第8話「仙人の便利屋」
新月堂の扉が開いた。
「あの、こちらは便利屋さんで間違いないでしょうか?」
入口に立っていたのは、30代くらいの女性と、小学生くらいの女の子だった。
玄真は手にしていたウイスキーの瓶を机に戻した。
「ああ、そうだよ。何か困りごとか?」
「実は、飼っている猫がいなくなってしまって……」
「猫?」
思わず聞き返した。
ついさっき、猫の1匹くらい迷子にならないものかと考えたばかりだ。
まさか本当に来るとは。
「……妙な偶然もあるもんだな」
「え?」
「いや、こっちの話だ。まあ、座ってくれ」
玄真が椅子を勧めると、女性は軽く頭を下げた。
女の子は母親の隣に座り、膝の上で両手をぎゅっと握っている。店の中を見回す余裕もないらしく、落ち着かない様子で足を揺らしていた。
「いなくなったのはいつだ?」
「昨日の夕方です。少し窓を開けていたら、そこから出ていってしまったみたいで」
「今までにも外に出たことは?」
「いいえ。完全に室内飼いで……」
「なるほどな」
玄真は机の引き出しからメモ帳を取り出した。
「名前は?」
「だいふく!」
それまで黙っていた女の子が、勢いよく顔を上げた。
「だいふくっていうの!」
「だいふくね。どんな猫だ?」
「白くて、すっごく大きいの! あと、赤い首輪してる!」
「白くてでかくて、赤い首輪。そりゃ目立ちそうだな」
玄真がメモを取ると、女の子は何度も頷いた。
「写真もあります」
母親がスマートフォンを差し出した。
画面には、ソファの上で堂々と寝そべる白猫が写っていた。
確かに大きい。
猫というより、白いクッションに顔と手足が生えているようだった。
「……立派なだいふくだな」
「ちょっと太り気味なんです」
「ちょっと、ねえ」
玄真は写真を見ながら、首輪の形や顔の特徴を確認した。捜索に使うため、写真も送ってもらう。
「最後に見たのは家の中か?」
「はい。窓から出たところは見ていないんですが、ほかに出られる場所がなくて」
「家の周りは探した?」
「昨日からずっと。近所の方にも聞いたんですけど、見つからなくて……」
女の子が俯いた。
「だいふく、帰ってくるかな」
小さな声だった。
玄真はメモ帳を閉じ、女の子に目を向けた。
「それはまだ分からねえな」
母親が少し心配そうな顔をした。
「ただ、昨日いなくなったばかりなら、そう遠くには行ってねえかもしれない。まずは近場から探してみる」
「……見つけてくれる?」
「見つけるつもりで探すよ。絶対とは言えねえけどな」
女の子は少し考えてから、小さく頷いた。
「うん」
「よし。じゃあ仕事の話だ」
玄真は椅子に座り直した。
「捜索料は5,000円。見つからなかった場合は貰わねえ。今日中に見つからなけりゃ、いったん連絡して相談する。それでどうだ?」
「お願いします」
母親は迷わず頭を下げた。
「分かった。連絡先と住所を教えてくれ」
必要な情報を控え終えると、玄真は立ち上がった。
「それじゃ、ちょっと探してくる」
女の子が玄真を見上げた。
「おじさん、お願いね」
「……おじさん、か」
玄真は後ろでまとめた白髪に手をやった。
白髪に薄い無精髭という風貌ではあるが、顔立ちは27歳前後の青年そのものだ。
もっとも、実際に生きてきた年月を考えれば、おじさんどころではない。
「まあ、間違っちゃいねえな」
母親が慌てて謝ろうとしたが、玄真は片手を振って止めた。
「気にすんな。じゃ、行ってくる」
金色の模様が入った黒い上着を羽織り、煙草とライターをポケットに放り込む。
外へ出ると、昼下がりの日差しが路地を照らしていた。
「さて、だいふく探しといくか」
玄真は新月堂の扉を閉め、満月商店街へ向かった。
◇
満月商店街は、昼下がりの穏やかな空気に包まれていた。
八百屋の店先には色とりどりの野菜が並び、惣菜屋からは揚げ物の香ばしい匂いが漂っている。買い物袋を提げた人々が行き交い、店先では顔見知り同士が立ち話をしていた。
玄真はスマートフォンに控えた猫の写真を見せながら、店を一軒ずつ回っていた。
「白くてでかい猫? 赤い首輪?」
「ああ。昨日の夕方からいなくなったらしい」
「うーん、見てないねえ」
「そうか。邪魔したな」
次の店でも、その次の店でも、返ってくる答えは似たようなものだった。
玄真は聞き込みの合間にも、車の下や建物の隙間に目を向けていた。
室内飼いの猫なら、慣れない外で物陰に隠れていることもある。
玄真もこれまでに何度か猫探しを請け負ったことがあった。
もっとも、経験があるからといって簡単に見つかるわけではない。
月桂書店では、店主が写真を覗き込んで首を傾げた。
「猫ならたまに店の前を通るけど、こんな大きいのは見てないな」
「そうか」
「玄真さん、今度は猫探しかい?」
「今度はって何だよ」
「いや、前は変な壺を持って歩いてたから」
「あれは仕事だ」
「猫探しも?」
「当たり前だろ」
店主は笑った。
「便利屋ってのも大変だねえ」
「仕事があるだけありがたいけどな」
玄真は軽く手を上げて店を出た。
新月堂には、仕事がまったく来ない日も珍しくない。
迷子の猫探しだろうが、壊れた家具の修理だろうが、依頼があるだけまだいい方だ。
もっとも、猫探しという仕事は想像以上に地道だった。
猫は名前を呼べば必ず返事をするわけではない。ましてや、知らない人間が探しているとなればなおさらだ。
玄真は商店街をもう少し歩き、満月食堂の前で足を止めた。
店先にいた店員に写真を見せると、少し考え込んだあと、首を横に振られた。
「見てないですね。でも、神社の方には猫がよくいますよ」
「満月神社か」
「ええ。野良猫が集まってることもありますし」
「なるほど。行ってみるか」
玄真は礼を言い、商店街を抜けた。
人通りが少なくなったところで、喫煙できる場所を見つけ、煙草を1本取り出した。
火をつけ、ゆっくりと煙を吐く。
少しだけ肩の力が抜けた。
「しかし、だいふくねえ……」
スマートフォンに映る白猫を思い出す。
あの体格なら、そう遠くへ行っていない気もする。
もっとも、猫の行動範囲を見た目だけで判断するのも間違いだ。
「どっかで昼寝でもしてんのかね」
返事をする者はいなかった。
玄真は煙草を吸い終えると、吸い殻を携帯灰皿に収め、満月神社へと足を向けた。
◇
満月神社の境内は静かだった。
石段を上り、鳥居をくぐる。
木々の間から差し込む日差しが、石畳にまだら模様を作っていた。風が吹くたびに葉が揺れ、どこかで鳥の鳴き声が聞こえる。
玄真は境内を見渡した。
「さて、と」
植え込みの陰。
社務所の裏。
境内の隅に置かれた古いベンチの下。
猫が隠れそうな場所を順番に確認していく。
ふと、拝殿の脇で白いものが動いた。
「……ん?」
玄真は足を止めた。
木の根元に、白い塊が見える。
大きさもそれなりにある。
「おい、だいふく?」
そっと近づく。
白い塊は風に揺れた。
もう少し近づいてみる。
「…………」
白いビニール袋だった。
「……紛らわしいな、おい」
玄真は袋を拾い上げ、境内の外へ持ち出すことにした。
その途中、石灯籠のそばで茶色い猫が一匹、丸くなっているのを見つけた。
「お前じゃねえな」
猫は片目だけ開けて玄真を見た。
「白くてでかい奴、見なかったか?」
「ニャ」
「そうか。知らねえか」
もちろん、猫の言葉が分かるわけではない。
玄真はそれ以上相手にせず、境内の奥へ進んだ。
しばらく探したが、だいふくらしき姿はない。
社務所の人にも尋ねてみたものの、目撃情報は得られなかった。
「空振りか」
玄真は石段の脇に腰を下ろした。
足元には、風に運ばれてきた落ち葉が数枚転がっている。
ポケットから煙草を取り出しかけて、境内の禁煙表示に気づいた。
「……ここも駄目か」
煙草を戻し、代わりにスマートフォンを取り出した。
新月堂を出てから、もう結構な時間が経っていた。
「5,000円でどこまで探すかって話だよなあ」
そう呟いて、依頼人の女の子の顔を思い出す。
膝の上で握り締められていた、小さな両手。
仕事として考えれば、たった5,000円の猫探しだ。
だが、あの子にとっては違う。
だいふくは、毎日一緒に暮らしている大切な家族なのだ。
玄真はスマートフォンをポケットにしまった。
「……まあ、もうちょい探すか」
コートの裾を軽く払い、石段を下りる。
次に向かうのは月見公園だ。
猫が隠れられる場所も多いし、散歩中の人から話が聞けるかもしれない。
「しかし、猫探しってのも楽じゃねえな」
玄真は小さく欠伸をしながら、神社をあとにした。
◇
月見公園には、遊具と広場、それから何本かの大きな木がある。
平日の午後ということもあって、人影はまばらだった。
ブランコが風に揺れ、遠くでは小さな子供が母親とボール遊びをしている。
玄真は入口から公園を見渡した。
ベンチ。
植え込み。
滑り台。
砂場。
そして、木陰にしゃがみ込んでいる赤髪の女。
「……ん?」
見覚えがありすぎる後ろ姿だった。
紅月アカリ。
500年以上生きる吸血姫で、現在は月光荘に住みながら深夜のコンビニで働いている。
そんな彼女が、今日は公園で猫と遊んでいた。
「お前、でっかいなあ」
声が聞こえた。
「しかもふわふわ。何食ったらこんなに育つんだ?」
玄真は足を止めた。
アカリの足元に、白い塊がある。
大きい。
白い。
そして、首元には赤いものが見えた。
「…………」
玄真はスマートフォンを取り出し、写真を確認した。
もう一度、白い塊を見る。
「……だいふく?」
白猫が顔を上げた。
丸い顔に、ふっくらとした体。赤い首輪が白い毛並みによく映えている。
アカリの手が止まると、もっと撫でろと言わんばかりに頭を押しつけていた。
アカリも振り向いた。
「あれ、玄真じゃん。何してんの?」
「……それ、どこで拾った?」
「それって、この猫?」
「ああ」
「さっきからここにいたよ。近づいたら寄ってきたから遊んでた」
アカリが白猫の顎を撫でる。
だいふくは気持ちよさそうに目を細め、尻尾をゆっくりと揺らした。
「すっごい人懐っこいんだよ、こいつ」
「……そうか」
「どうしたの?」
「そいつ、俺が探してた猫だ」
「え?」
アカリはだいふくを見た。
それから玄真を見た。
「……マジで?」
「マジだ」
「へえ。こいつ、迷子だったんだ」
「昨日からな」
「そっかあ。お前、家出してたの?」
アカリが話しかけると、だいふくは短く鳴いた。
「ニャ」
「そうかそうか」
「会話成立してんのか、それ」
「気持ちの問題でしょ」
玄真は深いため息をついた。
商店街を歩き回り、神社の隅々まで探し、ようやく公園まで来た。
その結果がこれである。
アカリは何の苦労もなく、探していた猫と遊んでいた。
「……お前、今日仕事は?」
「休み。散歩してたらこいつがいた」
「そうかい」
「玄真は?」
「仕事中だよ。見りゃ分かるだろ」
「猫探しって、結構大変なんだねえ」
「……お前が言うと腹立つな」
「何でよ」
アカリは不思議そうに首を傾げた。
玄真はそれ以上答えず、だいふくの前にしゃがみ込んだ。
「ほら、だいふく。帰るぞ」
玄真はしばらく様子を見た。
だいふくは逃げる様子もなく、こちらを見ている。
警戒していないことを確認してから、ゆっくりと手を伸ばした。
その瞬間。
「フシャッ!」
「うおっ」
だいふくの耳がぺたりと伏せられた。
次の瞬間、大きな体からは想像できないほど素早く身をひねり、玄真の手をすり抜ける。
数歩離れたところで立ち止まり、警戒するように尻尾を揺らした。
「……おい」
玄真が近づく。
だいふくが離れる。
玄真が止まる。
だいふくも止まる。
「…………」
「…………」
「……何だこいつ」
背後でアカリが笑い始めた。
「あははっ! 玄真、嫌われてんじゃん!」
「初対面だぞ」
「じゃあ第一印象が悪かったんだ」
「うるせえな」
玄真はもう一度しゃがんだ。
「おいで、だいふく。別に取って食いやしねえよ」
だいふくはじっと玄真を見ている。
少しずつ距離を詰める。
あと一歩。
手を伸ばす。
だいふくは軽やかに横へ跳んだ。
「……お前なあ」
アカリは腹を抱えて笑っていた。
「ちょっと、何やってんの! 全然捕まえられてないじゃん!」
「見りゃ分かるだろ!」
「仙人なのに猫一匹捕まえられないの?」
「仙人と猫は関係ねえだろ!」
玄真は立ち上がった。
これ以上追いかけ回しても、警戒されるだけだ。
何百年も生きてきたが、猫の気まぐれだけはどうにもならない。
「……アカリ」
「ん?」
「ちょっと呼んでみろ」
「いいよ」
アカリがしゃがみ込み、軽く手招きした。
「おいでー」
だいふくの耳がぴくりと動いた。
それから、何の警戒もなく歩き出す。
まっすぐアカリへ向かっていく。
「……おい」
だいふくはアカリの膝に頭を擦りつけた。
「……おいおい」
「ほら、いい子じゃん」
アカリはその大きな体を抱き上げた。
だいふくは暴れることもなく、腕の中に収まっている。
玄真はしばらくその光景を眺めていた。
「……何が違うんだよ」
「日頃の行いじゃない?」
「お前にだけは言われたくねえな」
「何それ、失礼じゃない?」
「事実だろ」
アカリは笑いながら、だいふくの頭を撫でた。
「で、こいつどうするの?」
「飼い主に返す。新月堂に来た親子からの依頼だ」
「じゃあ連れてけばいいんだね」
「ああ……いや、待て」
玄真はだいふくを見た。
「こいつ、歩いてる途中で逃げねえだろうな」
「大丈夫でしょ。こんなに大人しいし」
「その油断で昨日逃げたんじゃねえのか?」
「じゃあ玄真が抱っこする?」
「……やめとく」
アカリが吹き出した。
「そこは即答なんだ」
「また逃げられたら面倒だろ」
玄真はスマートフォンを取り出した。
「飼い主に連絡する。キャリーケースを持って迎えに来てもらおう」
「なるほどね」
「それまでこいつを見ててくれ」
「いいよ。だいふく、もうちょっと大人しくしててね」
アカリはベンチに腰を下ろし、だいふくを膝の上に抱え直した。
白猫は特に抵抗することもなく、満足そうに喉を鳴らしている。
「……俺が抱こうとしたときとは大違いだな」
「日頃の行いじゃない?」
「それ、さっきも聞いたぞ」
玄真は母親に電話をかけた。
猫が見つかったことを伝えると、電話の向こうから驚いた声が上がった。
「本当ですか!?」
「ああ。月見公園にいる。元気そうだし、怪我も見当たらねえ」
「ありがとうございます! すぐに迎えに行きます!」
「キャリーケースを忘れずにな」
「はい!」
電話を切ると、玄真はベンチに腰を下ろした。
アカリはだいふくを撫でながら、こちらを見て笑っている。
「玄真、疲れてる?」
「誰のせいだと思ってんだ」
「猫?」
「……まあ、そうだな」
だいふくはアカリの膝の上で、実に満足そうに喉を鳴らしていた。
◇
しばらくして、母親と女の子が公園に駆け込んできた。
「だいふく!」
聞き慣れた声に、だいふくの耳がぴくりと動いた。
アカリの膝から降りると、女の子のもとへ歩いていく。
「ニャア」
まるで、何事もなかったかのように。
「だいふく!」
女の子はその場にしゃがみ込み、白猫を抱き締めた。
「よかったあ……! どこ行ってたの! 心配したんだから!」
「ニャ」
「もう勝手に出ていっちゃ駄目だよ!」
「ニャア」
だいふくは特に反省した様子もなく、女の子の腕の中で大人しくしていた。
母親が深々と頭を下げる。
「本当にありがとうございました。もう見つからないかと思って……」
「いや、見つかってよかったよ」
玄真は軽く手を振った。
「窓には気をつけてな。こいつ、案外すばしっこいから」
「はい。気をつけます」
「それと、今日は家に帰ったら少し様子を見てやってくれ。怪我してるかもしれねえし」
「分かりました」
母親が持ってきたキャリーケースを開けると、女の子は名残惜しそうにだいふくを中へ入れた。
だいふくは少しだけ不満そうに鳴いたが、すぐに中で丸くなった。
女の子が玄真を見上げる。
「おじさん、ありがとう!」
「おう。今度は逃がすなよ」
「うん!」
母親は財布を取り出し、約束の5,000円を玄真に渡した。
「こちら、お約束の料金です」
「確かに。毎度どうも」
玄真は代金を受け取った。
女の子はアカリにも何度も礼を言い、母親と一緒に公園をあとにした。
キャリーケースの中から、だいふくが一度だけ鳴いた。
「……よかったねえ」
アカリが呟いた。
「ああ」
玄真は親子の背中を見送った。
「さて、帰るか」
「うん」
2人は並んで公園を出た。
◇
新月堂に戻ると、玄真は椅子に腰を下ろした。
「……ふう。ようやく一件片づいたな」
「よかったねえ」
アカリは向かいの椅子に座り、にこにこしていた。
「いい子だったね、だいふく」
「ああ。俺には全然懐かなかったけどな」
「あははっ。玄真、猫に嫌われる才能あるんじゃない?」
「そんな才能いらねえよ」
玄真は受け取った5,000円札を机の上に置いた。
今日の売上だ。
朝から暇だったことを考えれば、悪くない。
そう思ったところで、アカリが口を開いた。
「で、アタシの取り分は?」
「……は?」
「取り分」
「何の?」
「猫探しの」
玄真は5,000円札を見た。
それからアカリを見た。
「……お前、金取る気か?」
「そりゃそうでしょ。アタシも仕事したんだし」
「お前、公園で猫と遊んでただけだろ」
「でも捕まえたのはアタシじゃん」
「偶然だろうが」
「偶然でも結果は結果でしょ?」
「……まあ、そうだが」
アカリは当然のように手を差し出した。
「じゃ、2,500円ね」
「待て待て待て」
「何?」
「何で半分なんだよ!」
「二人でやった仕事だから?」
「俺が何時間探したと思ってんだ! 商店街回って、神社まで行って、公園も探してんだぞ!」
「でも捕まえられなかったじゃん」
「……それはそうだが」
「アタシがいなかったら、まだ公園で追いかけっこしてたんじゃない?」
「…………」
玄真は言葉に詰まった。
否定できないのが腹立たしい。
「……分かった。今度飯奢る。それでいいだろ」
「焼肉?」
「ふざけんな」
「えー、飯奢るって言ったじゃん」
「限度があるだろ!」
「じゃあ寿司」
「何で高い方に行くんだよ!」
「焼肉より安いところもあるよ?」
「そういう問題じゃねえ!」
アカリは腕を組み、少し考える素振りを見せた。
「じゃあ、焼肉食べ放題」
「戻ってんじゃねえか!」
「食べ放題なら値段決まってるし」
「5,000円の仕事で赤字出してどうすんだ!」
「玄真も食べればいいじゃん」
「俺が食うかどうかの問題じゃねえんだよ!」
アカリはけらけら笑った。
「じゃあ現金でいいよ。2,500円」
「……お前、最初からそれが狙いだろ」
「何のこと?」
「白々しいな、おい」
玄真は腕を組んだ。
「……1,000円」
「2,500円」
「1,500円」
「2,500円」
「2,000円」
「2,500円」
「お前もちょっとは譲歩しろよ!」
「何で?」
「交渉ってのはそういうもんだろ!」
「別にアタシ、困ってないし」
「くそっ……」
玄真は天井を仰いだ。
500年以上生きた吸血鬼が、2,500円を巡って一歩も引かない。
しかも、金に困っているわけでもない。
どう考えても、こちらの反応を楽しんでいるだけだ。
「……お前、そんなに金が欲しいのか?」
「別に?」
「じゃあ何で半分にこだわるんだよ」
「玄真が嫌がるから」
「性格悪いな、お前!」
「今さら?」
アカリは悪びれもせず笑った。
玄真は深いため息をつく。
「……分かったよ。半分だ、半分」
「やった!」
「2,500円な。これ以上は一円も出さねえぞ」
「十分十分」
玄真は財布から1,000円札を2枚と500円玉を取り出した。
一度だけ手を止める。
「……本当に半分持ってくのか」
「もちろん」
「……ほらよ」
玄真が差し出すと、アカリは嬉しそうに受け取った。
「毎度あり!」
「……お前、便利屋でも始めたらどうだ」
「えー、面倒くさい」
「だろうな」
「玄真の仕事を横取りする方が楽そう」
「二度と頼まねえ」
「またまた。困ったら呼ぶくせに」
アカリは受け取った金を財布にしまった。
「じゃ、アタシ帰るね」
「ああ。気をつけてな」
「玄真もね。次は猫に好かれるといいね!」
「余計なお世話だ!」
アカリは楽しそうに笑いながら、新月堂を出ていった。
扉が閉まると、玄真は机の上の5,000円札を見下ろした。
そこからアカリに渡した2,500円を差し引けば、今日の稼ぎは半分しか残らない。
「……俺の時給、いくらだよ」
商店街を歩き回り、神社を探し、公園まで足を運んだ。
それで2,500円。
しかも、最後に猫を捕まえたのはアカリだ。
「割に合わねえ仕事だったな……」
玄真は椅子にもたれかかった。
窓の外では、傾き始めた日差しが路地を照らしている。昼間は賑やかだった商店街も、そろそろ夕方の買い物客が増える頃だろう。
しばらく天井を眺め、それから机の端に置いたウイスキーの瓶へ目を向けた。
結局、今日もまだ飲めていない。
「……まあ、いいか」
猫は無事に家へ帰った。
女の子も喜んでいた。
依頼は達成した。
それで十分だろう。
玄真はグラスを取り出し、オールドパーを少しだけ注いだ。
琥珀色の液体が、グラスの底で揺れる。
一口飲むと、馴染みのある香りが鼻を抜けた。
「……次から猫探しは1万円だな」
もちろん、本当に値上げするかどうかは別の話である。
玄真がもう一口飲もうとした、そのとき。
カラン。
入口のベルが鳴った。
「……ん?」
玄真が顔を上げると、扉の向こうに見知らぬ男性が立っていた。
「あの、こちらは便利屋さんでしょうか?」
「ああ、そうだよ」
「ちょっとお願いしたいことがありまして……」
玄真はグラスを机に戻した。
今日の仕事はもう終わりだと思っていたが、どうやらそうもいかないらしい。
「まあ、座りな。話を聞こう」
男性はほっとしたように頭を下げ、椅子に腰を下ろした。
玄真はメモ帳を引き寄せる。
「それで、どんな依頼だ?」
「あの、実は……」
男性が話し始める。
玄真はグラスに残ったウイスキーをちらりと見た。
せっかく飲み始めたところだったのに。
だが、仕事が来るのはありがたい。
何しろ今日の仕事で手元に残ったのは、たったの2,500円なのだから。
「……今度は割のいい仕事だと助かるんだがな」
そうぼやきながらも、玄真はメモ帳を開いた。
迷子の猫探しから怪異絡みの厄介事まで。
路地裏の便利屋、新月堂は今日も営業中である。
ただし、儲かっているかどうかは別の話だ。




