?」
鞄から取り出した綾鷹を一口含み、尋ねる。
「いや、さっき、あのDQNたちを一向に殺そうとしなかったじゃないですか」
「ああ、そのことか」
志摩の言葉に、空亜は観念したという風に苦笑いを浮かべた。
「さすがに察しがいいね。実は私、乗り物が苦手なんだよ」
「……は?」
「えっ?」
空亜の口から出た言葉に、志摩はぽかんと口を開けた。
そんな彼の反応に、空亜も目を丸くする。
「……というのはもちろん冗談で」
「いやいやいや、さすがにその言い訳は通じませんよ」
訂正しようとする空亜を、志摩は手を振って否定する。
「チッ。分かったよ。君は一体、何を言おうとしていたんだい?」
舌打ち。今度こそ観念したという風に顔をしかめ、尋ねる。
そんな彼女に、志摩は思わず苦笑した。
「いえ、これだけ家族連れが多くて、みんなイルカショーをわくわくと待っている空気ですから。それを壊さないようにと、強硬手段に出なかったんだろうなって思ったんですよ」
「しまった、その手があったか……」
悔しげな歯噛み。
「空亜先輩って生真面目そうに見えて、意外と抜けているところありますよね」
初めて垣間見えた人間味に、志摩は少しだけ嬉しくなった。
「空亜先輩はなんだと思ったんですか?」
「いや、ね。さっきも言った通り、私は乗り物酔いしやすい体質なんだ。特に揺れや緩急に弱く、そういったものの激しいジェットコースターなど絶叫系は、もっとも苦手とする乗り物の一つなんだよ」
なるほど。思わず手をポンと打ち、うなずいた。
「それで電車内でもジェットコースターでも、ずっと通ちゃんを凝視していたんですね」
「気づかれていたか。まあ、そういうことだ。電車は緩急がないからそれほど苦手でもないのだけれど。意識を何か別の物へ集中させると、少しは気がまぎれるからね」
「ちなみに酔い止めを飲むという選択肢はなかったんですか?」
「いや、私の身体は強靭すぎてね。薬を投与しても全部抗体が弾いてしまうんだよ」
「……結果的にエイズと同じになってんじゃねーか」
不謹慎と分かりつつも、そう突っ込まざるを得なかった。。
「ところで、なんでそんな重要な情報言わなかったんですか。そんなことだと、今日一日具合悪かったでしょうに」
「そりゃあ、通に心の底から楽しんでもらおうとおもったら、そんなそぶりは見せられないだろう」
空亜の言葉に、志摩は思いなおした。
ああ、そうか。この人は超絶ドSであると同時に、心の底からドシスコンなのだった。
志摩を嬉々としてジェットコースターへ乗らせようとしたのも、通と志摩を必ず一番前にしたのも、つまりはそういうことだったのだ。
「(……そういうことなんだよね? 決して俺をいじめたかったわけじゃないよね?)」
そうであれと志摩が願っていると、空亜は相変わらず血の気の引いた顔で、悠然と微笑んだ。
「それに、言わなかったかい? 人に弱みを見せるな、と」
まもなく戻ってきた通を真ん中に、わーきゃーと三人はイルカショーを楽しんだ。それから水族館コーナーをゆったり回り、恐怖の観覧車で夕日を眺め、その中でついに通が力尽きた。
すやすやと眠りこける通を挟んで、志摩と空亜は帰りの電車に揺られる。
「志摩君、今日はありがとうね」
通の頭を優しく撫でる空亜の、穏やかな声。顔を向けた志摩の目に映った空亜の表情は、まるでわが娘を愛しむような穏やかな微笑みを浮かべていた。
「なんですかその急なデレパート。怖いですよ」
彼女の素直な言葉に、志摩は少しだけ照れ臭くなり、冗談めかして笑った。
「ふふ。私は年中無休でデレパートだよ。通にも、志摩君にもね」
空亜は普段の幼い笑顔ではなく、少し大人びた、顔つき相応の微笑を浮かべて言う。
「まるで愛の告白みたいですね」
「嫁だからねえ」
「その設定はもう勘弁してくださいよ。あ、そろそろ着きますね。通ちゃんどうしましょう」
「起こすのもなんだから、背負って行くよ」
「俺が背負いましょうか?」
「いや、それには及ばないよ。それに、君にさせると通の貞操が心配だからね」
「貞操帯という選択もありますよ。俺的にあれは下着にカウントされるんで、問題ないです」
「そういうところが心配だとなぜ気づかないんだい?」
空亜の困ったような笑み。と、そこで電車がちょうど止まり、扉が開く。空亜はあわてて通を背負い、荷物を持って志摩とともに電車から降りた。
ひんやりと冷たい風を浴びながら、二人で日の落ちたホームを歩く。
「それにしても……君は、とても変な人であるけれど、同時に非常に思慮深く思いやりのある、魅力的な人だったんだね。まあギルティする回数はダントツの一番なんだけれど、それを差し引いても第一印象とは大違いだ」
何気なく、空亜が言葉を紡いだ。
恥ずかしげもなく志摩を称賛する、彼女の裏のない微笑み。
空亜の表すストレートな好意に、志摩は少しだけ頬を熱くして、空亜から視線を外した。
「先輩、言葉がダイレクトすぎて、大和撫子の奥ゆかしさを感じられません」
「ふふ、私は心も身体も欧米的だからね。まどろっこしいのはあまり好きではないんだ」
そっぽを向いて照れ隠しのように口早に言う志摩へ、空亜は挑発的になポーズをとってからかう。
沈黙。
二人の間に一筋、強い風が吹いた。
風にたなびく、長く艶やかな黒髪。通を器用に右手だけで支えながら左手で梳く。
「また、今度。君にとっては辛いかもしれないけれど、一緒に遊んでくれないかな? どうしても遊園地が嫌だったら、もっと別の場所でもいい。君が来てくれれば通も喜ぶし、私も君と一緒にいるのは楽しい」
ニッコリと、幼い笑顔で笑って見せる。
しかしその空亜の視線の先で、志摩の意識は既に他へ向かっていた。じっと前を凝視する。
「おお……」
志摩の口から意識せず声がもれる。彼の瞳に、パンツが飛び込んできたのである。
正確に言うのであれば、急な突風に彼の前を歩く女性の短いスカートがまくれ、ピンクのパンツがその姿を現したのである。
ドクン。志摩の鼓動が大きく跳ねた。心臓の音はどんどんと速くなり、全身を血液が駆け巡る。
今日は、朝こそ通のパンツをTシャツごしに感じるという貴重なイベントをこなしたが、それ以降は通が楽しんでいる手前粛清されるわけにはいかないと、禁欲生活を強いられていた。
普段ならば一日程度でそれが爆発したりはしないのだが、不幸なことに今日は、ずっと精神的にも肉体的にも疲労を強いられていた。
つまるところ志摩の心と身体は、それを欲していた。
「すみませんそこのお姉さん! パンツ見せてください!」
志摩は一瞬で彼女のもとまで駆けると、躊躇せず自分の欲望を口にした。志摩の突然の奇行に驚き、恐怖し、不信感をあらわにする女性。そんな彼女の両手を掴み、懇願するように「お願いします! もう我慢できないんです!」と叫ぶ。
「パンツを! パンツをください! あとブラもくださ――」
欲望を満たさんと女性にずいっと顔を近づける志摩。しかし彼の言葉はそこで途切れた。横から伸びてきた大きな掌に、顔を掴まれたからである。
「……四季志摩君」
空亜の、冷たく、軽蔑に満ちた声。それが耳に届くころには、志摩の鼓動の高鳴りはすっと収まっていた。
「申し訳ございません。こいつには私からよく言い聞かせておきますので。本当に申し訳ありませんでした」
志摩の顔を掴んだまま深々と頭を下げ、謝罪する。女性はコロコロと変わる状況に戸惑いつつ、「あ、いえ、はい。大丈夫です」と手を振った。
それから空亜はもう一度深く頭を下げ、彼女が歩み出したのを確認すると、志摩の顔から手を離した。
「ッ……ご、ごめんなさ――」
「四季志摩君」
顔を俯け、謝罪の言葉を口にしようとする志摩。しかし空亜の低い声がそれを遮った。
「私や友達にやるのは、まだいいよ。でも、今のは完全に超えちゃいけないラインだよね。わかるでしょ?」
はい。喉の奥から絞り出すしかない、肯定。
「君、クビね」
短く、しかし彼女の今の心情を如実に表した言葉。
「か、空亜せ――ッ」
弁論をしようと反射的に顔を上げる。しかし志摩の言葉はそこで途切れた。
空亜の見下すような、悲しむような、なんとも言えない目が志摩に向けられていた。
「……すみませんでした」
志摩は頭を下げ、力なく謝った。しかし空亜はそんな彼に背を向けると、静かに歩き出した。




