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第1話「吸血姫は現代社会が好き」

 午前2時13分。


「温めますか?」


「お願いします」


「はい」


 ピッ、ピッ、とバーコードを読み取る電子音が、静まり返った店内に響いた。


 深夜のコンビニには、昼間とは違う静けさがある。


 天井を埋める蛍光灯は、昼夜の区別など知らないように白々と店内を照らしている。飲料ケースの冷却機が低く唸り、店内放送から流れる明るい音楽だけが、この時間には妙に元気だった。


 紅月アカリは弁当を電子レンジへ入れ、慣れた手つきでボタンを押した。


 紺色の制服。


 胸元には『紅月』と書かれた名札。


 長い赤髪は、今日は高めの位置でひとつにまとめている。


 昨日はお団子。その前はサイドテールだった。


 仕事の邪魔にならないように、という理由もあるが、単純にアカリは髪をいじるのが好きだった。ツインテールにしたり、左右で小さなお団子を作ったり、その日の気分でころころ変える。


 小柄で、顔立ちはかなり若い。


 制服でも着せれば女子高生で通りそうだし、今のように仕事着でレジに立っていれば20歳前後にも見える。


 年齢の分かりにくい、童顔の女性。


 少なくとも、今レジの前で財布をしまっている客が、それ以上の何かを想像することはないだろう。


 ただし――実年齢、515歳。


 種族、吸血鬼。


 それも、ただの吸血鬼ではない。


 かつて『紅月の姫君』などと呼ばれたこともある、最高位の吸血姫。


 そんな彼女の現在の職業は――コンビニ店員。


 週5の夜勤。


「袋いります?」


「大丈夫です」


「お箸は?」


「ください」


「1膳入れときますね」


 電子レンジが、チン、と軽快な音を立てた。


 温め終えた弁当を取り出し、箸と一緒に客へ渡す。


「ありがとうございましたー」


 自動ドアが開く。


 夜の冷たい空気がわずかに店内へ入り込み、客の背中を追うようにドアが閉じた。


 また静かになった。


 ここは三日月町、有明交差点に面したコンビニ『カマル三日月中央店』。


 深夜帯は、だいたいこんなものだ。


 日付が変わる前後の忙しい時間を過ぎれば、客足は急に遠のく。


 誰かが来る。


 弁当を買う。


 煙草を買う。


 酒を買う。


 帰っていく。


 そして、また静かになる。


 アカリはレジカウンターに両手をつき、壁の時計を見上げた。


 午前2時19分。


「あと3時間かぁ……」


 思わず漏れた声は、誰もいない店内へ溶けていった。


 500年前なら、この時間はもっと暗かった。


 月明かりのない夜など、本当に何も見えなかった。


 人間に見つからないよう夜の森を歩き、獣の鳴き声や木々が風に揺れる音へ耳を澄ませていた時代。


 100年前でさえ、真夜中までこれほど明るい場所は珍しかった。


 それが今ではどうだ。


 夜中の2時を過ぎても、店の中は昼間のように明るい。


 食べ物がある。


 飲み物がある。


 雑誌も日用品もある。


 薬も電池も傘も売っている。


 スマートフォンの充電器まで置いてある。


 しかも。


 ここで働けば、金銭まで貰える。


 素晴らしい。


 アカリは割と本気でそう思っている。


 現代社会とは、実に素晴らしい。


「紅月さん、品出しお願いしまーす」


 バックヤードから声が飛んできた。


「はーい」


 間延びした返事をしながら、アカリはカウンターから離れる。


 ――労働さえなければ、もっと素晴らしい。


     ◇


 午前5時40分。


「お疲れさまでしたー」


「お疲れー」


 勤務を終えたアカリは、自動ドアを抜けた。


 店内の均一な空調から解放された瞬間、ひんやりとした朝の空気が頬を撫でる。


 有明交差点には、まだ夜の名残があった。


 街灯は消えていない。


 信号機だけが律儀に赤、青、黄色を繰り返している。


 道路を走る車もまばらで、昼間なら絶えず聞こえているはずのエンジン音も、今は遠くから時折届く程度だった。


 けれど、東の空だけは違う。


 夜の黒が少しずつ薄まり、その向こうから青白い朝が滲み始めている。


 アカリはこの時間が好きだった。


 夜が終わる。


 人間たちの1日が始まる。


 新聞配達のバイクが走り、店のシャッターが開き、始発電車が町を起こしていく。


 そして自分にとっては、1日が終わる。


 昔なら、夜明けは身を隠す時間だった。


 今は違う。


 日光など、もう何ともない。


 灰になることもなければ、身体が弱ることも、気分が悪くなることもない。


 ただ、長時間明るい場所にいると少し目が疲れる。


 それだけだ。


「帰ろ」


 アカリはポケットからスマートフォンを取り出した。


 画面を点灯させる。


 通知、11件。


 動画サイトから3件。


 ゲームから4件。


 通販サイトから1件。


 そして、かぐやから3件。


『今日やる?』


『仕事終わったら連絡して』


『生きてる?』


「生きてるわ」


 515歳の吸血姫に送るメッセージではない。


 もっとも、かぐやならアカリがそう簡単に死なないことくらい承知している。


『今終わった』


 短く返信する。


 すぐ既読がついた。


「早っ」


 返事を待つ前にスマートフォンをポケットへ戻し、イヤホンを耳に入れる。


 再生したのは、最近アカリが気に入っているアニメの主題歌だった。


 軽快なイントロが流れ始める。


 深夜勤務を終えたばかりだというのに、イヤホンの中ではやたらと前向きな歌声が響いている。


「ふん、ふーん……」


 鼻歌混じりに、アカリは歩き出した。


 まだ半分眠っている三日月町。


 イヤホンから流れるアニソン。


 白み始めた空。


 人気のない道。


 たまに横を通り過ぎていく車。


 アカリにとっては、いつもの帰り道だった。


 手のひらほどの小さな板1枚で、好きな音楽がいつでも聴ける。


 遠く離れた相手と話せる。


 世界中の出来事を知ることができる。


 欲しいものを注文すれば、自分が1歩も外へ出なくても家まで届く。


 500年前の自分にスマートフォンを見せたら、どう思うだろう。


 きっと魔術だと思う。


 下手をすれば、呪具だと思って警戒するかもしれない。


 けれど、これは呪具でも魔術でもない。


 人間の技術の結晶だ。


 長く生きていると、ときどき人間という生き物が分からなくなる。


 争って。


 壊して。


 同じような失敗を何度も繰り返す。


 そのくせ、少しでも便利に、少しでも楽に、少しでも遠くへ――と、懲りずに新しいものを作り続ける。


「人間って、便利なもの作るの上手いよなぁ……」


 感心とも呆れともつかない声が漏れた。


 曲がサビに入る。


 アカリは小さく鼻歌を重ねながら、路地へ入った。


 そのときだった。


 視界の端に、何かが映った。


「ん?」


 アカリは足を止める。


 イヤホンの中では、相変わらず明るいアニソンが流れている。


 けれど。


 電柱の上に、何かがいた。


 細長い人影。


 そう見えたのは、一瞬だけだった。


 手足が異様に長い。


 関節の位置も、人間のそれとは微妙に違っている。


 全身が墨を塗り潰したように黒く、その輪郭だけが朝靄の中へ溶けるように揺らいでいる。


 顔らしき場所には、白く光る目が2つ。


 瞬きもしない。


 ただ。


 じっと。


 こちらを見下ろしている。


 イヤホンからは、勇気だの希望だの未来だのを歌う、底抜けに明るいサビが流れていた。


 目の前の光景とは、まるで合っていない。


 もし普通の人間が同じものを見たなら。


 悲鳴を上げて逃げ出しても、おかしくはなかった。


「…………」


 アカリはイヤホンを片耳だけ外した。


 途端に、歌声が半分遠ざかる。


 代わりに聞こえてきたのは、朝の風が電線を揺らす微かな音だった。


 向こうも動かない。


 アカリも動かない。


 数秒。


「……おはよ」


 とりあえず挨拶した。


 返事はない。


 黒い何かは首らしき部分をわずかに傾けると、長い手足を奇妙に折り曲げた。


 そして電柱の裏側へ、するりと回り込む。


 アカリの視界から消える。


「…………」


 少し待つ。


 出てこない。


「なんだったんだろ」


 追いかけようと思えば追いかけられた。


 けれど。


 片耳では、外しっぱなしのイヤホンから小さく曲の続きが漏れている。


「まあ、いっか」


 アカリはイヤホンを耳へ戻した。


 ちょうど曲は最後のサビに入ったところだった。


「お、ここ好き」


 何事もなかったように歩き出す。


 三日月町では、たまにこういうものを見かける。


 危害を加えてくるならともかく、ただ見ているだけの怪異をいちいち追いかけていたらきりがない。


 それより今は。


 好きな曲を聴きながら帰って、かぐやとゲームがしたかった。


     ◇


 三日月町の一角。


 大通りから少し離れた場所に、1棟の古びたアパートが建っている。


 月光荘。


 築年数相応の古さは隠せない。


 外壁には年月を感じさせる色褪せがあり、共用廊下を歩けば足音がよく響く。壁もそれほど厚くない。


 新しくもない。


 広くもない。


 高級でもない。


 それでもアカリは、ここが気に入っていた。


 500年以上生きていれば、住んだ場所など数え切れない。


 大きな屋敷で暮らしたこともある。


 石造りの城にいたこともある。


 名前も忘れた宿に何ヶ月も滞在したことだってある。


 けれど、住む場所の価値は広さや豪華さだけでは決まらない。


 少なくとも今のアカリにとって、月光荘は帰ってきたときに「ただいま」と言える場所だった。


 共用部へ入ったところで、ちょうど1室の扉が開いた。


 中から、大きなゴミ袋を片手にした小柄な女性が出てくる。


「あ」


「おかえり」


 月光荘の大家、澪だった。


 黒い髪を結ばず下ろし、朝からゴミ出しへ向かうところらしい。


「ただいまー」


「アカリちゃん、今帰り?」


「うん」


「お疲れ」


「ありがと」


 アカリの視線が、澪の持つゴミ袋へ落ちる。


 そして。


 思い出した。


「あ。今日ゴミの日?」


「そうだけど」


「…………」


 沈黙。


 澪がじっとこちらを見る。


「忘れてた?」


「忘れてない」


「その間は何?」


「確認しただけ」


「持ってくなら待つけど」


「…………」


 アカリの脳裏に、自室のゴミ袋が浮かんだ。


 部屋へ行く。


 鍵を開ける。


 ゴミ袋を持つ。


 ここへ戻る。


 外へ出る。


 ゴミ捨て場まで行く。


 面倒くさい。


「……来週でいいや」


「そうやって先延ばしにするから溜まるんだよ」


「大丈夫。まだ袋1個だから」


「基準がおかしい」


 澪は呆れた顔でため息をついた。


 そのままゴミ袋を持って歩き出す。


「いってらっしゃーい」


「ゴミ捨てに行くだけだよ」


 アカリは小さく笑いながら、自分の部屋へ向かった。


 どこかの部屋から、目覚まし時計の音が聞こえる。


 少しして止まった。


 別の部屋からは、誰かが寝返りでも打ったのか、壁越しに小さな物音がする。


 朝の月光荘は静かだった。


 けれど、無人の静けさではない。


 誰かは眠っている。


 誰かはこれから仕事へ行く。


 誰かは学校へ行く準備をする。


 そして自分は、これからゲームをして寝る。


 種族も年齢も生活時間も、何もかも違う。


 普通なら一緒に暮らすことなどなかっただろう。


 けれど、ここでは。


 それでいい。


     ◇


 自室の玄関を開ける。


「ただいまー……っと」


 誰もいない部屋へ、もう1度だけ言った。


 靴を脱ぐ。


 扉を閉めて、鍵をかける。


 ようやく完全に帰ってきた気がした。


 髪をまとめていたゴムを外す。


 解放された赤髪が、さらりと背中へ落ちた。


 鏡に映った髪を手櫛で軽く整えながら、アカリは考える。


 明日はどうしよう。


 お団子でもいい。


 久しぶりにツインテールも悪くない。


 そんなことを考えながら制服を脱ぐ。


「つっかれたぁ……」


 そのままベッドへ飛び込みたくなる。


 しかし、1度寝転がったら最後だ。


 着替えることすら面倒になって、そのまま寝る未来が容易に想像できた。


 アカリはどうにか誘惑を振り切り、部屋着へ着替える。


 今日のTシャツには、胸いっぱいに大きな文字で、


『圧倒的こんにゃく』


 と書かれていた。


 意味は分からない。


 アカリにも分からない。


 通販サイトで偶然見つけ、一目惚れした。


 鏡の前に立つ。


 下ろした長い赤髪。


 赤い瞳。


 そして、


『圧倒的こんにゃく』


「うん」


 いい。


 何がいいのかと聞かれても説明はできない。


 だが、いい。


 満足して冷蔵庫を開ける。


 冷気が頬に触れた。


 飲み物。


 適当に買っておいた食べ物。


 プリン。


 昨日買った納豆巻き。


 そして奥には、血液の入った容器がいくつか並んでいる。


 それを見て、アカリはふと昔を思い出した。


 かつて、血を得ることは生きることとほとんど同義だった。


 人間を襲ったこともある。


 そうしなければ生きられない時代もあった。


 罪悪感がなかったわけではない。


 けれど、腹は減る。


 喉は渇く。


 生きたい。


 そんな本能は、吸血鬼だろうと人間だろうと変わらない。


 今は違う。


 保存できる。


 必要なときに。


 必要な量だけ。


 誰かの首筋へ牙を立てる必要もない。


「冷蔵庫って偉大だよなぁ」


 アカリが選ぶ『人類の偉大な発明ランキング』なるものが存在するなら、間違いなく上位だ。


 グラスへ少量の血液を注ぐ。


 プリンを取り出す。


 納豆巻きも取り出す。


 机へ並べる。


 血液。


 プリン。


 納豆巻き。


「完璧」


 515歳の吸血姫の晩ごはんである。


 外はすっかり朝だが、夜勤明けのアカリにとっては立派な晩ごはんだ。


 まずプリンを1口。


「んー」


 甘い。


 次に納豆巻きを1つ。


 海苔と酢飯と納豆の味が口いっぱいに広がる。


 そして血液を1口。


 アカリは満足そうに息を吐いた。


 本人は何ひとつおかしいと思っていない。


 プリンは美味しい。


 納豆巻きも美味しい。


 なら、同じ食事で食べても問題ない。


 それがアカリの理屈だった。


 スマートフォンが震えた。


『いける?』


 かぐやだ。


『ご飯食べたら』


 送信。


『了解』


 返信が早い。


 アカリは納豆巻きをもう1つ口へ放り込みながら、ゲーム機の電源を入れた。


     ◇


 午前6時13分。


 ヘッドセットを装着する。


 ボイスチャットへ接続。


『あ、来た』


「おつかれ」


『おつかれー。仕事どうだった?』


「普通。暇だった」


『じゃあ元気だね』


「その理屈なら元気」


『ところで何食べてたの?』


「プリンと納豆巻き」


 数秒。


『……一緒に?』


「うん」


『なんで?』


「両方食べたかったから」


『そういう意味じゃなくて』


「あと血」


『さらに増えた』


「晩ごはん」


『食べ合わせどうなってるの?』


「別々に食べてるんだからよくない?」


『そういう問題なのかな……』


「美味しいよ?」


『単体ではね』


「じゃあ問題ないじゃん」


『問題しかない気がする』


「吸血鬼に月の民の食事ルール押しつけないでよ」


『月の民というか、人間でしょ』


「似たようなもんじゃん」


『全然違うけど?』


「じゃあ月ではプリンと納豆巻き一緒に食べないの?」


『食べないよ』


「ほら、人間と一緒じゃん」


『そこだけで一緒にしないでくれる?』


「じゃあ問題ないね」


『どういう結論?』


 アカリは笑いながらゲームを起動する。


 画面いっぱいに派手なエフェクトが走り、タイトルロゴが現れる。


『TOON RUSH』


『今日どうする?』


「3戦くらい」


『了解』


「3戦だからね」


『分かってるって』


「昨日もそれ聞いた」


『今日は大丈夫』


「かぐやの大丈夫は信用できないよ」


『失礼だなぁ』


「実績に基づいた評価です」


 マッチング開始。


 1戦目。


 勝利。


『今の気持ちいいね』


「最後の詰めよかった」


 2戦目。


 敗北。


「あー、今の無理」


『もう1回やろ』


「あと1戦ね」


 3戦目。


 敗北。


『…………』


「…………」


 結果画面が表示される。


 2人とも何も言わない。


 数秒の沈黙。


『終われる?』


「終われるわけない」


『だよね』


 4戦目。


 勝利。


「よし!」


 思わず身体を起こす。


『今ので終わる?』


「……いや」


『だと思った』


「なんか今の勝ち方、納得いかない」


『勝ったのに?』


「もっと綺麗に勝てる」


『沼に入る人の発言だ』


「次で最後」


 5戦目。


 6戦目。


 7戦目。


「これで最後」


『さっきも聞いた』


「今度こそ最後」


『アカリの最後は信用してない』


「かぐやにだけは言われたくない」


 ヘッドセットの向こうで、かぐやが楽しそうに笑っている。


 その声につられて、アカリも笑った。


 500年前には考えられなかった。


 遠く離れた相手と、顔も合わせず、同じ遊びをしながら笑う。


 それが今では当たり前になっている。


 結局、本当に最後の1戦に勝ったところで、ようやくゲームを終了した。


     ◇


「……眠い」


 時計を見る。


 午前7時28分。


「3戦って言ったのに……」


『言い出したのアカリだけどね』


「うるさい」


『じゃ、おやすみ』


「ん。おやすみ」


 ボイスチャットを切る。


 途端に、部屋が静かになった。


 ついさっきまで耳元にあったかぐやの声が消え、エアコンの小さな作動音だけが残る。


 カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。


 細い光が床を横切り、ベッドの端まで伸びている。


「まぶし……」


 アカリは目を細めた。


 太陽そのものは、もう怖くない。


 長い年月の中で、アカリは日光を完全に克服している。


 浴びたところで灰になることもない。


 火傷もしない。


 身体が重くなることも、気分が悪くなることもない。


 ただ、長時間強い光の下にいると目が疲れる。


 夜勤明けの今となっては、単純に睡眠の邪魔だった。


 遮光カーテンを閉める。


 部屋が薄暗くなる。


「これでよし」


 エアコンの温度を確認する。


 スマートフォンを充電器につなぐ。


 布団へ潜り込む。


 枕元にはスマートフォン。


 少し離れたところにはゲーム機。


 冷蔵庫には食べ物がある。


 欲しいものがあればネットで買える。


 風呂はボタン1つで沸く。


 夏は涼しく。


 冬は暖かい。


 遠く離れた相手とも、その日のうちに話せる。


 退屈なら映画を見る。


 本を読む。


 音楽を聴く。


 ゲームをする。


 500年前には、そのどれもなかった。


「…………」


 アカリは暗い部屋の天井を眺めた。


 515年。


 その間に、いくつものものを見送った。


 もう会えない人間がいる。


 よく歩いた道が消えた。


 暮らした町がなくなった。


 国そのものが地図から消えたこともある。


 名前を思い出せない人もいる。


 顔だけ覚えている人もいる。


 逆に、名前だけがいつまでも残っている人もいる。


 昔を懐かしく思うことはある。


 あの頃に戻れたら。


 そう考えたことだってある。


 人間たちは、ときどき言う。


『昔は良かった』


 そんな言葉を聞くたび、アカリは思う。


 本当に?


 夜は暗かった。


 冬は寒かった。


 夏は暑かった。


 遠くへ行くには何日もかかった。


 離れた相手の声を聞くことすらできなかった。


 病に倒れれば、人はあっけなく死んだ。


 明日を迎えられることが、当たり前ではなかった。


 もちろん、昔にしかなかったものもある。


 昔にしか見られなかった景色もある。


 昔にしかいなかった人もいる。


 それらを忘れたわけではない。


 忘れられるはずもない。


 けれど。


 懐かしいことと、戻りたいことは同じではない。


「やっぱ、今の方がいいな」


 アカリは呟いた。


 500年もあれば、世界はずいぶん変わる。


 できなかったことが、できるようになる。


 なかったものが、生まれてくる。


 だったら、この先はどうなるのだろう。


 10年後。


 100年後。


 もっと、その先。


 次は何ができるようになるのか。


 それを見られることだけは、長生きも悪くないと思う。


 スマートフォンが震えた。


「ん……?」


 画面を見る。


 かぐやからだった。


『明日もやろ』


「…………」


 アカリは笑った。


 ついさっきまで一緒に遊んでいたというのに、もう明日の話をしている。


『起きてたら』


 送信。


 すぐに既読がついた。


 今度こそスマートフォンを伏せ、目を閉じる。


 外ではもう、人間たちの1日が始まっている。


 吸血姫、紅月アカリは――


 現代社会が好きだった。


 便利だから。


 楽しいから。


 昔より生きやすいから。


 そして何より。


 500年以上生きた今でも、この世界にはまだ「次」があるから。


 そんなことを考えながら眠りにつく吸血姫の胸には、


『圧倒的こんにゃく』


 と書かれていた。


 月光荘の朝は、今日も平和だった。

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