第7話「不死者は煙草をやめられない②」
午後3時24分。
三日月町の喫茶店「玉兎」。
大きな窓から差し込む午後の日差しが、店内の木製テーブルを柔らかく照らしていた。昼食の時間帯はすでに過ぎ、先ほどまで聞こえていた食器の音や客同士の話し声も、今はすっかり落ち着いている。
カウンターの奥ではコーヒーメーカーが小さな音を立て、店内には挽きたての豆の香りが漂っていた。
白石千歳はカウンターの内側で、洗い終えたカップを布巾で拭いていた。
「……暇だなあ」
客席には数人の常連客。窓際の席では年配の男性が新聞を広げ、奥のテーブルでは女性客が文庫本を読んでいる。
注文はすでに出し終えていた。急いで片づける仕事もない。
こういう時間は嫌いではなかった。むしろ好きな方だ。
千歳は昔から、何もせずに過ごす時間が好きだった。長く生きていれば、多少の退屈には慣れる。それに、平穏な午後というのは案外貴重なものだ。
ただし、ひとつだけ問題がある。
「煙草吸いたい」
千歳は小さく呟いた。
玉兎は店内禁煙だ。従業員だからといって例外にはならない。
休憩時間までは、まだ少しある。コーヒーの香りを嗅いでいると、余計に煙草が恋しくなる。
かつては喫茶店といえば、コーヒーの香りに煙草の煙が混じっているものだった。今では、そんな光景を見る機会も随分と減った。
時代は変わる。それ自体は仕方のないことだと思っている。
ただ、身体に染みついた習慣まで簡単に変わってくれるわけではない。
「……あと何分だっけ」
時計を見上げたところで、入口のベルが鳴った。
カラン。
「いらっしゃいませ」
顔を上げる。
入ってきたのは、白髪を後ろで無造作にまとめた、薄い無精髭の男だった。長めの前髪の隙間から、藤紫色の瞳が覗いている。
ワイシャツに黒いズボン。その上から、金色の模様が入った黒い上着を羽織っていた。
どこか気の抜けた立ち姿。見慣れた顔だった。
千歳は一瞬だけ目を丸くした。
「あれ、玄真」
「よう」
「珍しいね。こんな時間に」
「そうか?」
「少なくとも、最近は来てなかったでしょ」
「まあな」
久世玄真。
月光荘の住人であり、便利屋「新月堂」の店主。そして、千歳とは約200年来の知り合いだった。
最初に出会ったのは、遠い昔のロンドン。
あの頃と比べれば、街並みも、人々の暮らしも、世界そのものも大きく変わっている。それなのに、目の前の男はほとんど変わっていない。
黒かった髪は白くなり、瞳の色まで変わってしまった。それでも、昔からこんな調子だった気がする。
千歳にとって、それは少し不思議で、同時に安心できることでもあった。
「好きな席どうぞ」
「ああ」
玄真はカウンター席に腰を下ろした。千歳が水を出す。
「何にする?」
「コーヒー」
「ホット?」
「ああ」
「はいはい」
注文を通してから、千歳はカウンター越しに尋ねた。
「で、今日はどうしたの?」
「何が?」
「何か用事があったんじゃないの?」
「暇だから来た」
「…………」
「なんだよ」
「いや、玄真らしいなって」
「仕事がねえんだから仕方ないだろ」
「仕事探せば?」
「便利屋は客が来なきゃ始まらねえんだよ」
「猫探しとかは?」
「最近は猫も行方不明にならねえらしい」
「平和でいいじゃない」
「俺の財布は平和じゃねえけどな」
千歳は笑った。
玄真は昔から、こういう男だった。妙なところで達観しているくせに、金がないだの仕事がないだのと、普通の人間と変わらない愚痴をこぼす。
仙人というものは、もっと俗世から離れた存在なのではないか。そんなことを考えた時期もあった。
今では、仙人だって家賃を払うし、腹も減るし、煙草代に頭を抱えるものだと思っている。
少なくとも、目の前の男はそうだった。
しばらくして、奥で淹れられたコーヒーを千歳が玄真の前に置いた。白いカップから、細い湯気が立ち上っていた。
玄真はカップを持ち上げ、ひと口飲んだ。
「……うまいな」
「どうも」
「お前が淹れたのか?」
「違うよ」
「だろうな」
「どういう意味?」
「いや、別に」
千歳は笑顔のまま玄真を見た。玄真は何食わぬ顔でもうひと口飲んだ。
玄真の前では、昔の話をするにも言葉を選ばなくていい。
何年前の出来事だったか、誰と一緒にいたか。そんなことを気にせず話せる相手は、今ではそう多くなかった。
「そういえばさ」
「ん?」
「煙草、また高くなるって話があるらしいよ」
玄真の手が止まった。
「……またか?」
「また」
「勘弁してくれよ」
「ほんとにね」
千歳は深く頷いた。
「ただでさえ高いのに、これ以上上がったら困るんだけど」
「こっちは毎日吸うんだぞ。少し上がるだけでも馬鹿にならねえ」
「玄真、1日何箱?」
「日によるな。2箱で済む日もあれば、3箱以上吸う日もある」
「相変わらずだねえ」
「お前に言われたくねえよ」
「私は最近、ちょっと減らしてるから」
「へえ」
「本当だよ」
「何本減った?」
「…………」
「おい」
「気持ちの問題かな」
「減ってねえじゃねえか」
千歳は肩をすくめた。
実際、減らそうと思ったことは何度もある。煙草が身体に悪いことくらい、もちろん知っている。
ただ、身体が悪くならないのだから、どうにも危機感が湧かない。
病気にもならず、歳も取らず、怪我をしても治ってしまう。
不死者というのは、こういうときに少し厄介だった。
「でも、禁煙には何度も成功してるよ」
「まだ言ってんのか、それ」
「事実だからね」
「半日吸わなかっただけだろ」
「半日も、だよ」
「次の日には普通に吸ってたじゃねえか」
「禁煙が終わったからね」
「便利な考え方だな」
「長生きの秘訣だよ」
「それで長生きしてきたわけか」
「そういうこと」
玄真は呆れたように笑った。千歳も笑う。
2人の間では、こんなやり取りは珍しくない。むしろ、200年も付き合いがあれば、同じような話を何度もしている。
もし自分が普通の人間だったなら、煙草をやめていたのだろうか。
千歳はふと考えた。
健康診断の結果に怯えたり、医者に叱られたり。そんな人生もあったのかもしれない。
けれど、考えたところで答えは出ない。
自分はもう、普通の人間として歳を重ねることができないのだから。
だから今日も、休憩時間になれば煙草を吸う。
それだけのことだった。
「しかし、煙草もずいぶん肩身が狭くなったよな」
玄真が言った。
「本当にね。昔はもっと気軽に吸えたのに」
「喫茶店でコーヒー飲みながら一服するのがよかったんだよ」
「今じゃ吸えるお店を探す方が大変だもん」
「この店も禁煙だしな」
「私は助かってるけどね」
「何が?」
「仕事中に吸えないから、禁煙の練習になる」
「練習?」
「うん」
「……それ、ただ我慢してるだけじゃねえの?」
「禁煙ってそういうものでしょ」
「じゃあ休憩になったら?」
「吸うよ」
「だろうな」
千歳は当然のように頷いた。
窓の外では、買い物帰りらしい人々が通りを歩いていた。誰かが立ち止まってスマートフォンを確認し、別の誰かが自転車で通り過ぎていく。
見慣れた、何でもない午後の風景。
千歳はこういう景色が好きだった。
何十年か経てば、店の看板も、通りを歩く人々も変わっているだろう。もしかしたら、この喫茶店だって別の店になっているかもしれない。
そういう変化を、千歳は何度も見てきた。
以前は、変わっていくものを見送るたびに寂しさを感じた。今は、目の前にあるものを楽しもうと思っている。
少なくとも、この店で働いている間は。
「昔はよかったなあ」
玄真がしみじみと言う。
「何が?」
「煙草吸える場所が多くて」
「それは分かる」
「飯食ったあとに一服できねえのは、どうにも落ち着かねえ」
「私もコーヒー飲んだあとに吸いたくなる」
「今もか?」
「今も」
「……悪いこと聞いたな」
「ほんとだよ。思い出しちゃったじゃない」
千歳は壁の時計を見る。
休憩までは、あと少し。それが分かると、余計に煙草が恋しくなった。
「そういえばさ」
千歳はカウンターに肘をつきかけ、仕事中だったことを思い出して姿勢を戻した。
「私たち、知り合ってどのくらいだっけ」
「200年くらいじゃねえか?」
「やっぱりそれくらいか」
「ロンドンで会ったのが最初だったな」
「懐かしいねえ」
「あの頃からお前、煙草吸ってたよな」
「玄真もでしょ」
「まあな」
千歳の脳裏に、遠い昔の街並みが浮かんだ。
石畳の道。馬車の車輪が立てる音。霧の向こうにぼんやりと浮かぶ街灯。
今となっては、記憶の中でしか見ることのできない景色だった。
その中に、目の前の男もいた。
「そういえば、ロンドンで吸ってた煙草、覚えてる?」
「ああ。あのやたら辛いやつか」
「そうそう。玄真、最初の1本でむせてたよね」
「……そんなことあったか?」
「都合の悪いことは忘れるんだから」
「200年前のことだぞ。いちいち覚えてられるかよ」
「私は覚えてるけどね」
「お前は妙なところで記憶力がいいよな」
「玄真がむせてるところなんて、滅多に見られないからね」
「……忘れろよ」
千歳は楽しそうに笑った。
200年。
言葉にすれば、たったそれだけだ。
けれど、その間にどれほど多くの人と出会い、別れてきただろう。
名前も顔も、もう思い出せない人だっている。親しくなった人もいた。大切だった人もいた。
かつては、自分だけが時間の流れから取り残されているように感じたこともあった。
けれど、今は違う。
200年前の話を笑いながらできる相手が、こうして目の前にいる。
しかも、その話の内容が煙草でむせたという、実にくだらないものなのだからおかしい。
千歳はそれが少し嬉しかった。
もっとも、そんなことを本人に言うつもりはない。きっと、からかわれるだけだから。
「まさか200年後に、同じアパートに住んで煙草の値段を嘆いてるとは思わなかったよ」
「俺もだよ」
千歳は少し考えた。
「……なんか、私たち全然変わってなくない?」
「見た目はな」
「中身も」
「お前は特にな」
「どういう意味?」
「200年前から禁煙できてねえだろ」
「何度も成功してるってば」
「はいはい」
玄真はコーヒーを飲んだ。
千歳は少し不満そうな顔をしたが、それ以上は言い返さなかった。
実際、200年前の自分と今の自分を比べても、大した違いはない気がする。
住む場所も仕事も変わった。知り合いも増えた。世の中は随分と便利になった。
それでも、煙草を吸いたくなる気持ちだけは変わらない。
そして、こうして昔話をして笑える相手がいる。
千歳は目の前の男を見た。
200年経っても、相変わらずコーヒーを飲んでいる。
「……不思議なもんだねえ」
「何が?」
「いや、長生きって」
「今更だな」
「今更だね」
2人は笑った。
それからしばらく、昔の話が続いた。
玄真が覚えている出来事を千歳が忘れていたり、その逆もあった。200年も前のこととなれば、記憶も案外いい加減なものだ。
「いや、あれはロンドンじゃなかったか?」
「違うよ。パリ」
「お前、前にロンドンって言ってなかったか?」
「……言ったっけ?」
「言った」
「じゃあロンドンかも」
「適当だなあ」
「200年前のことなんだから許してよ」
「俺だって200年前だよ」
「じゃあお互い様だね」
「そうなるか?」
玄真は笑いながら、空になったカップを置いた。
「さて、そろそろ戻るか」
「もう帰るの?」
「ああ。いつまでも邪魔してても悪いしな」
「別に邪魔じゃないけど」
「仕事中だろ、お前」
「まあね」
玄真は立ち上がり、会計を済ませた。
「ごちそうさん」
「ありがとうございました」
千歳は店員らしく頭を下げる。
玄真が入口へ向かう。
「あ、玄真」
「ん?」
「煙草、吸いすぎないようにね」
「仙人は病気にならねえからな」
「そういう問題じゃないと思うけど」
「お前も人のこと言えねえだろ」
「私は禁煙中だから」
「休憩になったら吸うんだろ?」
「…………」
玄真が笑う。
「じゃあな」
「はいはい。またね」
カラン。
入口のベルが鳴り、玄真は店を出ていった。
千歳はその背中を見送った。白髪の男が通りへ出て、やがて窓の向こうから姿を消す。
それを見届けてから、千歳は小さく息を吐いた。
200年も前から知っている相手。
それが今も近くにいて、暇だからという理由でコーヒーを飲みに来る。
考えてみれば、随分と贅沢なことなのかもしれない。
けれど、千歳はそんな感傷を長く引きずるつもりもなかった。
壁の時計を確認する。
休憩まで、あと5分。
「……長いなあ」
500年以上生きてきた不死者にとっても、煙草を待つ5分は長かった。
◇
満月商店街。
午後の日差しが、商店街の看板や店先の商品を明るく照らしていた。
買い物客の話し声に、自転車のベルの音。どこかの店からは、焼きたてのパンの香りが漂ってくる。
玄真はそんな通りを歩きながら、煙草を1本取り出しかけて手を止めた。
「……ここじゃ吸えねえか」
周囲を見渡す。
歩き煙草をするわけにもいかない。仕方なく箱をポケットへ戻した。
「世知辛いねえ」
先ほど千歳と話したばかりのことを、もう一度呟く。
それからファミレス「ブルームーン」の裏手へ回った。
表通りの賑わいから少し離れた路地。建物の影が伸びるその一角に、小さな店がある。
便利屋「新月堂」。
迷子の猫探しから、普通の人間にはどうにもできない厄介事まで。頼まれれば大抵のことは引き受ける。
もっとも、依頼そのものは滅多に来ない。
玄真は扉を開けた。
「ただいま、と」
当然、返事はない。
店内には古びた家具や、用途の分からない品物が並んでいる。
棚の上には年代物の壺。壁には奇妙な模様の描かれた札。奥には、どう見ても普通の骨とは思えないものまで置いてある。
窓から差し込む光は弱く、室内には昼間だというのに薄暗い場所がいくつもあった。
玄真は上着を脱ぎ、椅子の背もたれに掛けた。
「さて」
仕事机の引き出しを開ける。煙草とライターを取り出し、一本くわえた。
火をつける。ゆっくりと煙を吐いた。
「……やっぱこれだな」
机の隅には、吸い殻が山になった灰皿と、空になった煙草の箱がいくつか置かれていた。
玄真は椅子に深く腰掛ける。しばらくぼんやりと天井を眺めた。
「……今日も仕事なしか」
平和なのはいい。
怪異が現れなければ、面倒事も起きない。それはそれで結構なことだ。
ただし、便利屋としては困る。仕事がなければ収入もない。
「猫の一匹くらい迷子にならねえもんかね」
そんなことを言いながら、煙草を灰皿に押しつけた。
時計を見る。
まだ夕方にもなっていない。
「……まあ、いいか」
玄真は棚に手を伸ばした。
取り出したのは、飲みかけのオールドパー。長年愛飲しているウイスキーだった。
「仕事もねえし、一杯くらいいいだろ」
グラスを机に置く。瓶の蓋を開ける。
ちょうど酒を注ごうとした、そのとき。
カラン。
入口のベルが鳴った。
「すみません……」
玄真の手が止まる。
顔を上げると、入口に見知らぬ客が立っていた。
「あの、こちらは便利屋さんで間違いないでしょうか?」
「……ああ。そうだよ」
玄真は手元の瓶を見る。それから客を見る。
「…………」
小さく笑って、瓶の蓋を閉めた。
「……いいタイミングだ」




