第9話 温泉
大浴場へ戻ると、閉ざされていた扉は開かれ、従業員たちが慌ただしく行き来していた。
先ほどの女性が俺を見るなり目を丸くする。
「本当に、もう終わったんですか……?」
「ああ。火脈も戻り始めていた」
「では、魔物をお一人で?」
「それより、温泉はどうだ?」
俺が尋ねると、女性は我に返ったように何度か瞬きをし、慌てて施設の奥へ目を向けた。
「ただいま湯を入れ直しています。十分に温まるまで、もう少しだけお待ちいただければ」
「分かった。待たせてもらう」
休憩所の長椅子へ腰を下ろし、壁へ背を預けた。
竜との戦いより、名前を知られ、歓声を浴びたことの方が疲れた気がした。
期待も感謝も悪意ではないからこそ、払いのけるたびに自分が間違っているような気がしてくる。
しばらくすると、従業員の女性が戻ってきた。
「お待たせいたしました。まだ完全に元通りではありませんが、入浴には問題ない温度になっています」
「助かる」
「こちらこそ、町の火脈を取り戻していただき、本当にありがとうございます」
深く頭を下げられ、また何かが始まる前に、俺は案内された脱衣所へ向かった。
服を脱ぎ、剣だけは手の届く場所へ置いて浴場へ入る。
扉を開けた瞬間、温かな湯気が全身を包んだ。
石造りの広い浴場には、いくつもの湯船が段差をつけて並んでいる。
最も奥には外へ続く大きな露天風呂があり、湯の向こうには山と町並みを一望できる景色が広がっていた。
「これは……確かに一番だな」
身体を洗い、ゆっくりと湯へ足を入れる。
熱が足先から膝へ、腰へと上がってくる。
肩まで沈むと、固まっていた身体が湯の中へ溶け出すように緩んでいった。
「……はぁ」
息が勝手に漏れた。
竜の炎に炙られた熱とはまるで違う。
こちらは身体の外から押しつけるのではなく、皮膚の奥へ染み込み、余計な力だけをほどいていくようだった。
首まで湯へ沈め、露天風呂の縁へ頭を預ける。
遠くでは町の屋根の間から幾筋もの湯煙が上がり、その向こうには夕方へ傾き始めた空が広がっていた。
風が吹くたび、火照った頬を冷たい空気が撫でていく。
温泉に入りたい。
ただそれだけのために竜を倒した。
人助けだとか、町を守るためだとか、そんな立派な理由ではない。
自分が入りたかったから、邪魔なものを片づけた。
それでも火脈は戻り、町の人間も困らずに済む。
「これくらいでいいんだよな」
誰に言うでもなく呟き、目を閉じた。
湯の流れる音と、風が木々を揺らす音だけが聞こえる。
しばらく浸かっていたが、ほかの客が入ってくる気配はなかった。
営業を再開したばかりだからだろうと思っていたものの、さらに時間が経っても、脱衣所の扉が開く音すらしない。
普段なら落ち着かなかったかもしれない。
だが今は、広い温泉を一人で使えることの方がありがたかった。
腕を伸ばしても誰かへ触れることはなく、会話を求められることもない。
誰の視線も気にせず、好きなだけ湯へ浸かっていられる。
露天風呂と内湯を何度か行き来し、身体が芯まで温まったところで、ようやく湯から上がった。
「満足した……」
着替えを終え、濡れた髪を布で拭きながら廊下を歩く。
三日近く眠り、食べたかった料理を腹いっぱい食べ、入りたかった温泉にも入った。
王都から逃げ出して以来、初めて自分のためだけに一日を使えた気がする。
気分よく施設の入口へ向かい、扉を開けた。
その瞬間、外から押し寄せた声に足が止まった。
「あっ、出てこられたぞ!」
「勇者様だ!」
「本当にリヴェル様がいらっしゃる!」
建物の前には、数え切れないほどの人が集まっていた。
観光客だけではなく、町の住人や商人、冒険者らしき者まで混ざり、入口の先を埋め尽くしている。
「リヴェル様、こちらへは魔物討伐のために?」
「握手をしていただけませんか!」
「うちの宿にも、ぜひお越しください!」
声と視線が一斉にこちらへ向けられる。
湯でほどけたはずの肩へ、再び見えない重さが乗った。
「皆様、押さないでください!」
群衆の前へ立ち、両手を広げて人々を制していたのはバランだった。
俺と目が合うと、申し訳なさそうに眉を下げる。
「リヴェル様。騒がしくしてしまい、申し訳ございません」
「これは、何がどうなってるんだ?」
「火脈の魔物を討伐されたのがリヴェル様だと、冒険者の方々からギルドへ報告が入りまして」
バランは困ったように続けた。
「それだけでしたら、まだ居場所までは分からなかったのですが……山にいた冒険者のお一人が、こちらへいらっしゃったのです」
「ここに?」
「はい。リヴェル様へ渡したいものがある、と」
バランが受付へ声をかけると、職員が油紙に包まれた小さな包みを持ってきた。
「『食べてみたそうだったから』と、こちらを」
「……まさか」
包みの端を少しだけ開く。
中に入っていたのは、血抜きまで済ませられた赤みの強い肉だった。
「竜の肉か……」
山で何気なく漏らした言葉を、しっかり覚えられていたらしい。
「冒険者の方が『勇者様は温泉へ行った』と仰ったものですから、それを聞いた方々が……」
「……なるほど」
どうやら、俺の居場所が広まった最後の原因は、この肉らしい。
とはいえ、わざわざ解体して届けてくれたものを突き返す気にもなれない。
「お預かりしておきましょうか?」
「いや。このまま持っていくよ」
包みを受け取り、脇へ抱える。
バランは背後の人だかりへ視線を向けた。
「せめて入浴されている間だけでも、お一人でゆっくりお休みいただこうと思い、施設への入場は止めていたのですが……」
「それで誰も入ってこなかったのか」
「はい。ですが、噂が広まるのは想像していた以上に早かったようです」
皆、悪意があって集まったわけではない。
バランも俺を休ませようとしてくれたらしい。
「入れないようにしてくれたことは助かった。ありがとう」
「いえ。本来なら、この方々も近づけないようにすべきでした」
「そこまでしてもらうのは逆に申し訳ない」
そう答えたものの、人だかりは増え続けている。
通りの奥からも、何事かと新しい観光客がこちらへ向かってきていた。
このままでは宿を勧められ、宴へ誘われ、竜を倒した経緯を何度も聞かれることになる。
「バランさん」
「はい」
「裏口はある?」
彼は一瞬だけ目を瞬かせたあと、すぐにこちらの意図を察したらしい。
「従業員用の通用口がございます。こちらへ」
「助かる」
「ですが、裏手にも人が回り始めている可能性が——」
「見つかる前に出る」
バランに案内された通用口から外へ出ると、細い路地を一息に駆け抜けた。
人気の少ない町外れまで来て、ようやく足を緩める。
悪いことをした気もしたが、あの中へ戻る気にはなれなかった。
食事はうまかった。
温泉も文句なしだった。
だが、俺がこの町にいると知られた以上、静かに暮らすのは難しそうだった。
そのまま町を離れようと門へ向かった時、白い毛玉のようなものが勢いよくこちらへ突進してきた。
「むぅむぅ!」
「うわっ」
片腕に抱えていた包みを庇いながら、空いた腕で飛び込んできたムムを受け止める。
ふわふわの毛はいつもより少し重く、全身がしっとりと湿っていた。
近くで嗅ぐと、微かに硫黄の匂いがする。
「ムム。町の中で急に走り出しては危ないですよ」
少し遅れて、買い物袋を抱えたルーエが小走りでやってきた。
「すみません。リヴェルさんを見つけた途端、飛び出してしまいまして」
「いや、大丈夫だ。ちょうど受け止められたからな」
「むぅ」
ムムは悪びれる様子もなく、俺の胸元へ額を擦りつけている。
「リヴェルさん。美味しいものは食べられましたか?」
「ああ。火脈で熱した石の上で、肉や野菜を焼く料理があってな。腹いっぱい堪能できた」
「石焼料理ですね。美味しそうです」
「ルーエたちは何を食べたんだ?」
「温泉の蒸気を使った蒸し料理をいただきました。そのあと、先ほどまで温泉に入っていたところです」
腕の中のムムへ目を落とす。
「ムムも入れたのか?」
「はい。魔獣も利用できる個室の露天風呂がありましたので」
「むぅ」
ムムが気持ちよさそうに目を細める。
「ちょうど運がよかったのか、急に人が少なくなりまして。待たずに入ることができました」
「それはたぶん、運じゃないな……」
大浴場の前にできていた人だかりを思い出す。
俺を見ようと観光客が集まり、その分だけ町のほかの温泉が空いたのだろう。
結果としてルーエたちがゆっくり入れたのなら、悪いことばかりではないのかもしれない。
「それで、リヴェルさんは……」
ルーエは俺の姿を見たあと、町の奥から聞こえてくる喧騒へ目を向けた。
遠くでは今も、勇者がどこへ行ったのかと呼びかける声が響いている。
「もう少し、こちらに滞在されるのですか?」
「あー……いや。ここからは離れようと思っていたところだ」
料理も温泉も気に入ったが、勇者が滞在していると広まった町で静かに暮らすのは難しい。
別の場所を探した方が早いだろう。
「ルーエは、これからどこへ行くんだ?」
「この町から南に、さまざまな香辛料を取り扱う町があると聞きました。次は、そちらへ向かおうと思っています」
「香辛料の町か」
前世の料理を思い出す。
この世界ではあまり見かけない香りや味も、そこなら手に入るかもしれない。
「その町は、静かそうか?」
「どうでしょうか」
ルーエは少し考えたあと、首を傾げた。
「行ってみなければ、分かりませんね」
「そうだよな」
当然の答えだった。
静かな町かもしれない。
フォルネア以上に賑やかな町かもしれない。
俺の顔を知る者がいる可能性だってある。
それでも、一人で当てもなく次の土地を探すよりは、ソムニウムに揺られながら向かう方がいい。
温かい食事があり、安心して眠れる部屋がある。
ルーエは、俺が話したくないことへ無理に踏み込んでこない。
ムムも、ときどき飛びついてくるくらいだ。
ここで別れたはずなのに、もう一度泊めてほしいと頼むことへ、僅かな気恥ずかしさがあった。
それでも、口にしなければ伝わらない。
「じゃあ、その町までまた泊めてもらえないか?」
「はい。もちろん大丈夫です」
ルーエは理由を尋ねることも、先ほど別れたことを持ち出すこともなく、いつもと変わらない調子で頷いた。
「むぅ!」
俺の腕の中で、ムムも嬉しそうに鳴く。
「ただし、出発する前にもう少し身体を乾かそうな。俺まで濡れてきた」
「むぅ……」
ムムは目を逸らした。
◆
ソムニウムへ戻ると、買い物袋を整理していたルーエが平たい黒色の石を取り出した。
「それは?」
「石焼料理に使われていた石です。私も使ってみたくて、買ってきました」
昼の店で見たものと同じ火脈石だ。
俺は持ち帰ってきた包みへ目を落とした。
「……ルーエ。だったら、これ焼いてみないか?」
「こちらは?」
包みを卓の上へ置き、油紙を開く。
中には、冒険者たちが食べやすいように処理してくれた赤身の肉が入っていた。
「さっきの騒ぎのお礼みたいなもので、冒険者から貰ったんだ。ちょうど肉を焼く石もあるし、食べてみようかと思って」
「私もいただいていいのですか?」
「ああ。二、三人分くらいあるから、ムムも一緒に食べよう」
「むぅ!」
「ありがとうございます」
最も早く返事をしたムムを横目に、ルーエが肉を厚めに切り分けていく。
十分に熱した火脈石へ乗せると、じゅう、と低い音が鳴った。
赤い肉の表面が締まり、香ばしい匂いが立ち上ってくる。
脂は少ないが、その分、焼けた肉そのものの濃い香りが強かった。
「いい匂いだな」
「はい」
「むぅ……!」
ムムは石の前に座り込んだまま、焼けていく肉から一度も目を逸らさない。
頃合いを見て、一切れ口へ運んだ。
噛んだ瞬間、思っていたより強い弾力が歯を押し返す。
けれど硬いわけではない。
噛むほどに赤身の濃い旨味が溢れ、その奥から、じわりと舌を温めるような感覚が広がってきた。
「……うまっ」
思わず声が漏れた。
ルーエも一切れ口へ入れる。
眠たげだった瞳が、ほんの少しだけ開いた。
「美味しいですね。お肉の味がとても濃くて……それに、何でしょう。飲み込んだ後まで温かいです」
「やっぱりそうだよな。火脈を食ってたからかな」
「火脈を?」
「ああ。こいつ、火脈から熱を吸ってた竜だったから」
もう一切れ口へ入れながら、何気なく呟く。
「竜って、こんな味なのかぁ……」
ルーエの手が止まった。
「……竜?」
「ん?」
「リヴェルさん。こちら、竜のお肉なのですか?」
「ああ。そうだよ」
ルーエが改めて、火脈石の上で焼けている肉を見る。
「竜のお肉は、滅多に市場へ出ない高級食材ですよ。上等な部位は、貴族や高級店へ流れてしまうと聞いたことがあります」
「……そうなの?」
「はい。私も食べるのは初めてです」
俺は焼けた肉を噛みながら、勇者として旅していた頃を思い返した。
竜なら、何度倒しただろう。
討伐した後は解体をギルドや兵士へ任せ、牙や皮といった使える素材だけを武具へ回していた。
終われば次の町へ向かうか、祝いの席へ連れていかれる。
そこで何を食べていたのかさえ、今となってはほとんど覚えていない。
竜の肉を食べてみようなんて、考えたことすらなかった。
……もったいなかったな。
「まあ、今から食えばいいか」
「……?」
「いや、こっちの話。美味しいな」
「はい」
「むぅ!」
ルーエは僅かに首を傾げたが、ムムは気にすることなく次の肉を待っていた。
もう一枚、火脈石へ乗せる。
火脈を食って育った竜を、火脈から採れた石で焼く。
偶然できただけの料理だったが、この町を出る最後の食事としては悪くなかった。
◆
自室のベッドへ潜り込み、膝に帳面を広げた。
これから訪れる町を比べられるように、今日一日の感想を簡単な点数にして書き留めていく。
料理はうまく、温泉も文句なしだった。
観光地らしく人当たりのよい者も多く、中心部から離れれば、夜は静かに暮らせそうな場所もある。
食べ損ねていた名物を味わい、入り損ねていた温泉にも入れた。
旅先としてなら、また訪れたいと思える町だった。
ただ、安住の地として考えるなら、俺にとって致命的な問題が一つ生まれてしまったのが残念だった。
《湯煙の町フォルネア》
食事 七点
睡眠 未評価
暮らしやすさ 六点
人との距離 六点
匿名性 一点
温泉 十点




