第11話 眠りたいのに眠れない時の苦しさ
「……すまない。少し、話を聞いてもらってもいいか?」
廊下の向こうから聞こえてきた声に、俺はベッドから身体を起こした。
少し待っていると、ルーエの部屋の扉が開く音がする。
「はい。どうされました?」
「その……眠れなくてな」
「分かりました。下で温かいものでも飲みましょうか」
「悪い」
二人の足音が階段を下りていく。
そのまま寝ようとも思ったが、俺もベッドを抜け出した。
一階へ降りると、食堂の隅にある小さな卓で男とルーエが向かい合っていた。
卓上には湯気の立つカップが二つ置かれ、足元ではムムが丸くなっている。
「起こしてしまいましたか?」
「いや。俺もまだ起きてた」
「あんたもか。悪いな」
「気にしなくていい」
近くの椅子へ腰を下ろす。
男は両手でカップを包み込んでいたが、飲むでもなく、揺れる湯気をじっと見つめていた。
「眠れないって、何かあるのか?」
「……まあな」
男は曖昧に笑った。
「別に、大した話じゃないんだ。明日のことを考えると、どうにも目が冴えちまって」
ルーエは急かすことなく、男が続きを話すのを待っている。
しばらくして、男は小さく息を吐いた。
「俺は南の町にある小さな商会で働いてる。香辛料なんかを仕入れて北へ運ぶのが仕事なんだ」
「俺たちも、その町に向かうところだ」
「そうなのか。俺は仕入れの話をまとめに行く途中だったんだが、馬車が壊れて二日も足止めされた。明後日の朝までに着かないと、約束に間に合わない」
「それで、歩いてでも先へ進もうとしてたのか」
「ああ。明日一日歩けば、たぶん間に合う」
言葉だけを聞けば、それで話は終わる。
だが男の目の下にある隈を見れば、その一日を歩ける状態ではないことくらい分かった。
「寝ればいいだろ。このまま歩くより、朝まで休んでから行った方が早い」
「分かってる」
返事はすぐに返ってきた。
「分かってるんだよ。でも、横になると考えちまう」
男の指が、カップの縁をなぞる。
「もし間に合わなかったらどうする。取引を切られたらどうする。店に戻って、みんなになんて言う。あの時もっと早く出ていればとか、別の道を選んでいればとか……そういうことばっかり頭に浮かんできてな」
眠れないから疲れ、疲れているから不安が大きくなる。
俺にも覚えのある感覚だった。
「店は、かなり危ないのか?」
「分からん」
男は首を横へ振った。
「俺一人の失敗で潰れるような店じゃない。店主だって、馬車が壊れたなら仕方ないと言うと思う。でも……俺がちゃんとやれば済むことなら、ちゃんとやらないといけないだろ」
男は自分が無理をしていることにも気づいている。
それでも、休んでいる間に何かを失うことの方が怖いのだろう。
ルーエはこれまでも、こうして疲れ切った人たちを何人も宿へ迎えてきたはずだ。
自分ではどうにもできない問題を抱え、それでも休むことすらできなくなった相手に、彼女はいつも何を言ってきたのだろう。
俺は隣に座るルーエへ目を向けた。
「商売のことは、私にはよく分かりません。ですので、その問題をどうにかする方法も、私には持っていません」
「……ああ。そうだよな」
男は最初から分かっていたと言うように小さく呟き、両手で包んだカップへ視線を落とした。
「間に合うかも、どちらを選ぶべきかも、私には決められません。ですが、お話を聞くことはできますし、今のあなたがとても疲れていることは分かります。疲れたままでは、不安が必要以上に大きく見えることもありますから」
「……そうかもな」
「ですので、今夜は一度休んでください。明日の朝、それでも急いで向かうのか、別の方法を考えるのか。その答えは、眠った後のあなたが決めればいいと思います」
男はすぐには何も答えず、カップから細く立ち上る湯気を眺めながら、胸の奥に溜め込んでいたものまで吐き出すように長く息をついた。
「……簡単に言うなぁ。俺だって、さっきから何度も横になったんだよ。だけど目を閉じると、また明日のことを考え始めて、余計に眠れなくなるだ」
「はい。眠りたいのに眠れない時の苦しさを、私はあなたとまったく同じように理解することはできません」
ルーエはそう言いながら、卓の上へ置いていた片手を男の方へゆっくりと差し出した。
「ですので、できることは少ないのですが……眠るまでの間だけ、少しお手伝いしましょうか?」
「手伝う?」
「はい。手を握らせていただければ、今抱えている不安や考え事の重さを、眠りにつくまでの間だけ私が少し預かることができます」
男は差し出された手とルーエの顔を交互に見て、僅かに眉を寄せた。
「……そんなことができるのか?」
「できます。ですが、嫌でしたらしません」
「危なくないのか?」
「あなたにも、私にも危険はありません。気持ちそのものを消したり、考えていることや記憶を読んだりするものでもありません」
ルーエは差し出していない方の手を、自分の胸元へそっと添えた。
「眠るまでの間だけ、今は一人で抱えるには少し重すぎるものを、こちらへ分けてもらうだけです。眠って朝を迎えれば、それはまたすべてあなた自身のものに戻ります」
男はすぐには手を取らず、しばらく差し出された小さな手を見つめていた。
疑っているというより、本当に頼ってしまっていいのかと考えているようだったが、やがて肩の力を抜くと、小さく頷いた。
「……それなら、頼んでもいいか?」
「はい」
ルーエは差し出していた手を下ろして立ち上がり、男が同じように席を立つのを待ってから、いつもと変わらない静かな声で告げた。
「では、お部屋へ戻りましょう」
二人はそのまま並んで階段を上がり、やがて足音も二階の奥へ消えていった。
俺もついていくか少し迷ったが、これは見物するようなものでもないだろう。
そのまま食堂へ残って二人の足音が遠ざかるのを聞いていると、足元で丸くなっていたムムが顔を上げた。
「むぅ」
「お前は行かないのか?」
「むぅ」
問いかけても、ムムは床へ顎をつけ直しただけで動こうとはしなかった。
どうやら今はまだ、こいつの出番ではないらしい。
しばらくして、ルーエが一人で階段を下りてきた。
「眠ったのか?」
「はい。今は、ぐっすり眠っています」
いつもと変わらない様子で答えたものの、椅子へ腰を下ろした瞬間だけ、ほんの僅かに肩から力が抜けたように見えた。
「……ルーエは平気なのか?」
「はい。慣れていますので」
その言葉に少しだけ引っかかるものがあったが、何かを尋ねるより先に、それまで床へ伏せていたムムが勢いよく身体を起こした。
「むぅ」
丸い身体を揺らしながら階段へ向かい、そのまま二階へ駆け上がっていく。
「今度はムムの番か?」
「はい。この宿が引き離した悪夢を、ムムが食べて掃除してくれます」
「俺の時と同じか」
「そうですね」
ルーエは少しだけ間を置いた。
「今回は、もう少し食べやすいといいのですが」
「俺の悪夢を基準にするのやめないか?」
どうやら、あれはよほど口に合わなかったらしい。
しばらくすると、二階から軽い足音が聞こえ、ムムが満足そうな顔で階段を下りてきた。
口元をぺろりと舐めながらこちらへ戻ってくる姿を見る限り、今回は随分と食べやすかったようだ。
「美味しかったですか?」
「むぅ!」
「俺の時と反応が違いすぎないか?」
そう言うと、ムムは俺の顔を見上げ、何事もなかったように視線を逸らす。
その様子を見ていたルーエの口元も、ほんの少しだけ緩んでいた。
「いつも、こうやって客を泊めてるのか?」
「いつもではありません。ムムが、休む必要がある方を見つけた時だけです」
「宿なのに、客を探しながら旅してるんだな」
「探しているというより……ムムが、見つけてしまうんです」
「むぅ」
「疲れてる人の匂いでも分かるのか?」
「疲れや、悪夢の気配を感じ取れるようです。悪夢はムムにとって食事でもありますから」
「なるほど」
その夜、ソムニウムは再び動き出すことなく、一人の旅人が眠るためだけに街道から外れた草原で静かに足を止めていた。
◆
翌朝。
一階へ降りると、昨日の男はすでに食堂へ来ており、昨日までの疲れが嘘のように身体を伸ばしていた。
「おはよう」
「おう。昨日は悪かったな」
目の下に残る隈までは消えていない。
仕事の期限も、壊れた馬車も、取引先との約束も何一つ解決してはいないはずだったが、それでも顔には僅かに血色が戻り、昨夜よりも随分と表情が軽くなっていた。
「眠れたか?」
「久しぶりにな。横になってから朝まで、一度も目が覚めなかったよ。こんなの何日ぶりだろうな」
「それはよかったです」
ルーエが朝食について尋ねると、男は少し考えてから「温かいスープと、できれば卵を食べたい」と答えた。
ほどなくして運ばれてきたのは、焼きたてのパンと目玉焼き、それに根菜をたっぷり入れた温かなスープだった。
男はスープを一口飲むと、ほっとしたように息を吐き、そのまま昨日の夕食よりも早い勢いで皿を空にしていった。
食事を終える頃にはすっかり出発する支度も整い、大きな荷物を背負った男が玄関へ向かう。
「結局、行くのか?」
「ああ」
返ってきた答えそのものは、昨日と変わらなかった。
けれど、追い立てられるように口にしていた昨夜とは違い、その声には自分で決めたことだと思わせる落ち着きがあった。
「急げば、まだ間に合うと思う。ただ、無理そうだったら途中の町から早馬を借りることにした。金はかかるけど、途中で倒れて全部駄目にするよりはましだろ」
「昨日は歩き通すつもりだったんだろ?」
「昨日の俺は、ちょっと考えなしになってたらしい」
男はそう言って苦笑した。
ルーエが玄関の扉を開けると、朝の冷たい空気が宿の中へ流れ込み、その先には夜露に濡れた草原と、南へ伸びる街道が朝日の下に続いていた。
「ありがとう。本当に世話になった」
「はい。お気をつけて」
「問題は、何にも解決してないけどな……」
男は一度だけ背負った荷物を揺らしてから、昨日とは違う笑みを浮かべた。
「でも、まあ。なんとかしてくるよ!」
昨日は、行かなければならないと言っていた。
今は、自分が行くと決めたように聞こえた。
「行ってきます」
「いってらっしゃいませ」
「むぅ!」
男は片手を上げ、南へ続く街道を歩き始めた。
仕事も、約束も、男が抱えていた問題も何一つ消えてはいない。
それでも、一晩眠った男は、自分で選んだ道を自分の足で歩いていった。
男の背中が小さくなると、ムムが巨大な姿へ戻り、ソムニウムが再び動き始めた。
「リヴェルさん」
「ん?」
「以前、次の町が静かそうか気にされていましたよね」
「ああ」
ルーエはそれ以上踏み込むことなく、いつもの静かな調子で尋ねる。
「静かに暮らせる場所を探しているのですか?」
「そのつもりだ」
少し迷ったあと、これまで言わなかったことを一つだけ口にした。
「……俺、実は勇者なんだ」
「はい」
「……はい?」
あまりにも普通に返され、思わずルーエを見る。
「宿帳にお名前を書いていただいていましたし、フォルネアでも皆さんが勇者様と呼んでいましたので。そうなのではないかと、薄々思っていました」
「じゃあ、もっと早く言ってくれてもよかっただろ」
「リヴェルさんからは仰っていませんでしたので」
「……そうか」
それも、ルーエらしいと言えばルーエらしかった。
「それで、今は誰にも知られずに静かに暮らせる場所を探してる。飯がうまくて、よく眠れて、できれば面倒事も少ないところだな」
「なるほど」
「……それだけ?」
「はい」
「どうして勇者がそんな場所を探してるのかとか、聞かないのか?」
ルーエは少しだけ首を傾げた。
「話したくなったら、リヴェルさんからお話しされると思いますので」
「そうか」
「はい」
それだけで会話は終わった。
俺は自室へ戻り、窓辺のベッドへ身体を沈める。
次の町が安住の地なのかは、まだ分からない。
けれど少なくとも、そこへ辿り着くまでの寝床については、もう心配しなくてよさそうだった。




