第2話「吸血姫は現代社会が好き②」
午前2時47分。
「ありがとうございましたー」
自動ドアが閉まる。
夜の冷たい空気がわずかに入り込み、それもすぐに店内の空調へ溶けていった。
紅月アカリはレジの前で小さく息を吐く。
深夜の『カマル三日月中央店』。
夕方から続いていた客足もすっかり落ち着き、店内には静かなBGMと、飲料ケースの低い駆動音だけが流れている。
窓の向こうに見える有明交差点も、この時間になると静かなものだった。
信号だけが律儀に色を変え、ときおり通り過ぎる車のヘッドライトが、ガラス越しに店内を横切っていく。
「暇だなぁ……」
レジ横の時計を見る。
午前2時48分。
1分しか経っていない。
「…………」
もう1度見ても、当然2時48分だった。
次の休憩までは、まだ少しある。
アカリは軽く伸びをして、乱れていた商品の向きを直した。
こういう時間は嫌いではない。
忙しいのは面倒だ。
レジに列ができれば疲れるし、揚げ物を頼まれた直後に宅配便を持ち込まれ、その最中に別の客から煙草の番号を告げられたりすると、さすがに515歳の吸血姫でも少し嫌になる。
かといって、暇すぎるのも困る。
時計を見る回数が増えるからだ。
長く生きているからといって、待ち時間に強いわけではない。
何事もほどほどが一番である。
そんなことを考えていると、
ピロリン。
自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませー」
身体に染みついた反射で声を出す。
そして、入ってきた客を見て瞬きをした。
「あ」
「おつかれ、アカリ」
「かぐやじゃん」
月永かぐやだった。
腰近くまで伸びた艶のある黒髪。
一直線に切り揃えられた前髪の下には、整いすぎているほど整った顔立ちがある。
すらりとしたモデルのような体型。
長い手足。
黙って立っているだけなら、誰もが思わず振り返るような絶世の美女だった。
月永かぐや。
同じ月光荘に住む、アカリの友人。
動画配信者。
そして――地球人ではない。
月の民である。
かつてより、彼女を指して使われる呼び名がある。
『月の都の姫君』。
その名に違わぬ美貌を持つ、月の民の姫。
――服装を除けば。
ジャージ。
Tシャツ。
以上。
化粧っ気もほとんどなく、どう見ても「家からそのまま出てきました」という格好だった。
月の都の姫君が、午前2時48分にジャージ姿でコンビニへ入ってくる。
美人というものは、服装が適当でも美人らしい。
少し不公平だとアカリは思う。
「こんな時間にどうしたの?」
「配信終わった」
「ああ、おつかれ」
「お腹空いた」
「なるほど」
理由としては十分だった。
月の民だとか。
月の都の姫君だとか。
絶世の美女だとか。
そんな大層な肩書きよりも、今の彼女を説明するのに一番正確なのは、
配信終わりにジャージ姿でポテチを買いに来た女。
たぶん、それだった。
「ポテチ食べたい」
「そこ」
「知ってるよ」
「じゃあ聞かないでよ」
「聞いてないけど」
「…………」
アカリは黙った。
確かに聞かれていなかった。
かぐやは何事もなかったように菓子売り場へ向かう。
アカリはその背中を見送りながら、小さく首を傾げた。
疲れているのだろうか。
いや。
たぶん、いつも通りだ。
そういうことにして、レジ横の商品を整える。
しばらくして。
「アカリ」
「なに?」
「コンソメと塩、どっちがいいと思う?」
売り場を見る。
かぐやは両手にそれぞれポテトチップスの袋を持っていた。
真剣な顔をしている。
515年生きてきたアカリにも分からない。
なぜ人は――あるいは月の民は――ポテトチップスの味を選ぶとき、あれほど真剣な顔になるのだろう。
「コンソメ」
「じゃあ塩にする」
「なんで聞いたの?」
「参考にした」
「何の?」
かぐやは塩味のポテトチップスをカゴへ入れた。
「コンソメは?」
「今日はいいかな」
「じゃあ最初から塩でよかったじゃん」
「悩むことに意味があるんだよ」
「そうなんだ」
よく分からない。
だが、かぐやが満足しているならそれでいい。
アカリは商品の向きを揃える作業へ戻った。
これで買い物は終わっただろう。
そう思っていた。
「アカリ」
「今度は何?」
「このカップ麺、美味しい?」
「ポテチ買いに来たんじゃなかったの?」
「見てたら食べたくなった」
かぐやはカップ麺を1つ持っている。
やたらと大きい。
黒と赤を基調にした容器には、黄色い太文字で商品名が躍っていた。
『アメリカン肉味噌二郎ヌードル』。
名前からして強い。
パッケージには、山盛りの太麺。
大量の肉。
これでもかと盛られた野菜。
その上からかけられた濃厚な肉味噌。
さらに背後には、なぜか星条旗を思わせる派手な模様まで描かれている。
アメリカなのか。
肉味噌なのか。
二郎なのか。
ヌードルなのか。
情報量が多い。
だが、それこそがこの商品の魅力でもあった。
蓋を開けた瞬間から漂う、にんにくと脂の匂い。
濃い肉味噌。
食べ応えのある太麺。
申し訳程度ではない大量の肉。
健康という言葉を真正面から殴り飛ばすような味。
ジャンクフード好きには堪らない。
そして――。
深夜に食べると、とんでもなく背徳感がある。
現在、午前2時台。
まさに最適な時間だった。
「それは美味しいよ」
「やっぱり?」
「ジャンクフード好きならかなり好きだと思う」
かぐやは改めてパッケージを見る。
「美味しそう」
「美味しいよ。めちゃくちゃ味濃いけど」
「いいじゃん」
「しかも今から食べるんでしょ?」
「そのつもりだけど」
「深夜に?」
「うん」
「ポテチと?」
「うん」
アカリは、かぐやの手にある『アメリカン肉味噌二郎ヌードル』を見る。
それから、カゴの中の塩味のポテトチップスを見る。
「背徳感すごそう」
「それがいいんじゃん」
「ああ、そっちなんだ」
悪びれる様子が一切ない。
むしろ、かぐやは少し楽しそうだった。
ジャンクフードに関しては、かぐやの判断基準は分かりやすい。
味が濃い。
脂っこい。
身体に良さそうには見えない。
深夜に食べたら少し後悔しそう。
だいたいその辺りが揃うほど、評価が上がる。
「じゃあこれにする」
「両方食べるの?」
「配信頑張ったから」
「便利な言葉だね、それ」
「今日は3時間やった」
「それはおつかれ」
「でしょ?」
かぐやは満足そうに『アメリカン肉味噌二郎ヌードル』もカゴへ入れた。
塩味のポテトチップスの隣に、巨大なカップ麺が収まる。
夜食として見ると、かなり強い。
だが本人が幸せなら、それでいいのだろう。
そのままレジへ来るのかと思えば、今度は飲み物の棚へ向かう。
「まだ買うの?」
「喉乾いた」
「そりゃ乾くよ」
「まだ食べてないよ」
「そうだった」
アカリは苦笑した。
かぐやは冷蔵ケースを開け、ペットボトルのお茶を1本取った。
そのとき。
「あ」
指先から、ペットボトルが滑った。
――はずだった。
次の瞬間には、かぐやの手の中に戻っていた。
床に落ちる音はしなかった。
アカリはレジの向こうから、じっとかぐやを見る。
「今、しょうもないことで時間止めたでしょ」
「見えてないでしょ」
「見えなくても分かるよ」
「落としたら迷惑だから」
「能力の使い道が小さいんだよ」
「便利なんだからいいでしょ」
「まあ、そうだけど」
かぐやは何事もなかったように冷蔵ケースを閉めた。
その手には、当然のようにペットボトルが収まっている。
月の都の姫君。
その力の使い道が、ペットボトルの救出である。
アカリは苦笑した。
しかし、こうして店内をうろうろしているかぐやを見ていると、さっきまで感じていた暇はいつの間にか消えていた。
時計を見ることも忘れている。
暇つぶしとしては、かなり優秀なのかもしれない。
本人には言わないけれど。
数分後。
ようやく、かぐやがレジへやってきた。
カゴの中には塩味のポテトチップス。
『アメリカン肉味噌二郎ヌードル』。
ペットボトルのお茶。
午前3時前に食べるものとしては、なかなかの布陣である。
「以上?」
「たぶん」
「たぶんって何」
アカリは商品をスキャンしていく。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
聞き慣れた電子音が響く。
「そういえば」
「ん?」
「ここ来る途中、変なの見た」
「何?」
ピッ、と『アメリカン肉味噌二郎ヌードル』を読み取る。
「頭が鶏の牛」
アカリの手が一瞬止まった。
頭の中で想像する。
牛の身体。
鶏の頭。
「え、キモ」
「キモかった」
「何してたの?」
「道の端で草食べてた」
「牛じゃん」
「頭は鶏だったよ」
「じゃあキモいね」
「でしょ」
想像の中の生き物が、さらに気持ち悪くなった。
「それでどうしたの?」
「しばらく見てた」
「よく見るね」
「気になるでしょ」
「まあ、ちょっとね」
「そしたら、ふっと消えた」
「へえ」
「それだけ」
「そっか」
それで話は終わった。
頭が鶏の牛。
普通なら、もう少し気にするべきなのかもしれない。
写真を撮るとか。
誰かに相談するとか。
逃げるとか。
少なくとも「そっか」で終わらせる話ではない。
しかし、ここは三日月町である。
変なものなら、たまにいる。
人に危害を加えているならともかく、道端で草を食べていただけなら、今のところ問題はない。
牛なのか。
鶏なのか。
怪異なのか。
その辺りはよく分からないが。
草を食べているなら、好きに食べさせておけばいい。
「それでさ」
「うん」
「これ何分?」
「書いてるでしょ」
怪異よりカップ麺の方が重要らしい。
アカリは『アメリカン肉味噌二郎ヌードル』の容器を見る。
「3分」
「3分か」
「待てる?」
「それくらい待てるよ」
「ゲームのマッチングは10秒で文句言うのに」
「あれは長い」
「3分の方が長いよ」
「体感時間が違うんだよ」
「そういうもん?」
「そういうもん」
よく分からない。
だが、ゲームのマッチング画面を前にしたかぐやが10秒ほどで「遅い」と言い始めるのは事実だった。
アカリは袋を取り出す。
「袋いる?」
「いる」
「珍しいね」
「カップ麺もあるから」
「なるほど」
商品を袋へ入れていく。
巨大な『アメリカン肉味噌二郎ヌードル』が、袋の大半を占領した。
「お箸1膳入れとくね」
「ありがと」
「お湯は?」
「家で入れる」
「了解」
会計を終える。
アカリはいつもの調子で頭を下げた。
「ありがとうございましたー」
「まだ帰らないよ」
「帰ってよ」
「ひどくない?」
「アタシ、仕事中なんだけど」
「知ってる」
「じゃあ帰って」
かぐやは袋を持ったまま、レジの横に立っている。
帰る気配がない。
「暇なんだよ」
「アタシは暇じゃないよ」
「さっき暇って言ってたじゃん」
「聞いてたの?」
「外から」
「怖」
「怪異に言って」
「頭が鶏の牛は関係ないでしょ」
アカリは思わず笑いそうになった。
こういうところが、かぐやらしい。
月の民だとか。
『月の都の姫君』だとか。
時間を止められるだとか。
そういう普通ではない部分はいくらでもある。
けれど実際に一緒に暮らしてみれば、深夜にポテチを買いに来て、買う味を悩み、カップ麺まで追加して、落としかけたペットボトルのために時間を止め、友人の仕事場で暇を潰そうとする。
少なくともアカリにとっては、そちらの方がずっと「かぐや」だった。
ピロリン。
自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませー」
アカリの声が、一瞬で店員のものに戻る。
入ってきた客は飲み物を1本手に取り、そのままレジへやってきた。
「こちらですね」
ピッ。
「袋は大丈夫ですか?」
「はい」
「ありがとうございます」
会計を済ませる。
「ありがとうございましたー」
自動ドアが閉まった。
店内が再び静かになる。
アカリは息を吐いた。
そして横を見る。
かぐやがまだいる。
「帰ってなかったの?」
「いたら駄目なの?」
「駄目じゃないけど」
「じゃあいる」
「めんどくさ」
「聞こえてるよ」
「聞こえるように言ったからね」
かぐやは気にした様子もない。
むしろ少し楽しそうだった。
「そういえば今日の配信どうだったの?」
アカリが聞く。
すると。
ついさっきまで普通だったかぐやの表情が、露骨に曇った。
「最悪」
「なんで?」
「クソゲー引いた」
「ああ……」
それだけで、だいたい察した。
かぐやはゲームが好きだ。
上手い。
負けず嫌いでもある。
だからこそ、理不尽なゲームに当たったときの機嫌は、とても分かりやすい。
「開始20分で同じところ3回落ちた」
「それはゲームが悪いの?」
「ゲームが悪い」
「ほんとに?」
「ゲームが悪い」
2回言った。
どうやら相当腹が立っているらしい。
「コメントは?」
「笑ってた」
「楽しそうじゃん」
「わたしは楽しくない」
「配信としては成功じゃない?」
「わたしが楽しくない」
「大事なことだから2回言った?」
「うん」
アカリは吹き出した。
視聴者からすれば、かぐやが本気で腹を立てている姿も含めて面白いのだろう。
本人にとってはたまったものではないようだが。
「じゃあポテチとカップ麺で忘れなよ」
「そうする」
「食べたら寝なよ」
「ゲームする」
「寝なよ」
「まだ眠くない」
「明日も配信するんでしょ?」
「するよ」
「じゃあ寝た方がいいって」
「大丈夫」
アカリはじっとかぐやを見る。
その言葉には覚えがある。
「かぐやの大丈夫は信用できないよ」
「またそれ言ってる」
「実績があるから」
「失礼だなぁ」
かぐやは不満そうに言いながら、ようやく出口へ向かった。
「じゃあ帰る」
「うん」
「仕事頑張って」
「ありがと」
「帰ったらゲームしよ」
「話聞いてた?」
「一応」
「今日は寝るよ」
「起きてたら?」
「……起きてたらね」
言った瞬間、アカリは少し後悔した。
この返事をすると、たぶん本当に待っている。
「じゃあ待ってる」
ほら。
「待たなくていいから」
ピロリン。
自動ドアが開く。
外の冷たい空気が、かぐやの長い黒髪をわずかに揺らした。
「じゃあね、アカリ」
「おやすみ、かぐや」
「まだ寝ないよ」
「寝なよ」
自動ドアが閉まった。
「…………」
静かになった。
さっきまでかぐやが立っていた場所には、当然もう誰もいない。
BGM。
冷却機の駆動音。
窓の向こうで色を変える信号。
いつもの深夜のコンビニに戻った。
アカリはレジに肘をつきそうになって、仕事中なのを思い出してやめる。
「自由だなぁ……」
小さく呟いた。
515歳の吸血姫から見ても、かぐやはかなり自由だった。
もっとも。
退屈だった数十分が思ったより早く過ぎたことについては、黙っておくことにした。
アカリは乱れた商品の向きを直した。
◇
それからしばらくして。
休憩に入ったアカリはバックヤードの椅子へ腰を下ろした。
「つかれた……」
大して忙しかったわけではない。
それでも仕事中の休憩というものは、座った瞬間に身体から力が抜ける。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面を点灯。
通知が1件。
かぐやからだった。
「…………」
嫌な予感がする。
メッセージを開く。
『コンソメも買えばよかった』
「…………」
アカリはしばらく画面を眺めた。
さっき。
自分は。
コンソメと言った。
『知らないよ』
送信。
数秒後。
既読。
『買ってきて』
「仕事中だよ」
思わず声に出た。
『自分で来て』
『もう家』
『じゃあ諦めて』
少し間が空いた。
『明日買う』
『そうしな』
スマートフォンを伏せる。
静かになった。
時計を見る。
午前3時を少し回ったところだった。
外はまだ暗い。
夜明けまでは、もう少しある。
アカリは椅子の背もたれへ身体を預けた。
頭が鶏の牛が、どこへ消えたのかは知らない。
あれが何だったのかも知らない。
かぐやが本当に寝るのかも知らない。
たぶん、寝ない。
そして明日になれば、きっとコンソメ味のポテトチップスを買うのだろう。
「……最初から両方買えばよかったじゃん」
誰もいないバックヤードで呟く。
返事はない。
当然である。
「さて」
アカリは立ち上がった。
休憩終了。
制服の裾を軽く整え、売り場へ戻る。
朝までもうひと仕事。
吸血姫の夜は、まだ少しだけ続く。




