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第10話 宿泊客

 夜。

 夕食と風呂を済ませ、自室のベッドから窓の外を眺めていた。

 月明かりの森を、ソムニウムがゆっくりと進んでいく。


「香辛料の町か……」

 次の町には、各地から珍しい香辛料が集まるらしい。

 フォルネアでは勇者時代に食べ損ねた料理をようやく味わえた。

 次の町にも、昔は知らなかった料理があるかもしれない。

 香辛料と聞けば、前世で食べていたものもいくつか浮かぶ。

「何か作れたりするかな」

 自炊は簡単なものしかしていなかったから、再現できるかは怪しい。

 それでも、何を食べようか考えるだけで少し楽しかった。


 そんなことを考えながら、流れていく景色を眺めていると——不意に、窓の外の木々が止まった。

「ん?」

 ソムニウムが僅かに揺れ、そのまま静かになる。

 町へ着くには、まだ早いはずだった。

 何かあったのかと思い身体を起こす。

 耳を澄ませても、魔物の咆哮や争う音は聞こえてこない。

 ベッドから降り、剣を腰へ差して部屋を出た。

 一階へ降りると、ちょうどルーエが玄関の扉を開けるところだった。

「止まったけど、何かあったのか?」

「はい。ムムが、誰かを見つけたようです」

「誰か?」

 ルーエの後ろから外へ出る。

 ソムニウムは街道から少し外れた草地に停まっていた。

 周囲には森が広がり、夜の冷たい風が草を揺らしている。

 巨大な姿のムムは宿の前方で伏せ、その大きな鼻先を街道の方へ向けていた。

「むぅ」

 低く鳴く。

 その視線を辿ってみると、少し離れた街道脇に人影があった。

 

 大きな背負い袋を傍らへ置き、道標の石へもたれかかるように座り込んでいる。

 三十を少し過ぎたくらいの男で、旅装は土埃に汚れ、目の下には濃い隈ができていた。

「……なんだ?」

 そして、こちらを見た直後。

「う、うわっ!?」

 巨大なムムを目にして、男が道標へ背中をぶつけた。

「魔物——!」

「大丈夫ですよ」

 ルーエがいつもの調子で答える。

「ムムは、人を襲いません」

「むぅ」

「いや、その大きさで言われても……!」

「本当に大丈夫だ。俺もここ数日一緒にいるけど、食われてない」

「それは、安心していい情報なのか……?」

「むぅ」

 ムムは何を疑われているのか分からないように首を傾げた。

「お怪我はありませんか?」

「怪我は……ない。少し、疲れているだけだ」

 そう言いながら立ち上がろうとする。

 だが、膝へ手をついて身体を持ち上げたところで、大きくふらついた。

 俺は咄嗟に腕を伸ばし、倒れかけた男の肩を支える。

「少しって感じじゃないぞ」

「悪い……」

 熱も魔力の乱れもない。

 ただ、食事と睡眠が足りていないように見えた。

「よろしければ今夜、こちらへ泊まっていかれませんか?」

 男は顔を上げ、俺たちの後ろにあるソムニウムを見た。

「宿……なのか?」

「はい。まどろみ亭ソムニウムと申します。移動する宿ですので」

「宿が移動……?」

 理解が追いついていないらしい。

 俺も数日前まで似たような顔をしていたと思う。

「温かい食事と、お部屋をご用意できますよ」

 男の喉が僅かに動いた。

 空腹なのだろう。

 だが、そのまま首を横へ振った。

「ありがたいけど……やめておく。先を急がないといけないんだ」

「そうですか」

 ルーエは、それ以上勧めなかった。

「では、お水だけでもお持ちしますね」

「……え?」

「必要ありませんか?」

「いや。それは、もらえると助かる」

「分かりました」

 

 ルーエは普通に頷き、宿へ戻っていく。

 引き止めも、理由を聞きもしない。

 泊まらないという答えを、そのまま受け取っただけだった。

「……もっと勧められると思った」

「俺も最初はそう思った」

「客商売なのに変わってるな」

「だな」

 戻ってきたルーエから水を受け取り、男は一息に半分ほど飲んだ。

「助かった。いくらだ?」

「お水だけですので、結構です」

「そういうわけにも……」

「では、次に困っている方を見かけた時、その方へお水を分けてあげてください」

 真顔でそう返され、男が目を瞬かせる。

「……変わった宿だな」

「よく言われます」

 言われているのだろうか。

 男は残った水も飲み干すと、木杯を返した。

「ありがとう。少し楽になった」

 

 傍らに置いていた荷物を背負い直す。

「それじゃあ、俺は——」

 一歩、二歩と進み、三歩目で足が止まった。

 男は長い息を吐き、再び荷物を下ろした。

「……さっきの宿なんだけど」

「はい」

「いくらだ?」

「一泊、銀貨一枚です。夕食と朝食も含まれています」

「銀貨一枚……」

 男は自分の財布を確かめ、しばらく考え込んだ。

「……泊まってもいいか?」

「もちろんです」

 ルーエは頷いたあと、男が財布をしまう前に続けた。

「ただ、お泊まりいただく前に一つだけ、お伝えしておくことがあります」

「なんだ?」

「この宿には、眠っている方の悪夢を少しずつ引き離す性質があります。離れた悪夢は、ムムが食べて掃除してくれます」

「……こいつが、俺の夢を?」

 男の視線が、足元のムムへ落ちる。

「いいえ。ムムが食べるのは、この宿によって離れた悪夢だけです。勝手にその方の夢へ触れることはありません」

「むぅ」

 ムムが当然だと言いたげに鳴いた。

 男はしばらくムムを見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。

「……よくわからないが、まあ、構わない」

「ありがとうございます」

 その返事を聞いてから、ルーエは差し出された銀貨を受け取った。


「お食事は、何がよろしいでしょうか?」

「食事まで選べるのか?」

「できる範囲にはなりますが」

「何でもいい。腹に入れば、それで」

「では、温かいものと冷たいものなら、どちらがよろしいですか?」

「……温かいもの」

「お肉とお魚では?」

「肉かな」

「味は濃い方がお好きですか?」

 男は一瞬考えた。

「……濃い方がいい」

「分かりました」

 一つずつ答えるうちに、男の食べたいものが形になっていく。

 数日前の俺と、ほとんど同じだった。


「では、お部屋をご用意します。食事ができるまで、先に身体を休めていてください」

「助かる」

 男が荷物を持ち上げる。

 宿へ入ると、巨大だったムムの身体が小さく縮んだ。

「むぅ」

「……こいつも入ってくるのか?」

「ムムですので」

「答えになってない気がするが……」

「むぅ?」

 首を傾げるムムを見て、男が初めて小さく笑った。

 そのままルーエに案内され、二階へ上がっていく。

 俺は階段の下から、その背中を見送った。

 

 今まで自分が泊まっていた時には、あまり考えたことがなかった。

 ムムが誰かを見つける。

 ソムニウムが足を止める。

 ルーエが食べたいものを聞き、眠れる場所を用意する。

「いつも、あんな感じなのか?」

 厨房へ向かおうとしていたルーエへ、ふと浮かんだ疑問を投げかける。

「はい。ムムは、とても疲れている方を見つけるのが得意ですので」

「でも、一度断られたら引き止めたりはしないんだな」

「はい」

 ルーエは不思議そうに俺を見た。

「泊まりたくないと仰っていましたので」

「でも、口ではそう言ってても、明らかに辛そうなら心配にならないか? 本人の言葉より、体調の方を優先した方がいいとか」

 俺がそう尋ねると、ルーエは少し考えてから答えた。

「どれだけお辛そうに見えても、今ここで休むことより優先したい事情があるかもしれません。私たちを怪しいと思う方もいらっしゃいます」

 そして、静かな声で続ける。

「ですので、私はその方の言葉を否定しません。泊まりたくないと仰るのでしたら、それがその方の答えですから」

「……そうだよな」

 当たり前のことを言われただけだった。

 なのに、その当たり前が妙に胸に残った。

「リヴェルさん?」

「いや。何でもない」

 俺は厨房へ向かうルーエの後ろを見ながら、少しだけ笑った。


 しばらくして、厚切りの肉と豆を香草で煮込んだ料理ができた。

 男の部屋へ運ぶと、料理の匂いに顔を上げたの目に、少しだけ生気が戻る。

「……いい匂いだな」

 食卓へ料理を置き、俺たちは部屋を出た。

 扉が閉まる直前、男が肉を一口食べるのが見えた。

 

 俺も自室へ戻ったが、ソムニウムはまだ動き出していなかった。

 今夜は、この旅人が眠るためにここで止まるらしい。

 誰かを乗せるために立ち止まる。

 それも、この宿にとっては旅の一部なのだろう。

 

 枕へ頭を預け、目を閉じようとした。

 だが、しばらく経っても小さな足音が続いていた。

 行って、戻って、また歩く。

 眠れずに部屋を歩き回っているらしい。


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