高鳴る鼓動
雄介は今、埼玉県に向かっている。真実宛に届いた手紙の差出人らしき者の住所に、この地が記されていたからだ。真実を殺した犯人につながる手がかりは、今のところこれしかない。差出人が犯人ではない可能性もある。しかし、他に犯人を見つけ出す方法が見つからない雄介には、この手紙の差出人の所まで行く事しか選択肢がなかった。この手紙が届いてから、この手紙が送られてきた意図を考えたが、雄介には分かるはずがない。もしかしたら、犯人の罠かもしれない。だが、何のために。もしかしたら、真実は愉快犯によって殺され、この手紙は犯人が書いた雄介への挑戦状なのかもしれない。いずれにせよ、手紙を書いた者に会って確かめるしかない。少なくともその手がかりがこの場所にある。出鱈目な住所が書いてある事も考えられたが、手紙に書かれている住所を検索すると、差出人の住所は確かに存在し、書かれているアパート名もその場所に存在するようだった。
封筒に書かれている住所に着いた雄介は、付近を見渡してそれらしきアパートを探した。
周囲は一軒家が多く、アパートはすぐに見つける事ができた。しかし、雄介の車はセダンタイプの中では車幅は狭い方なのだが、アパート前に駐車してしまうと、他の車が通り抜けられなくなる程に道幅が狭い。どこか別の場所に車を移動させる必要があると考えた雄介は、この場所に来る途中に見かけたスーパーマーケットにまで戻る事にした。
このさいたま市とは県庁所在地であり、政令指定都市でもあるが、街の中心部を離れると長閑な景色が広がる場所だった。雄介の住む市原市も都会的とは言えない場所だが、ここが内陸部に位置するからだろうか、東京湾に面する市原市とは違った雰囲気が感じられる。アパートに再び来た雄介は、もう一度、封筒に書かれているアパートが目の前の建物で間違いないか確認した。
―ハイグレード高橋―
封筒に書かれている物を見た時は何も感じなかったが、同じ物が建物の壁に刻印されているのを見ると、何とも言えない哀愁が感じられた。築三十年以上は経っているだろうか、二階に通じる階段の下に設置された集合チャイムは、ランプの明かりが点いていない箇所が目立ち、あまり住人はいない様に見受けられる。八つあるチャイムの内、四箇所のランプが消えているが、封筒に書かれている104号室のチャイムのランプは点いている。左手に封筒を握ったまま、右手人差し指をチャイムのボタンに近づける。しかし、指がボタンに触れる直前で体が動かなくなる。チャイムを押したとして、自分は何を言うのだろうか。そもそも、自分は何をしに来たのだろうか。
頭皮から湧き出た汗が揉み上げを伝う。昼間の太陽光がジリジリと雄介を照らし、梅雨明けの初夏の陽気が感じられた。いつの間にか早くなった雄介の胸の鼓動は治まりそうに無い。
路地の角から一台の車が曲がってくる。雄介は慌ててチャイムに近づけた右手を降ろした。曲がってきた車は雄介の背後を通り過ぎるが、雄介の胸の鼓動は治まる事を知らない。気が付くと、雄介は自分の車を停めたスーパーマーケットに向かって歩いていた。
スーパーマーケットのアイス売場を歩く雄介。アイス売場からパピコを見つけると、それを手に取りレジに向かう。雄介が並んでいるレジとは反対側のレジには、一人で歩けるようになったぐらいの少女が、母親と思われる若い女性に抱きかかえられながら、黙々と商品をスキャンさせている。そういえば、真実があのぐらいの歳の頃にも、同じようにしてあげた事がある。自分の会計の番が来るまで、雄介は母親に抱きかかえられた少女の姿をぼんやりと眺めていた。
スーパーマーケットの片隅にある休憩所で、パピコの二本目を食べながら雄介は何か違和感を感じる。よく食べていた物だと思ったが、味に飽きてきてしまっていた。
「ああ、そうか」
沙良と付き合い始めてからは沙良に、沙良と死別してからは真実に、いつもパピコの二本目を食べさせていたのだ。パピコの味に飽きながらも二本目をたいらげた雄介は、これからの事を考え始めた。
雄介の考えがまとまった頃には、もう、外は暗くなり始めていた。その間、スーパーマーケットのスタッフが雄介を不審そうに眺める事が何度かあったが、この店にまた来る事はないと思ったので、雄介は気にせず居座り続けた。
再び、ハイグレード高橋の集合チャイムの前にやって来た雄介だが、昼間とは服装が異なっている。黒いスーツを身に纏った雄介は、辺りが完全に暗くなっている事もあり、闇に同化している。雄介の職場には服装に決まりがないが、取材で著名な人と対談する機会のある雄介は、車の後部座席にいつもスーツ一式を置いていて、ここに戻ってくる前にそれに着替えていたのだ。少し胸の鼓動が高鳴っているのが感じられたが、昼間程のものではない。雄介は、深呼吸をすると104号室のチャイムのボタンを押した。
「タウングレードの中山と言う者です。このアパートの管理を担当するのが私共に代わったので、一度、挨拶に来ました」
雄介はボタンから指を離す。しばらく待ってみるが反応はない。雄介は、もう一度、ボタンを押す。
「タウングレードの中山です。ご在宅でしょうか」
ボタンから指を離して再び反応を待つが、結局、いくら待っても返事は返ってこなかった。どこかに出かけているのだろうか。或いは居留守を使っているのかもしれない。正体がバレているのか。いや、自分の存在を知っていたとしても、声だけで判別するのは不可能なはずだ。このチャイムは、見る限りカメラ機能は付いていない。それに、自分の存在を知っているのなら、手紙を真実宛に送ってくるはずがない。あの手紙の内容は真実の家族、つまり雄介に向けて書かれているのに、宛名は真実になっていた。それは、手紙の差出人が真実と真実の住所までは知っているが、真実の家族構成までは把握していないからではないだろうか。
まだ自分の正体はバレていない。そう自分に言い聞かせると、雄介は104号室の玄関の前までやって来る。雄介は玄関の上方に設置された電気メーターを確認する。電気メーターは微かに動いているが、生活している者が部屋の中にいるのならば、メーターはもっと早く動くはずだ。そもそも、扉の横にある小窓からは、部屋の中の明かりは漏れていない。念のため、建物の脇から反対側に回ってみる。幸いにも、この部屋は一階の角に位置し、すぐに反対側の窓を確認する事ができた。やはり、部屋の中は暗く、人の気配は感じられない。
雄介は建物の周囲を徘徊する。この近辺にコンビニや飲食店はなく、夜になると人通りがほとんどなくなるようだ。再び、雄介は104号室の玄関とは反対側の窓の手前にやって来る。窓をよく見ると、窓は閉められているが、鍵がかかっていない。中に入るか躊躇する雄介だが、迷っている時間はない。こうしてる間にも手紙の差出人が帰宅するかもしれない。雄介は窓をゆっくりと開けていく。
窓を限界まで開けると、そこには当然カーテンがある。カーテンを開ける事に躊躇する雄介だが、ここで迷っていても仕方がない。雄介は意を決してカーテンを勢い良く開ける。暗闇の中にいた雄介の眼は、真っ暗な部屋の中の状況もすぐに捉える事ができた。
月明かりで微かに照らされた室内の中央には何者かが佇んでいた。




